虹の彼方に<7>

乾いた土に水がしみこんでいくように、レインは自分の心が落ち着いていくのを感じていた。シーヴァスとともに生きていくと、そう決めたあの日から。ずっと自分の悲劇しか見ることができなかったレインに、シーヴァスは新しい一歩を踏み出す勇気を与えてくれた。
見回してみると、彼女を包んでいる世界は優しいものだった。それに気づかなかった自分が恥ずかしかった。でも、手遅れでなくてよかったと、そう思った。彼の思いに応えることができてよかった、と。
自分を包む世界が暖かく優しいものであるのは、きっとシーヴァスが優しく、暖かであるからなのだろう。彼が見せてくれる世界だから、きっと優しいものなのだろう。
目が覚めたとき、いつもの寝室ではなかったのでレインは自分がどこにいるのか、一瞬わからなくて慌てた。だが、昨晩のことをやがて思いだし、シーヴァスの姿を探す。が、彼は部屋の中にいないようだった。レインは、少し残念なような、ほっとしたような気持ちになり、ベッドに起きあがる。昨晩、シーヴァスは、彼自身の言葉通り、レインに何もしようとはしなかった。ただ、ふるえる彼女を抱きしめ、優しく口づける以外には何も。それだけのことで、レインはすっかり安心しきってしまって、今の今まで熟睡していたのだった。シーヴァスがそばにいてくれる、それがこんなに自分にとって安らぐことになっているとは思ってもいなかった。
彼の思いに応えよう、とタンブールではそう思っていた。けれど、本当は違うのだろう。自分の思いに気づいた、そういうことだったのだ。
くすり、とレインは微笑んでもう一度ベッドにもぐりこむ。彼の残り香がするシーツに、一晩中そういえばこの香りに包まれていたなどと思い返してみる。ずっと、思い出さなくてはならないと思っていた。誰か大切な人を思い出さなくてはならないとそう思っていた。
シーヴァスに惹かれるようになってからは、シーヴァスを好きだと認めることが怖かった。愛していた人は別の人。彼を好きになってはいけないとそう無意識に思っていた。だから彼に心を開こうとしなかった。
タンブールから帰ってからは、思い出してもきっと彼を愛していけるとそう思った。もう、大丈夫だとそう思っていた。
けれど、昨日・・・そう、昨日彼女を襲った盗賊の若者。彼はレインの事など金輪際知らない、とそう言ったけれど。タンブールからの帰り、港で聞いたあの声を思い出した。懐かしい声。若者の姿を見たとき、言いようのない不安がレインを押し包んだ。思い出してはいけない、思い出すのが怖い。襲われたことの恐怖よりも、言いしれぬその不安の方が大きかった。シーヴァスに抱きしめてもらわなければ、泣き叫んでしまいそうなほどに。シーヴァスの優しい腕と彼の温もりがもう一度レインを不安から連れ戻してくれた。
けれども。
もし、思い出してしまったら。
その不安はきっと、消えない。消すことはできない。
もし、思い出してしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。レインと呼ばれる、今の自分は消えてしまうのだろうか。かつての自分が今はもう思い出すこともできず、記憶から消えているように、今のレインの思いや記憶は消えてしまうのだろうか。シーヴァスを苦しめ、自分も苦しみ、そしてやっと今、歩き出した、この思いも。記憶も。消えてしまうのだろうか。そうなったとき、自分はまた、シーヴァスを傷つけてしまうのだろうか。
それだけがこわかった。
シーヴァスの顔を見たくなって、レインはまた起きあがる。自分はなんと心弱い人間なのか。彼がいてくれなくては、自分の心さえままならないほどに。
そういえば、着替える服を部屋に取りに行かなくてはならない、とレインは思い出す。とる物もとりあえず昨日はシーヴァスの寝室に来てしまったから、着替えももってきてはいないのだ。しかし、明るくなった今、夜着のまま屋敷の中を歩くことは面はゆくて、レインは寝台の傍らにあったシーヴァスのガウンを上から羽織ると、ベッドを抜け出す。
