虹の彼方に<8>

レインは、その日、一日部屋から一歩も外へ出なかった。
一人、部屋の片隅でずっと考えていた。


『俺はお前以外の女なんてどうでもいいんだからな』
照れたような顔でそういった彼の言葉に胸がときめいた。
不器用で、なのに子供のように素直でそんな彼のそばにいたいとそう思った。初めて知る思いだった。これが人の子の言う「恋」というものなのだと思った。


『レイン、君は私に多くのものを与えてくれた』
いつも優しい笑顔で包んでくれた。尽きることのない愛でいやしてくれた。けれど、本当は彼はいつも自分の傷は隠していた。
『君を引き留める権利は私にはない』
そう言って振り返らずに出ていった彼の背中は、傷ついていた。レインよりもずっと深く傷ついていたのは、彼だったのだ。


やがて日が落ち、夜の帳が降りるとレインはベランダに続く窓を開けた。そして、訪れてくるであろう彼を待った。
「ラビエル」
ささやくような彼の声が聞こえたとき、レインはもう逃げなかった。
「・・・・グリフィン」
彼の名を、そう呼ぶ。
「思い出したんだな! ラビエル!!」
グリフィンは、自分の名を呼ぶレインの言葉に部屋の中に勢いよく入ってきた。彼女が窓を開けて自分を待っていたとわかったとき、彼女は自分を思いだしたと、そうすでに確信していた。
「ラビエル、俺と一緒に行こう。
 俺はお前を迎えにきたんだから」
けれど、レインはそのグリフィンの言葉に静かに首を横に振った。
グリフィンはそんな彼女の反応は予想していなかったらしく、驚いたように彼女に詰め寄った。
「なぜだ!? 俺の事を思い出したんだろう?
 俺と、なんて約束をしたのか、思い出したんだろう?
 なのに・・・あいつに義理立てしてるのか?
 あんな奴に義理立てする必要なんか、ないんだぞ?」
それでもレインはゆっくりと首を横に振った。
「ラビエル!!」
「・・・・ごめんなさい、グリフィン。
 私は、もうあなたと行くことはできない・・・・。
 私は、あなたを裏切って天界に帰りました。
 けれど、あまりの悲しさと寂しさに耐えきれず・・・
 ガブリエル様にお願いして、人の子としてインフォスへ戻ってきました。
 私が人の子として生きるために受けた試練、それが記憶の封印でした・・・」
「わかってる、お前が記憶をなくしてたことはわかってる。
 だけど、思い出したんだろう? 
 お前は俺のところへ帰ってきたんだろう?
 ただ・・・・少し間違っただけなんだ、降りてくるところを。
 本当は俺のところへ降りてこなくてはいけなかったんだ、そうだろう?」
「いいえ、違う、グリフィン。
 私は考えていました。私はずっと、記憶の封印はあなたと私が一度は別れてしまった・・・その間違いを帳消しにして、もう一度あなたと私の続きの物語をつづるための試練だと思っていました。
 でも、違うんです。・・・私はやっとその意味がわかったんです。
 あなたと私の恋は、やっぱり、私があなたに別れを告げたとき
 終わっていたんですね。
 ガブリエルさまは、続きをつづるのではなくて、もう一度、新しい物語をつづるために、私の記憶を封印されたのです。
 あなたと出会ったとしても、もう一度最初から始めるために、記憶を封印してくださった。あなたではない人と出会ったとしても、もう一度愛を思い出すために・・記憶を封印してくださったのです。
 私の間違いは、ただ一度だけ。あのとき、あなたについていく勇気を持てなかったこと、それだけが間違いだった・・・・」
そして、その間違いの故に、すべてが変わってしまった。
「俺のことをもう忘れたというのか?
 俺をもう愛していないというのか?」
「・・・いいえ、いいえグリフィン。」
レインの瞳が涙ににじむ。今も。思い出すだけで胸がせつなく締め付けられる。今も、目の前に居る彼がとても好きだと思う。でも。
「あなたと別れた私は、悲しみと自らの愚かさのために
