CHANCE 1
 その日、晴天の爽やかな朝に似合わず、彼らの気分は爽やかにはほど遠いものだった。昨夜は…というか今朝は結局、明け方まで4人そろって眠ることはできなかった。それというのも、明け方まで誰がむぎと一緒の布団で寝るのかなどという不毛な話し合いが外で続いていたからで、いい加減、今更の時間では誰の布団で眠ろうと眠るまいと同じだと気づいたのが、つい先ほどといった具合だった。そんなわけで、彼らが一晩中不毛な時間を過ごしていたことなど預かり知らぬむぎだけが、爽やかな朝を満喫していた。彼らが部屋へ帰ってきていくらもたたないうちに目を覚ました彼女は、朝からもう一度温泉を堪能しに行き、ほかほかして帰ってきた。男4人はといえば、なにが悲しくて朝から男どうしで温泉に入らねばならないのか、というわけで、部屋で4隅に散らばっていた。窓辺の椅子に座って本を読んでいる依織、部屋の座卓で新聞を読んでいる一哉、テレビを見ている麻生、音楽を聴いている瀬伊。お互いに全く会話はなかった。会話なら夜の間にうんざりするほどしたから今更だ。あれを意志疎通のある会話と呼ぶなら、の話だが。
しかし、彼らにはまだもう一つお互いに牽制しあわねばならない事柄があった。……それは、この松本からの帰路、誰がむぎと一緒になるか、ということだった。行路は、むぎの希望もあって、依織の車で一緒に来たのだった。これは依織にとって、昨日までは自分に有利と思われる出来事だった。しかし、今となってはそれはあまり自信のあることではなくなっていた。当初は、彼女は4人とも一緒に松本へ行こうと言っていたのを、誰か一人を選べと言われて依織を選んだのだ。そして昨夜も、皆一緒に眠ればいいと言ってあの有様だった。つまり、彼女は4人のうちの誰かを特別に思っているわけではなくて。行路のパートナーに依織を選んだのも、車が良くて、一哉より運転歴の長い依織を選んだというだけかもしれない。そして悪しき平等主義を発揮して帰りは依織以外の3人のうちの誰かと一緒に帰ろうと思うかもしれない。そう考えると、つい眉間に皺が寄ってしまう。先ほどから手元の本のページも進まない。とはいえ、他の3人も気になるのは同じらしく、一哉も新聞の同じページをみたままだし、麻生はといえば普段なら絶対にみないであろう経済ニュース番組をぼんやり眺めている。
そんな4人の様子に気づいているのかいないのか、むぎは朝ご飯の後も結構、ご機嫌だった。荷物は隣の部屋に置きっぱなしだったので、今はその荷物をまとめてくるといって、この部屋にはいない。妙な緊張感が部屋に満ちていて、誰が最初に口を開くかと互いに様子を伺っているかのようだった。しかし、そんな空気をものともせずに、すべてを一瞬で解決してしまうのも、結局、むぎなのだった。
「あれ、みんなもうチェックアウトの準備できてるの? 待たせてたんならゴメン! ええと、それじゃ依織くん、よろしくね」
何のためらいもなく、そう発せられた言葉に依織は先ほどまでの緊張も嘘のように、天にも昇るような心持ちになって椅子から立ち上がった。勝者の余裕で残り3人を見回す。
「じゃ、そういうことで」
心なしか、声も弾んで聞こえる。唇をとがらせた瀬伊が、むぎに向かって言う。
「むぎちゃん、松川さん、昨日の夜あんまり眠ってないんだよ? 居眠り運転でもされたら大変じゃない? 松川さんが事故るのは自業自得だけどさ、君が危ないのは許せないな。その点、電車なら平気だよ?」
「瀬伊、あいにくだけど、僕はもともと眠りが短い質なんでね、徹夜の2日や3日、たいしたことじゃないんだよ」 依織はすかさず、そう言うが、むぎは不安そうな顔を依織に向ける。慌てて依織はむぎに向かって言う。
「本当に、大丈夫だよ、君が気になるなら、SAでこまめに休憩を取るようにするから…」
「本当に大丈夫? 依織くんが居眠りしないように隣でずっとおしゃべりしてた方がいいかな?」
「それはもちろん! 君の声を聞き逃さないように、絶対眠れないね」