寝室の隣にしつらえてあるシーヴァスの私室は、常の彼に似つかわしくなく、さして華美なものではなかった。レインが、彼の華美で洒脱な表の顔しか知らず、彼の優しさに気づかなかったように、おそらく多くの人は彼の本当の姿を知らないのだろう、とレインはこの部屋を見て思った。華やかで洗練された豪奢な雰囲気を漂わせた彼しか知らないのだろう、と。
自分を人に見せることに不器用な彼が、いとおしく思えた。彼のことをもっと知りたいと、素直にそう思えた。
レインは、窓に近づくとカーテンをあけ、明るい光を室内に入れた。手入れされた庭園の緑が目にまぶしかった。窓をあけて、部屋に朝の空気を入れる。シーヴァスは、どこに行ったのだろう、とレインは少しいぶかしく思いつつも、もしかすると眠っている自分を起こしたくなくて、先に朝食を取りにいっているのかもしれない、と思い部屋を出ようとした。
「ラビエル」
そう声をかけられたのは、その時だった。レインは、その低い声にびくっと体を震わせ、おそるおそる振り返る。窓辺にたっていたのは、昨晩、レインから指輪を奪った若者だった。
「!!」
レインは驚きと恐れで声さえ出すことができなかった。そして、彼が自分をなんと呼んだかを知り、愕然とする。
『ラビエル』
彼は、今、レインのことをそう呼んだのだ。
「ラビエル、おまえ、本当に俺のことを忘れたっていうのか?」
ゆっくりと部屋の中へ入ってくる若者からレインは後ずさりして逃げようとしつつ、答える。
「ラ、ラビエルなんていう名前は知りません・・・。
 私の名前は、レインです」
「違う、おまえは、ラビエルだ。おまえは本当は俺のものなんだ。
 なのになんで、こんなところにいるんだ、なんで!」
レインは手を胸の前で握りしめ、近づいてくる若者から後ずさりしようとしたが、やがて背が壁にあたってしまった。
「・・・あなた、昨晩は私のことなど知らないと言いました。
 知らないって、言ったじゃないですか」
半ば懇願するような口調でレインは彼に言う。しかし、若者はなおもレインに近づきつつ答えた。
「思い出したんだ、すべてを。おまえと俺のことも、この屋敷のシーヴァスって野郎のこともな」
シーヴァスの名前が出たことにレインは驚く。シーヴァスのこと? 自分は過去においてシーヴァスと関わりがあったということなのだろうか?
「おまえは、だまされているんだ、ラビエル。
 あいつだって、みな思い出しているんだ、お前がなんだったか、
 お前が本当は俺のものだったことも、全部、知っているんだ。
 だが、黙っている。かくしている、卑怯な男なんだぞ、あいつは!」
「そんなこと、ありません。あるはずありません!
 シーヴァスは・・・優しくて強い人です、
 彼は・・・・!」
しかし、レインがその言葉を最後まで言い終わらないうちに、若者はレインの腕をつかんで壁に押しつけた。
「奴と寝たのか? そうなのか?
 それでもう、俺のことなんざどうでもよくなっちまったってのか?」
暗く揺れる炎が若者の瞳に見えた。怒りとも悲しみともつかない色の。レインは若者の言葉に顔を朱に染めながら、若者を見返した。
「彼はそんな人じゃありません。おびえる私を落ち着かせてくれても、自分の欲望を押しつけようとはしません。
 彼は、そんな人じゃないんです」
すると、若者は嘲笑したような笑い声をあげた。
「はっ! 違う、あいつはお前を自分のものにする度胸がないんだ。
 本当はお前が誰のものか、知っているからだ。
 どうして奴はお前の物を奪った俺をつかまえようとしない?
 どうして屋敷の警護を厳重にしない? 俺がつかまったら困るのさ。
 お前の前に俺が引き出されたら困るのさ。
 本当の事を俺がお前に言うからだ。お前の過去を俺が知っているからだ。
 あいつは、卑怯者だ」
「そんな事、信じません! そんな事・・・・!!」
「なんでだ! 俺を裏切っておきながら、どうして戻ってきた!