 いつまでもそこから歩き出すことができませんでした。
 ずっとその場に立ち止まったままでした。
 ガブリエルさまは、私の記憶を封印しインフォスにおろしてくださることで、私がそこから歩き出すチャンスをくださいました。
 でも、記憶を封印されてなお、私は歩き出すことができなかった。
 ずっと同じ場所で悲しみに浸ることしかできなかった。
 でも・・・私をそこから歩き出させてくれたのは、シーヴァスの優しさでした。
 悲しみや寂しさや痛みをいやしてくれたのがシーヴァスでした・・・。
 グリフィン、今もまだあなたを好きです。
 あなたを好きだった思いは今も宝石のように胸の奥にしまってあります。
 でも。同じように輝く石が私の胸にもう一つある・・・」
レインの瞳から涙がこぼれた。
「グリフィン・・・ごめんなさい・・・」
俺にはお前以上に好きな女なんてできなかった。
そう言おうとしてグリフィンは、口ごもった。
『グリフィンさま』
イダヴェルの笑顔が思い浮かんだ。ずっとなぜ人恋しく寂しかったのか、ラビエルのことを思い出してからやっとわかった。その寂しさを埋めてくれていたのはイダヴェルだった。
「じゃあ・・・じゃあ、なんで思い出させたんだ。
 お前のことを思い出したりしなければ、俺は・・俺はお前の言う新しい道を歩いていたのに。
 なぜ、思い出させたりしたんだ!!」
「ごめんなさい・・・グリフィン。
 私は、あなたを2度も傷つけました・・・二度も裏切った」
「ばかやろう!!」
グリフィンはそういうと、レインの体を力一杯抱きしめた。
「ちくしょう! お前は本当にバカだ! 天使のときから肝心のときには間違ってばかりのバカヤロウだった!
 そのくせ、頑固で言い出したらきかねえ真面目人間で・・・・
 なんで、俺のところに戻ってこなかったんだ、バカヤロウ!」
「ごめんなさい、グリフィン・・・ごめんなさい」
レインの腕がゆっくりとグリフィンの背中にまわされて、彼を優しく抱きしめる。
グリフィンにもわかっていた。胸の中にもう一つ、輝く石がある。グリフィンの中にも、それはある。捨てられない、捨ててはいけない石があるのだ。
「お前のことなんか、忘れたままでいればよかった」
グリフィンはレインを抱きしめたまま、もう一度そう言った。
「・・・私は、あなたのことを思い出せて良かった、グリフィン。
 あなたを好きだったことを思い出せて良かった。たとえ、どんな終わり方をしても・・・あなたを好きだったと思い出せて良かった」
レインは、グリフィンの肩に顔を埋めて泣いた。
「ちくしょう! 泣くな、お前が俺を振るくせに・・・。
 バカヤロウ・・・・泣くくらいなら、俺みたいにいい男、振るんじゃねえ」
グリフィンはわざと笑うようにそう言った。
「幸せになれ、なんて絶対言ってやらねえからな。
 あんな男に惚れるなんて、お前、見る目がねえよ。
 ほんっっとにバカヤロウだ。
 ・・・もう、お前なんか知らねえ、勝手にしろ!」
そういうグリフィンの声が小さく消えてしまいそうだった。泣きそうになるのを必死でこらえて、グリフィンはもう一度、レインの体をきつくきつく抱きしめる。もう、二度と、この手に抱きしめることなどないだろう。同じ道を歩いていけると思っていた。でも、彼女はその道を降りてしまった。そして、戻ってきたときには、二人の歩む道は離れてしまっていた。その傍らには違う人間の姿がそれぞれにあった。
グリフィンは、しばらく目を閉じてレインの体を、その温もりを忘れまいとするかのように黙って抱きしめていたが、やがて、引き剥がすように体をはなすとベランダへと駆けていった。
そして、一度だけレインを振り返ると
「・・・あばよ!」
そう言い残して、闇に消えていった。
レインは、彼の消えた闇をずっと見つめていた。これでいいと。そう思いながらも、涙を止めることはできなかった。



