CHANCE 2
「え〜と、今日の夕飯は何にしようかな。明日の分は明日考えるとして…」
むぎは買い物かごの中を覗いて呟いた。新学期が始まって、むぎも無事に高校2年生に進級できた。昨年は、ニセ教師になったり秘書になったり、はっきり言って年相応の学業にいそしむ暇がなかった。家に帰れば家政婦の仕事があったし、これがまた容赦なくこき使う生活無能力者が4人もいたので(それでも秘書時代は家事を手伝うということを覚えた者もいた)本音を言えば、進級できるか心配だったのだ。なんとか進級もできて、平穏な生活を取り戻したのだが。1年前とは全く異なってしまったこの暮らしを果たして平穏と言って良いのか少し悩むところだ。もうひとつ、今が平穏と言っていいのか悩むのが、明日の夕食だった。
それは、一ヶ月ほど前、商店街の抽選で温泉旅行が当たったことから始まる。なんだかんだで賑やかに、ラ・プリンス4人との旅行は終わったのだが、その往復は全員で一緒というわけにはいかなかったのだ。結局、乗り慣れた依織の車で移動をしたむぎだが、依織を選んだ理由はもうひとつあった。たまたま夏実たちの買い物につきあったとき、依織の好きそうな詩集を見つけて買ってしまい、渡そうと思っていたからだ。タイミングをつかめず結局行きの車中では渡せなかったので、帰りも依織と一緒に帰ることになり、やっと渡せたのだった。
(だいたい、依織くんにプレゼントを買ったのだって、なんか魔が差したとしか言えないよ)
たまたま目に留まった詩集に、(依織くんが好きそう)と思ったら気がついたら手に持っていて、どうしようか迷っているうちに、なぜかレジにいたのだ。あれはきっと夏実たちが買い物をしていたから自分も流されたに違いない。……とはいうものの。今のこの状況はいったい、何に流されたのか。そう、明日の夜は依織が夕食を食べにくるのである。あの旅行以来、毎週、2回は彼が食事をしにむぎの家にやってくる。それは、多分、他愛もない車中での会話からだったと思う。
『それにしても、一人暮らしを始めてから、むぎちゃんの手料理が懐かしいよ』
SAで休憩がてら軽食を食べていたとき、依織がそう言ったのだ。
『でも、依織くん仕事柄おいしいお店とか行ってるんじゃないの?』
『毎日外食をしているとね、どんなおいしい店の料理だって飽きてくるんだよ。むぎちゃんの手料理は飽きなかったし、本当に美味しかったよ』
しみじみそう言われて、むぎも悪い気はしなかった。あの4人の中でも依織は偏食がなく、食事を褒められることはあれど、文句を言われたことはなかったことも思い出した。
『あたしも、一人暮らしになって、一人でご飯食べるようになってから、なんだかちょっと寂しいなって思うよ。』
それは本当のことだった。一人の食卓には会話もなくて、ついついテレビが話し相手になってしまったり。あの邸での暮らしが懐かしくなったりしたものだった。そんな懐かしさを込めた寂しさを口にしたむぎに、少し意外なことに依織もうなずいたのだった。
『わかるよ。一緒に食事をとる人がいる、賑やかな食卓がどんなに食事を美味しくするものなのか、って本当に感じるよ。おかげで、このところ、何を食べてもさほど美味しく感じられなくてね。少し痩せてしまったかもしれないな』
『えっ、依織くんが痩せたの?』
もともと、無駄に肉などついていないすらりとした長身だった依織が、さらに痩せたとなるとどんなことになってしまうのか、むぎは驚いてしまった。少なくとも自分があの家で家政婦をしていた頃は、健康管理も含めて食事に気を配っていたものだ。それをたかだか一月もたたないうちに無駄にしたというのか。本当にこの人はしようがない……。むぎは心の中でそんなため息をついた。
