緑の大地<1>

「おはようございます、ヴィンセルラスさん」
レイヴ・ヴィンセルラスが朝の訓練に出ようとしたとき、ちょうど彼女が現れた。
「・・・ああ・・・」
レイヴは、少し困ったように返事を返したが、彼女はちっとも動じない。
「これから、お出掛けですか? あの、朝食、作りに来ました」
「ああ、いつもすまない、フローラ。しかし・・・、そんなに気を使ってもらわなくてもいいんだぞ。 それに、そのヴィンセルラスさん、というのはやめてもらいたい。レイヴで十分だ」
「あ、すみません・・・。でも、ヴィンセ・・・いえ、レイヴ、あなたがいなければ私は、どうなっていたかわかりません。あなたは私の恩人です・・・」
レイヴはある日の朝、道端で眠る彼女を見つけた。
無防備に眠る彼女をそのままにできず、何か事情があるかと思い声をかけた。
彼の声に目を覚ました彼女は、自分に関する記憶をすべて失っていた。
そのまま、どうすることもできず、レイヴは彼女を自分の家まで連れ帰ったが、 一人暮らしの家に彼女を置くわけにもいかず、近所の人間の家に彼女を預かってもらったのだった。自らの名前さえも思い出せない彼女を、フローラと名付けたのもレイヴだ。
以来、彼女は毎日レイヴの家に通っては身の回りの世話をしている。
おそらく、彼女は自分が誰かもわからない不安の中で、自分を助けてくれたレイヴをさながら卵から孵ったひなが親鳥を慕うが如くに慕っているのだろう。そうレイヴは理解して、同情もあって彼女のしたいようにさせていた。
掃除も炊事も、仮にも上手いとは言い兼ねたが、彼女はいつも一生懸命だった。
「朝ごはん、何がいいですか? 昨日、新しい料理を教えてもらったんですよ」
「無理はするな、凝った料理よりも食べれる料理の方が俺はありがたい」
「そ、そんな・・・私の料理、おいしくないですか?」
彼女は、とても悲しそうな顔をしてレイヴを見上げる。レイヴは、困ったような顔をして彼女に言った。
「・・・冗談だ。すまん、俺にはそういうセンスはないらしい」
「・・あ、いえ、すみません、私の方こそ、そうですよね、レイヴはそんな事、いう人じゃないですよね」
ヴォーラスの騎士団を辞し、この辺境の地へ望んでやってきたレイヴだったが、自分が何を求めてここへやってきたのかは、まだ自分でもわからずにいた。自警団にも等しいような辺境の騎士団で、今、彼は剣技を含めたすべてを指導している。だが、それが、のどかな人々との暮らしが、彼には心地よくも思えていた。
ヴォーラスの騎士団にいたころ、自分は、ずっとある種の罪悪感を背負い続けていた。自分が見捨てた友人に対して、拭うことのできない罪悪感を。結局、彼は自分一人ではその傷を乗り越えることはできなかった。
敵として再び出会った友人と対峙したとき、彼は自らの命でかつての罪を贖おうとした。だが、それを許さず、彼にそれを乗り越えて生きることを示したのは、敵となった友人自身だった。
罪悪感にさいなまれる中、自らを偽って生きることはつらいと思っていた。しかし、そのために命をもって罪を贖うことは逃げることと同じだと。そう彼に教えたのは、その友人であったのだろうか。時折、そのころのことを思い出すと、ふとぼんやりとした影を思い出すのだ。誰かが、そう、もっと違う誰かがそばにいたような気がする。そんなはずがあるわけないというのに。
「・・・レイヴ? どうかしましたか?」
「・・・ああ、なんでもない。すまん、では俺は出掛けてくる」
レイヴは、不思議そうな顔をしている彼女を後に、家を出た。
いつからだろう。彼女に出会ってからだろうか。
何か、忘れていることがあるような気がする。何か大切なものを。
だが、それを思い出そうとすると、頭の奥がひどく痛むのだった。
だが、彼女に『レイヴ』と、そう呼ばれると、遠い日に、誰かにも優しい声でそう呼ばれていたような気がするのだ。・・・どうかしている。


