CHANCE 3
その日、夏実たちの誘いを断って帰って来たということを、むぎは依織には言わなかった。というか、別にその日が初めてというわけでもなく、依織が来る日は学園から早く帰ってくるのが習慣になっていたので、特に気にしていなかったのだ。ましてや、そんな自分の行動が周囲から不審に思われているなどとは思ってもいなかった。最初の頃こそ、気をつけていたものの、この秘密の夕食会はいつの間にかむぎにとっては日常的なことになっていたのだ。だから、本当にその日、訪問者が現れたことはむぎにとって、驚きだった。
そのとき、むぎは今日の献立のパスタを茹でようとしていたところで、依織はといえば勝手知ったるとばかりに、パスタ用の皿を出しているところだった。普段、夕方の訪問者などいないのに、突然のチャイムの音に、むぎは驚いて火を止める。
「だ、誰かな。夏実たちかな? ど、どうしよ…」
「何か、今日、用事でもあったのかい?」
「ううん、帰りに買い物に誘われたけど、断ってきたの。何かあったのかな。……うん、まあいいや、玄関先で帰ってもらえるように誤魔化してみる!」
そう言ってむぎがキッチンから玄関へ向かう。依織はその背に向かって「ちょっと待って、むぎちゃん!」と慌てて声をかける。相手を確かめずに玄関を開けるのは止めるんだ、と言う前に、しかし、むぎは玄関の扉を開けてしまったようだった。
「せ、瀬伊くん?! あ、麻生くんも……ど、どうしたの」
ああ、ほら…。と依織は苦くため息をついた。できれば彼らにはもう少しの間、気づかれたくなかったのにね。そう思いながら、依織も玄関へ向かった。
「鈴原さん、なーにか、最近、僕たちに隠し事してなあい?」
「か、隠し事って? 何もないよ。それより二人して急に家にくるって何か用だった?」
「いや、俺は別に……ただ一宮が、なんかお前の様子が変だっていうから…」
歯切れ悪く麻生が言うのに、瀬伊がじろり、と麻生を睨んだ。
「羽倉、ついてきといてこんな時だけ、いい子ぶるなんてズルいんじゃないの。君だって気になるから来たんだろ」
「……そ、そりゃそうだけど…」
「ねえ、鈴原さん、慌てて家に帰って夕食を準備しなくちゃいけない用事って何? もし、困ってることがあるなら、相談してくれなくちゃイヤだよ? 僕は君の味方なんだから。君に苦労かけてる厚かましい人間がいるっていうなら、文句言ってあげるから」
「いや、別に、何もないよ。考えすぎだよ、瀬伊くん。今日はたまたま、たまたまってだけで。別に何もないって……」
「本当に?」
疑わしげにそうなおも食い下がる瀬伊に、むぎが口ごもって困っているのが依織には良くわかった。むぎは嘘がつけない人間だ。そして、瀬伊は多分、大方のことについて察しがついているのだろう。依織はため息をついて、むぎの背後から玄関先へ出て行った。
「瀬伊。君の問いつめ方だと、君の方がむぎちゃんに迷惑かけてるみたいだよ」
「い、依織くんっ!」
「ま、松川さん?! 何で?!」
むぎと麻生が驚いて声を上げるのが同時だった。しかし、瀬伊は驚いた様子も見せずに、依織に向かって肩をすくめた。
「やっぱりね。一哉が松川さんか、どっちかだと思ったんだ」
それからにっこりと笑顔を作って、むぎに向き直る。
「やだなあ、鈴原さん。松川さんと付き合ってるっていうなら、そう言ってくれればいいのに」
「え、ええっ?」
「だって、こんな風に夕食を家で一緒に作って食べる仲なんでしょう? 違うの?」
「ち、違うよっ、別に、そんな、付き合ってたりするわけじゃないよっ」
顔を赤くしてむぎが瀬伊の言葉を否定する。瀬伊はその言葉に勝ち誇ったような笑みを一瞬浮かべて依織を見やり、依織は小さくため息をついた。
「なーんだ、そうなんだ。良かった! じゃあ、どうして松川さんだけ、むぎちゃんちでご飯食べてるの?」
「そ、それは……それはね、依織くんが仕事忙しくて、なかなかご飯食べられないっていうし…」
「へぇ〜、芸能人って僕らと違ってもっと高級なお店とか、顔パスで入れたりするんじゃないの?」
「こっ、高級なお店だと家庭料理とか食べられないでしょ。依織くん、一人暮らしだし、家庭の味とか食べてみたくなるときとかあるだろうし」