それにしても、依織が賑やかな食卓が懐かしいなどとは意外だった。彼は、むぎにはとても優しかったし、他の3人とも概ね上手く付き合っていたけれど、ある一線からはけして他人を自分の側に立ち入らせない印象があった。その雰囲気は徐々に和らいでいったようではあったけれど、むぎには依織はやはりどこか、遠くに心がある人であった。しかし、この温泉旅行の往復で少し依織が近く感じられたのも本当で。さらに、自分が一年がかりで果たした正しい食生活がものの一月たらずで元にもどったのが癪だったりもして。そして、多分、きっと、一番は自分も寂しかったりしたのだろう。むぎから言い出してしまったのだった。
『しようがないなあ、依織くんてば。じゃあ、夕食、うちに食べに来てもいいよ。忙しいのに、食欲なくて食べられないなんて、倒れちゃうでしょ。うちに来てくれたらご飯くらい作ってあげる』
そう言うと、依織はかなり驚いた顔をして、けれどすぐに嬉しそうな顔をした。そのくせ、口に出しては
『そんな、悪いよ。むぎちゃんにまたそんな甘えてしまうなんて』
と言う。大人な顔して、こんなことくらい素直になればいいのに。そんなふうにむぎは思ったので、更に言ってしまったのだ。
『一人分も二人分も変わらないもん。それにほら、あたしも一人の食卓じゃ、なんかつまらないからさ。別に無理にとか、毎日とかいうわけじゃないし。仕事が暇なときとか、手料理が食べたくなったときとかさ。あ、でも前もって連絡してくれると嬉しいけど。準備とかあるから』
あれ、なんで自分からこんな熱心に誘っているんだろう、とむぎは一瞬思ったのだが、言ってしまったものは仕方ない。依織は、ありがとう、と言って、それから、不定期ではむぎちゃんも大変だろうから、と、曜日を決めて一緒に食事をしよう、と提案したのだ。そして、むぎもその方が良いね、と同意したので、以来、週に二日、依織がむぎのところに夕食を食べに来るのだった。
その日は、依織は夕食を作ってもらうのだから、と自分で食材を用意して持ってくる。どこで買ってくるのか、と一度尋ねたら、『僕だって買い物くらいするよ。スーパーでの買い物はむぎちゃんに鍛えられたしね』と笑って言われた。たしかに、あの家に住んでいた頃、唯一車を持っていた依織には、スーパーでの買い物の荷物運びに付き合ってもらったものだ。
そんなわけで、明日は依織がやってくる日で、食材を用意しなくても良い日なのだった。彼が持ってくるものは、好きだというだけあって、魚や和食の材料が多い。腕の振るいがいもある。それに、むぎのためにとスイーツも忘れない。
(別に、スイーツにほだされたわけじゃないけどさ)
話し相手がいる週に2回の食卓は、むぎにも少し楽しみなものとなっていたのだった。しかし、そのことは、誰もしらない。親友の夏実にさえも話していないのだ。
(一応、依織くんは旬な芸能人なんだし、あんまりペラペラ話をして噂になったりしたら悪いしなあ)
と思ってのことだが、とはいえ夏実や遊洛院さんなら大丈夫だと思うのに、何故かその二人にも話す気にはなれなかった。それもむぎにとっては少し不思議だったが、あまり深く考えてはいなかった。


「なんか、今日はお料理っていうほどお料理じゃなくて、いいのかなあ」
「いいんだよ、ちょうど実家からもたされたからね」
その日、依織が持ってきたのは鰹のたたきだったのだ。しかも冷凍ものではない、生のままのものだ。おかげでむぎは副菜にお浸しとちょっとした煮物を作るくらいで良かった。
「実家から、って、依織くん、お料理するって思われてるの?」
「まさか。ただ、料理をしてくれる人がいる、とは思われているのかもね」
さらりと言われて、むぎは反応するのに困った。
「……週に2回だけのことだし。別に、そういう関係じゃないし」
「……そういう、ってどういう関係?」
にっこり笑って依織が言うのに、むぎは口を不満げに尖らせた。その表情に、依織は苦笑して視線を落とす。
「……ごめんごめん。怒らないで。家には言っておくから。まだ、そんな関係の人じゃない、ってね……」