むぎの言葉に勢いこんで依織がうなずく。瀬伊は小さく舌打ちをして音楽を聴いていたイヤホンをはずし、荷物の中につっこんだ。
「……そういうのなら、俺も同じなんだが、鈴原。俺の事故の心配はしないのか」
「バイクだってそうなんだぞ、お前が後ろに乗ってくれたら俺だって安全運転心がけるしだな……」
一哉と麻生が不公平だと言わんばかりに言うのに、むぎはちょっと困ったような顔を見せる。
「でも…」
「いいんだよ、気にしなくって。それじゃ、皆、またね」
何か言おうとするむぎの背を促すようにして、依織はさっさと荷物を手に部屋の外にでた。これ以上、何か横やりが入って、彼女が気を変えてはいけない。
部屋の外に出てからも、むぎはちょっと気になる様子で後ろを振り返る。すまなそうな顔なのに、依織は少し気になって確かめるように尋ねた。
「一哉と帰りたいかい?」
言った後で我ながら余裕がない、と少し情けない気がして自嘲気味な笑みを浮かべる。その言葉にむぎは依織に向き直って、やっぱり困ったような顔をした。
「……なんだか、あたしのワガママで一哉くんたち、気を悪くしたんじゃないかなと思って」
「いいんだよ、誰か一人を選べと言ったのは僕たちなのだし、彼らだってそれは納得済みのことだろうから」
それよりも、依織にはむぎの「あたしのワガママ」という言葉が気になっていた。依織と帰るということが、むぎのワガママというのはどういう意味だろう、と。もちろん、依織にしてみれば、この上なく嬉しいワガママではあるし、これから家へ帰るまでの時間を有意義に使いたいとは思っているのだが。
車に乗り込んでからのむぎは、先ほどの瀬伊の言葉を間に受けたのか、助手席でしゃべりっぱなしだった。依織が卒業した後の、祥慶学園のことや友人たちとの他愛ない話題のこと、雑誌で見た流行のスイーツのことなど、それこそ途切れる間もなく話し続ける。むぎの声が聞けて、それはそれで嬉しいうえに、それがただ一人、自分だけに向けられたものなので嬉しい依織ではあったが、瀬伊の言葉を信じているにしても、まるで沈黙が怖いかのようなその話しぶりに、何やら少しばかり疑問も生じる。
なんだか、緊張しているように見えるのだ。もしかして、自分の運転に不安を感じているのだろうかと、依織は少し早い目かとは思ったがSAに休憩に入った。
「少し、休憩しようか」
そう声をかけると、むぎは確かにほっとしたように見えた。せっかくの二人きりのドライブなのだから、できる限りむぎにも楽しんでもらいたいのに、これでは全く意味がない。車を降りた依織は瀬伊かなり恨めしく思い、むぎにわからぬように小さくため息をついた。
休憩所に座るむぎの元へ、自販機で買ったコーヒーを持って行く。
「コーヒー、ミルク入りで良かったかな」
あの家にいた頃のむぎの好みを思い出して言う。ぼんやりと座っていたむぎは、依織を見上げて、慌てた。
「ゴ、ゴメンね、依織くん。あたしの分まで…」
かばんを取るむぎの手を、コーヒーをテーブルに置いて、そっと押さえる。
「コーヒー代くらい気にしないで。それより、むぎちゃんこそ、何か疲れてないかい? それとも、瀬伊が言ってたこと、気にしてる? 僕の運転は危なっかしかったかな。あるいは……残してきた3人のうちの誰かが気になる……とか」
探るように最後の言葉は少し低めの声で囁く。むぎはそんな依織の言葉に顔を伏せる。その意味が掴めず、依織は不安になる。君のワガママで俺と帰ることにしたんだよね? それはいったい、どういう意味だったんだい? たとえばあの3人のうちの誰かへの当てつけとか? そんなことをするとは思えないけれど。でも……。
こういう時こそ何か気の利いた言葉を言うべきかと思うのに、むぎを前にすると、不安になり、そして何もいえなくなる。
それでも依織が何か言おうと口を開きかけたとき、むぎが何かを決心したかのように、真っすぐな瞳をして顔をあげた。
「あの…あのね、依織くん!」
「……うん、どうしたのかな」
そこで依織はまた、余裕ある大人の仮面を被りなおす。先を促すように微笑むと、むぎはまた少しうろたえるように目を泳がせ、それでも大きく息を吸うと、鞄を引き寄せてチャックを開けた。