 しかも、他の男の所になんて!」
若者はレインを壁に押し付ける。レインは息苦しくなって自分を押さえ付ける彼の腕から逃れようと身を捩るが、それがかなわず、苦しさに涙が滲んだ。それよりも、若者の言葉が本当なのか、それが怖かった。こんな人は知らない。そう必死に思おうとした。けれど、その声は、その姿はレインの心にさざ波を起こした。
「知りません、あなたなんて・・・・知りません!!!」
「ちくしょう! なんでだ!」
一瞬、強い力で押さえ付けられたと思うと、レインは唇に若者の唇が押し付けられたのを感じた。シーヴァスの優しい口付けとは違う、激しい、まるで怒りにまかせたような噛み付くような口付け。
「!!!」
レインは、必死でもがくと、若者をつきとばす。そして、口を両手で押さえて座り込んだ。声にならない声が漏れ、涙が溢れた。
「思い出せ、ラビエル。
 お前が俺のことを思い出すまで、俺は何度でもここへ来てやる。」
若者はそう言うと、入ってきたのと同じく窓から外へと出ていった。
レインは彼の姿の消えた窓をずっと放心したように見つめていた。
どうして、こうなってしまったのだろう。
なぜ、こうなってしまったのだろう。
レインの中でその言葉だけが繰り返される。
・・・・グリフィン!!!
彼女は、自分がかつてなんであったのかを、思い出していた。



やがて、レインはゆっくりと立ち上がり、のろのろと窓へ近付くと戸を閉めた。それから、廊下へと出て、自分の部屋へと向かった。しかし、それは何か考えがあってのことではなく、ただ夢遊病のように足が勝手に向かったのにすぎない。
部屋の扉をあけたとき、窓辺の椅子にぐったりと座っているシーヴァスが見えた。
目を閉じた彼の顔には疲労の色が濃く見えた。
自分が天使だったとき、彼のこんな顔を見ることはなかった。レインとして過ごした時間の中で知ったシーヴァスは、自分が天使だったころ思っていた人間とは違っていた。あのころ、自分には本当のシーヴァスなんて見えていなかったのだろう。
ゆっくりとシーヴァスに近付いていくと、その金色の髪に触れる。レインとしての自分が、彼をこんなに愛おしいと思う。けれど、ラビエルとしての自分が、グリフィンを好きだった気持ちを覚えている。・・・どうして、こうなってしまったのだろう。
「・・・? レイン?」
シーヴァスが目を開けると、レインの顔を覗き込む。
「・・どうかしたのか? 泣いているのか?」
途端に椅子からがばっと体を起こし、彼女に触れようとするシーヴァスからレインはつと後ずさる。
「・・・?レイン?」
いぶかし気なシーヴァスにレインは、問う。
「シーヴァス・・・・シーヴァス、あなたは・・・・知っていたんですか?」
その問いを聞いた瞬間、シーヴァスの顔色が変わった。彼は、まるで囁くかのように小さな声でその名を呟いた。
「・・・・ラビエル・・・?」
レインはゆっくりと頷く。一瞬、シーヴァスは端正な顔を歪ませ、そして声をあげて笑った。
「そうか、思い出したのか・・・・思い出したのか・・」
その言葉はやがて消えるように小さな声となり、シーヴァスは泣き笑いのような顔をしてレインの顔を見た。だが、それ以上、何も言わず、椅子から立ち上がるとレインを置いて部屋を出ていこうとした。
「・・・シーヴァス、いつから・・・いつから知っていたんですか?」
レインの問いに、シーヴァスは振り向こうともせずに答えた。
「・・・・タンブールからだ。 あの病の後、君の看病で目覚めた朝、すべてを思い出した。
 君も、すべてを思い出したのだな・・・。
 では、君は本来の君が戻る場所も思い出したということだな。
 ・・・君が行きたいと思うところへ行きたまえ。引き止める権利は私にはない」
部屋を出て扉を閉めたシーヴァスは扉に背を預けて天を仰いだ。
行くな、とすがりつけば良かったのだろうか。
自分の側にいてくれと、頼めば良かったのだろうか。
無様な姿だけは見せたくなかった。
同情や義理で側にいてほしくなどなかった。
それなら強がってみせるしかないではないか。彼女がどこへ行こうとも、引き止めることなどしないと、自分は彼女がいなくとも大丈夫なのだと、強がるしかないではないか。
どうせ・・・元は自分のものではなかったのだから。






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