「鈴原さん、僕だって一人暮らしだよ? 松川さんなんて家庭の味が懐かしかったら羽倉みたいに実家に帰ればいいじゃん」
「一宮、お前な……実家だからって家庭の味が食卓に並ぶ家ばかりだと思うなよ」
「うるさいな、羽倉、どっちの味方なんだよ」
「玄関先でうるさいよ、瀬伊。それで、君たちは何を言いにきて、どうしたいっていうんだい」
ため息をつきながら依織がそう言うと、むぎはほっとしたような顔を依織に向けた。
「そうだなあ。松川さんだけ、彼女の手料理を食べられるなんて、不平等だよね? 彼氏でもないのにさ。僕たちだって久しぶりに食べたいなあ。ねえ、羽倉?」
「う……なんで、俺に振るんだよ」
「それじゃ、どーでもいいって言うなら、帰れば?」
瀬伊にそう言われて麻生は黙り込む。麻生も結局は瀬伊と同じく、自分だってむぎの料理を食べたいし、依織だけがむぎとの時間を過ごしていたことが、気に入らないのは同じなのだ。
「で、でも……4人分に増やせるかな……」
「材料がいるなら買ってくるよ? それとも違う日に招待してくれる?」
にこやかな風貌とは違って押しが強くて、言い出したら引かない瀬伊にそう言われて、むぎは肩を落とした。
「……今日は、菜の花のパスタなの。茹でる前だったから、パスタの量を増やすよ……」
「やった! ありがとう、鈴原さん。じゃ、お邪魔しまーす」


その日の夕食は、簡単に言えば最悪だった。食卓の会話は何一つ楽しくなかった。むしろ、刺々しかった。むぎに対しては誰も刺々しくなんかない。むしろ真綿でくるむかのように優しい。けれど、3人が互いに刺々しい言葉のやりとりを繰り返していて、まるであの家に初めて行った頃のようだった。
「それにしたって、ひどいなあ、松川さんって。油断も隙もあったもんじゃないね」
「俺が彼女とどんな時間を過ごそうと、彼女が了承しているなら、君たちに了解を得る必要なんて感じないね」
「なんだよ、随分と感じ悪い言い方すんな、あんた。コイツに負担かけといて、その言いぐさかよ」
「あのね、別にあたし負担とか思ってないし……」
「やだなあ、彼氏でもなんでもないって彼女にはっきり言われてるのにさ。いい加減、諦めたら? 卒業しちゃったんだし、いつまでも彼女につきまとわないでさ」
「招かれてもいないのに、家まで押し掛ける君たちに言われる筋合いはないね」
「今は、俺たちだってコイツの了解を得て、ここにいるんだからな。あんたに一方的に言われることもないぜ。立場は同じだと思うけどな」
一事が万事その調子で、途中からむぎはもう、仲裁をする気にもならなかった。早く皆食べ終わってくれればいいとさえ思った。あの家で、皆がそろった食卓はあんなに楽しかったのに、何が変わったのかと悲しくなった。
やっと食事が終わり、後片付けが済んでも、瀬伊も麻生も帰ろうとしない。
「松川さんが帰らないなら、僕も帰らないよ。二人だけにしたら、松川さんが何するかわかんないじゃん」
「ちょっ、依織くんは、何もしないよ」
「えー、危ないなあ、そんなこと言ってると、どうなるかわからないよ。松川さんがどんな人だったか、君だって知らないはずないのに」
「……君には言われたくないかな、瀬伊」
ため息をつきながら依織は言い、それから少し強く言った。
「俺も帰るから、君たちも、もう帰るんだ。彼女が困ってるってわかってるだろう?」
依織には言われたくない、とばかりに冷たい視線が絡み合い、けれど瀬伊はソファから立ち上がった。
「しょうがないなあ。でもま、確かにあんまり困らせて、彼女に怒られるのもイヤだしね。帰ろっか、麻生」」
「お、おお…」
居心地が悪そうだった麻生は、言われてほっとした様子で立ち上がる。
「まあ、僕たちは明日だって、学園で彼女と会えるしね。ね、鈴原さん。明日のお昼、一緒に食べてよ。ね? 約束だよ」
「え。……う、うん……」
断る理由が見つからなくてむぎは仕方なく頷く。瀬伊は単純にわーい、と喜んで鼻歌を歌いながら玄関へ向かった。
その後を麻生が追いかける。学園での共に過ごす時間を、依織はもう持てない。単純に一緒にいられる時間を比べれば、瀬伊や麻生の方がずっと多いだろう。それを瀬伊はわざと依織に見せつけるようにしたのだ。2ヶ月。二人だけの時間を持っても、むぎは結局、依織をただ一人の特別と認めてくれなかった。