中からとりだしたのは、ファンシーな紙袋。覚え間違っていなければ、駅前のファンシーショップのものだ。そういえば、さっき車の中で友人たちと買い物に行った話をしていた、と思い出す。むぎは、その紙袋をずい、と依織に向かって差し出した。
「……え?」
とっさに意味を理解できずに間抜けな声を出してしまった依織に、むぎは照れくさそうに少しばかりそっぽを向きながら、小さな声で言った。
「……その、この前、夏実たちと買い物に行ったときに見つけたの。依織くん、好きそうだと思ったから買ったんだけど、なかなか渡せなくて」
ぼそぼそと言うむぎの頬が、薄桃色に染まっているのは見間違いではないと依織は思いたかった。
「俺に……? ありがとう、嬉しいよ……!」
本当に心からそう言った。
「本当は皆で夕食食べた日に、送ってもらって渡そうと思ったんだけど、照れくさくて渡せなくて。昨日、行きのと途中で、と思ったんだけど、それもなんだか間が悪い気がして。みんながいたらやっぱり渡せないし。だから、帰りも一緒に帰ってもらって、別れ際に渡そうと思ったんだけど。なんか考えたら緊張しちゃって」
「緊張? どうして。ねえ、中を見てもいいかい?」
うきうきした声を隠しきれずに依織はそう尋ね、紙袋を開ける。中から出てきたのは、風景写真集に現代語に訳した万葉集が掲載された写真詩集だった。
「…依織くん、写真集も詩集も好きだったし、なんだか好きそうかなと思って」
「ありがとう。……ねえ、中は読んだ?」
ぶんぶんとむぎは首を横に振る。
「なんだか、その場の思いつきで買ったはいいけど、なんて渡せばいいかわかんないし、他の3人にちょうどいいものはなかったから、依織くんにだけっていうのも、なんか変かなとか思いだして。いつ渡そうとか考えだしたらぐるぐるしちゃって。緊張しちゃった。なんか、変だね、緊張するような間柄でもないのに」
「そうだね。でも、うん、僕にだけ、っていうのが特に嬉しいかな」
「だっ、だから、それはたまたま他の3人にちょうどいいものがなかったからで…」
でも、それなら俺にも何も買わずにすませることだってできたのに、そうはしなかったんだよね、と依織は心の中で呟く。幼くて、こんなにもあんなにもあからさまな4人の気持ちに鈍感なむぎの心に、何か変化が起こっていると期待してもいいのかもしれない、と考える。
「ねえ、お礼にいつかこの詩集を君に読んであげる。眠る前にね。でも万葉集も熱烈な愛の歌が多いから、眠れなくなってしまうかもしれないね」
嬉しさの余りにさっきまで何も気の利いた言葉が浮かばなかったことが嘘のように、滑るようになめらかに誘い文句が口を出てくる。むぎはといえば、ところがそんな言葉、歯牙にもかけないとばかりに唇を尖らせて答える。
「……あたし、依織くんと一緒に寝たりしないよ?」
しかし、その表情も言葉も依織にはどこか強がって言っているようにしか、もう見えなかった。
「……今は、ね」
むぎの中で自分は、少しだけ特別になっている。それが何よりも嬉しかった。問題は、ただ……自分が普段、彼女のそばにいられないことだ。けれど、案外、卒業してしまって日常的に会えなくなったからこそ、彼女の中で自分が少し特別になったのかもしれない。
他の誰にも渡したくない。彼女以外は欲しくない。そう思うようになってから、どれくらいになるだろう? 今の自分があるのもむぎのおかげだった。
「今は、って……」
その言葉に何か異論がありそうな口振りのむぎだったが、それ以上の否定はしなかった。
これはチャンスだ。前髪しかないというチャンスの神をしっかり捕まえ逃しはしない。他の誰にも譲らない。
祥慶を卒業してしまって、仕事を始めてから、彼女とどうやって会う機会を作ろうか考えてばかりだった。その悩みはこれから彼女を送り届けるまでの時間で解決すべき再重要課題となったのだった。




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