レイヴが帰ってみると、食堂のテーブルの上には朝食ができあがっていた。
彼女の姿はすでになく、ただ、冷めたスープは温めなおしてほしいという手紙が残されていた。
レイヴは、その手紙をかすかに微笑んで手に取る。
彼女が誰で、なぜ、あの日、あの場所にいたのか。
誰もそんなことを気にしようとしなかった。不思議なことに、誰もが彼女を一目で気に入ってしまったのだ。だから、レイヴが彼女を預かってほしいと頼んだ家の人間も、よろこんでそれを引き受けた。そういう不思議な魂の輝きを彼女は確かに持っていた。
彼女の作った食事を口にしながらレイヴは、自分もまた、彼女のいる暮らしに慣れつつあることに気づいていた。
・・・どうかしている。
そう思うことばかりだ。
しかし、一方でこの暮らしに慣れてしまってはいけない。そう思う自分がいる。
彼女はいずれ、記憶を取り戻すだろう。そうなれば、彼女は本来の自分の場所へ戻ってゆくことになるだろう。
存在することに慣れてしまったものを失うことは、つらい。
ましてや、それを誰より愛しく思ってしまっていたのなら。
だが、なぜ自分はそう思うのだろう。恋などしたことなどない。誰を愛したこともない。
ないはずだ。
「・・・・っつ・・」
激しい頭痛にレイヴはしばし、こめかみを押さえる。
視界が歪み、レイヴは椅子から滑り落ちた。床に手をつき、深く息をする。
いったい自分はどうしてしまったのか。
だが、何か大切な事がこの痛みの先にあるような気がして、彼は痛みの奥のものに意識を集中しようとする。そのとき、扉が開く音がした。
うずくまる彼に、息をのむ気配がし、何かが落ちる音がする。
「! レイヴ!」
彼女の声がする。彼女・・・? 誰だ。レイヴは遠のく意識の中でその聞き覚えのある声を思い出そうとする。


『レイヴ、しっかりしてください! レイヴ!』
そういって抱き起こされたのは、いつだっただろう。捕らわれの身になった自分を、助け出してくれたのは、誰だっただろう。
目を覚ましたとき、レイヴはベッドに寝かされていた。
額には濡れたタオルがあてがわれており、枕元には水が用意してあった。
意識を失う直前に聞いた声はフローラの声だった。不思議と、あのときは気づかなかったが、今はわかる。『しっかりしてください!』そう、言っていたのも彼女だ。
頭痛のせいで、おそらく、過去の記憶とその時に聞こえていた声がよくわからなくなっていたに違いない。捕らわれの自分を助けてくれたのは、口は悪いが腕は立つ友人だ。女性だったはずがない。
「レイヴ! 気がついたのですか、良かった」
そのとき、フローラが入ってきた。
「ああ・・・すまない、迷惑をかけたな」
レイヴはベッドに起き上がってそう言った。しかし、そんなレイヴをフローラはもう一度ベッドへ寝かそうとする。
「だめです! まだ起き上がっちゃいけません。おとなしく寝ていてください」
「・・あ、ああ・・」
その勢いに押されて、レイヴはもう一度、横たわる。
フローラは、レイヴの額のタオルを取り替えた。そのときに、彼女の冷たい手がレイヴの額に触れた。細い指と小さな手。だが、不思議な安心感が流れ込んでくるのがレイヴには感じられた。自分は、もしかしたら、この記憶をなくした少女を愛しはじめているのかもしれない。
だが、それは、彼女自身を愛しているのか、それとも、時折脳裏を横切る思い出せない何かを彼女が連想させるからなのか。それは、わからなかった。ただ、レイヴの中で何かが変わろうとしている。それだけは、わかった。






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