「……まだ、って」
折りに触れて、依織はそういう言い方をするが、むぎは少し反応に困ってしまうのだ。どこまで本気でどこまでが依織のからかいなのかがわからない。それに、自分もそんな気持ちはないはずだ。だから、そんな風に言われる度に、戸惑ってしまって、どう反応していいのかわからなくなるのだ。自分は、依織と違って、色恋事の経験はなくて上手にそういう言葉を冗談として流せないのだから、手加減して欲しいと思うのだ。
「……でも、一緒にこうやってご飯を食べてくれて、そして僕が食事を一番美味しいと感じる相手だっていうことは本当だから、ね」
そんな風に言う依織が、何処か少し寂しそうに見えてしまうのに、むぎは少しどきりとしたけれど、自分の目の錯覚だとそれを押し殺してしまったのだった。
依織はといえば、その後はむぎが話す学園での出来事の聞き役に徹していた。それはずっと同じことで、麻生や瀬伊の様子を尋ねたり、学校帰りの友人たちとのショッピングや、気に入って買った文房具の話や、本当に他愛のないことを、楽しそうに聞いてくれるのだ。むぎは自分でも気づいていなかったが、食べる間も惜しむように、依織に話したいことがたくさんあった。誰かに聞いて欲しいことがたくさんあって、依織はそれを聞いてくれた。ただ頷いてくれて、欲しいときにはアドバイスもくれた。友人たちと過ごす時間とも違う、安心できる時間がそこにはあった。
「ごちそうさま。いつも本当にありがとう」
「ううん、こっちこそ、いつもなんだか食材も良いもの持ってきてもらっちゃって。気を使わなくてもいいのに、依織くんてば」
あの家とは違って普通の家であるむぎの家はキッチンもダイニングも通常サイズだ。食器を流しに運んでくれた依織がむぎの後かたづけを手伝おうと隣に立つと肩が触れ合いそうになる。
「依織くん、後かたづけはいいから」
いつもそう言うのだが、もう家政婦でもなんでもないのだから、料理を作ってもらった挙げ句に後かたづけまでしてもらうのは申し訳ないといって聞かないのだ。
それから、お茶を入れて持ってきてもらったスイーツを楽しんで、遅くならないうちにと依織は帰っていく。
その帰り際に少し寂しいと感じるようになったのはいつからか、むぎにもわかっていなかった。


「ねえ、むぎ。今日、帰り買い物して帰らない?夏物の新しい商品が駅前のお店に入ったみたいだよ」
夏実にそう声をかけられたむぎは、しかし即座に頭を下げた。
「ごめん、今日はちょっと用事があって。また今度埋め合わせするから!」
手を合わせて、そう言い残すと、あたふたと教室を出ていくむぎに、夏実と十和子は顔を見合わせた。
「最近、なんだか様子がおかしいですわよね?」
妙にそわそわした日があったり、変に饒舌な日があったり。しかし、何かあったかと尋ねても何もないとしか答えない。
「むぎに限って、隠し事なんて、とは思うけど」
あの様子なら別に悪いことというわけではないと思うのだけど、と夏実が呟く。ただ、自分たちと一緒に過ごすよりも最優先したいこととは何だろう、とは思う。
「……友達より大事っていうと……彼でもできたかしらね? でも、それなら話してくれるもの、むぎに限ってまさかねえ?」
独り言のように呟いたその夏実の言葉に、背後から答えが返ってきた。
「それは聞き捨てならないなあ。むぎちゃんが、どうしたっていうの?」
「いっっ、一宮さんっ!」
「瀬伊さまっ!」
二人が叫ぶのが同時だった。しかし、瀬伊は二人の様子には構わず、夏実に顔を寄せてにっこり笑う。その笑顔が何より危険ということは、むぎから聞いて夏実はよくよく知っていた。
「ね、丘崎さん。むぎちゃんが、最近、どうだって?」
夏実は、心の中でむぎに向かって手を合わせて謝ったのだった。




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