力無い足取りで2日ぶりに宿に戻ったグリフィンは、部屋の扉をそっと開けた。イダヴェルは、もういないかもしれないとそう思っていた。
結局俺は、あいつに甘えるばかりで何一つしてやれなかった。
すまないと、胸が痛んだ。
だが、グリフィンの戻った宿の部屋は、明かりが灯り、イダヴェルは彼が出ていったときと変わらず、そこにいた。
「グリフィンさま・・・」
イダヴェルはグリフィンの顔を見るとそう言い、一瞬泣きそうな顔になりながらも微笑んでみせた。
「イダヴェル・・・・」
彼女になんと声をかけていいのか黙り込むグリフィンに、イダヴェルは、無理に作ったような笑顔でこう言った。
「あの、あの、グリフィンさま・・・
 私・・・私、ずっとグリフィンさまが優しくしてくださることに甘えて
 ずっと側にいさせていただいてましたけれど・・・
 もう、私、一人でも大丈夫ですから。
 グリフィンさまは、私のことなど気にしないで、自由になってください。
 仕事も、あの、探せばきっと私にも出来ることがいろいろあると思うんです、
 お料理だって覚えたし、自分のことくらいなんとかなるんじゃないかと思って・・・
 ずっと・・・ずっと、ありがとうございました。
 それだけ、お伝えしたくて・・・3日間だけ、お待ちしようってそう思っていたんです。
 最後にお会いできて、良かった・・・」
「ばっ・・・・ばかやろう、勝手に何を言ってんだ、お前」
その言葉を聞いてグリフィンはそう言った。だが、彼女にそう言わせたのは自分だと痛いほどわかっていた。本当は、自分こそ彼女を側に置いておく資格などないのかもしれない。
「お前がいなくなったら、俺はまた自分で作ったマズイ飯食うことになるんだぞ?
 お前以外に誰が俺の面倒見る奴がいるんだよ。
 別に、俺は優しいからお前のこと側に置いてやった訳じゃねえ、
 お前を側に置いておきたかったから、そうしただけだ」
イダヴェルは、グリフィンの言葉に彼の顔を見上げた。グリフィンは改めてイダヴェルの顔を見る。ラビエルとは全く違う顔。初めて、イダヴェル本人を見たような気がした。けれど、穏やかな気持ちになるのはきっと・・・ずっと側にあったのが彼女だということも、自分にはわかっているからなのだろう。
たぶん、これも愛なのだろうと、グリフィンは思った。
捨てられない胸の中の石、それはイダヴェルだ。恋ではなく、けれど愛ではあるのだろう。
見る見るうちにイダヴェルの目に盛り上がる涙を、仕方ねえなあとつぶやきながら指でぬぐってやるとグリフィンは、思った。
たぶん、今日初めてグリフィンはイダヴェルと本当の意味で出会ったのだ。ラビエルが言ったように。新しい道を今日からもう一度歩きだすのだろう。二人で。
思い出したように、グリフィンはイダヴェルに言った。
「なあ・・・・こないだお前に渡した指輪、な。どうした?」
イダヴェルはそっとスカートのポケットに手を入れると指輪を取り出し、グリフィンに渡した。
「悪いが・・・これは返してくれな。
 これは・・・お前に胸張って渡せるもんじゃねえんだ、盗んできたもんだから。
 お前には、ちゃんとお前に似合う指輪を・・・俺が買ってやるから」
イダヴェルは微笑んでうなずいた。たぶん、彼女にはうっすらとわかっているのだろう。でも、そんなことはどうでもいいのだ、彼女には。
「待たせた分な、明日からどこでもお前の見たいところを見せてやる。
 せっかくここまで来たんだからな、楽しんで帰らねえともったいねえだろ」
グリフィンは明るい声でそう言った。
ラビエルを思うと胸が痛んだ。まだ、忘れられないとそう思った。
けれど、今目の前にいるイダヴェルを、大切にしてやりたいと思った。
いつか、彼女の微笑みが、彼を癒してくれるだろう。
いつか、この苦しい思いさえも、懐かしく思うときがくるのだろう。
いつか。






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