(諦めるつもりはないけれど……明らかに拒絶されたり、君に誰かただ一人の想い人が出来たというわけでもない限りはね)
それでも、少しばかり自信を失うには十分だった。彼女は自分をどう思っているのか。他の人間より、少しは特別に近いと思っていたのは勘違いだったのか。
「い、依織くん……。今日、ごめんね」
少し考えこんでいた依織に、むぎが心配そうにそう言った。それに依織は、はっと意識を戻して困ったような顔のむぎに微笑みかける。
「いや……僕の方こそ。悪かったね、僕が君にこんな我がままに付き合わせてしまったから」
「ち、違うよ。だって、もともとはあたしが言い出したんだし……」
「……でも、もう終わりにしよう」
「え……?」
むぎは驚いて依織を見上げた。依織は寂しそうな笑みを浮かべて小さく頷く。
「これからも続けるなんて言ったら、きっと、瀬伊も麻生もまた来るよ。もう家政婦さんでもなんでもないのに、3人分の夕食を作らせるなんて無理をさせるわけにはいかない」
「でも、黙ってたら気づかないかもしれないし…」
「黙っていても、今回、バレただろう? それに。彼らの言い分だって一理ある」
言い分って? とむぎが尋ねようとしたとき、玄関から待ちかねたように瀬伊の声がした。
「ちょっとー、松川さんも帰るんでしょ? 二人でまさかまたヒソヒソ内緒話してるんじゃないよねえ」
「何もしてないよ」
ため息ひとつついて、依織は玄関へむかう。むぎもその後を慌ててついて行った。
「ねー、鈴原さん、次はいつにするの?」
玄関先で瀬伊がにっこり笑って言うのに、依織がにべもなく答えた。
「次はもうないよ、瀬伊」
「なんでさ、松川さんだけ、また来るっていうのかい」
「俺も、もう来ない。だから、君たちも、もう彼女の家に押し掛けてくるのは止めるんだ。彼女にこれ以上負担をかけたいわけじゃないだろう」
「わあったよ。行こうぜ、一宮、もういいだろ」
何か言いたそうな瀬伊の服を掴んで、麻生がそう言い、玄関から引きずって行く。依織も靴を履いて、むぎの家を出た。
「じゃあね、むぎちゃん」
ドアを閉じる前に、依織はむぎを振り向き、そう言って、静かに出ていった。
急に静かになった家の中で、むぎは呆然と立っていた。本当なら、今日はもっと違うことを話して、じゃあ、またね、と言って別れるはずだった。けれど、依織は「また」とは言わなかった。次はもうないのだ。むぎの胸がぎゅっと痛んで、むぎは思わず両手を胸の前で握りしめた。


それから、本当に依織はもうむぎの家へ夕食を食べに来ることはなかった。メールを送ろうかと思ったものの、なんだかそれも出来なかった。あんな風な終わり方をして、いったいどんな風に話せば良いかわからなかったのだ。
「すーずはーらさんっ」
「きゃーっ!!」
ぼんやりとお弁当を食べていると、突然背後から抱きつかれて、むぎは叫び声をあげた。
「あは、相変わらず、新鮮な反応をありがとう! どうしたの? なんだか元気ないね」
「せ、瀬伊くんっ」
むぎは振り向いて瀬伊を睨みつけた。もちろん、瀬伊はそんなことは一切気にした様子もなく、むぎの隣に座り込むと、お弁当の中をのぞき込む。
「あいかわらず、おいしそー。いいなあ」
「瀬伊くん、カフェテリアで食べたでしょ」
「そうだけど。あれは君の手作りじゃないもん」
そう言うと、さっと手を伸ばして唐揚げをひとつ、取り上げて口に入れた。
「あっ、もうっ」
むぎがふくれっ面をするのに、瀬伊は
「うん、やっぱり美味しいなあ」
と笑って言った。むぎはその顔を見て、諦めたようにため息をつく。
「またため息?」
瀬伊は不満げにそう言った。むぎはといえば、そんなにため息ばかりついていた自覚がないので、不思議そうに瀬伊を見た。
「松川さんとの夕食、邪魔したこと、怒ってるの?」
「えっ?」
急にそう言われて、むぎは思わず声を上げた。
「そんなこと、ないよ」
そう言ったけれど、言った後から心の中で本当にそうだろうか、と考える。あれから依織が現れなくなって、つまらなくて、あのとき、瀬伊や麻生にバレたりしなければ、と思ったこともあった。自分が迂闊だったからばれてしまったのだと、その時はため息をついたのだけれど。
「ちょっと、残念だったなと思って。一人の食卓って静かすぎたから」
「じゃあ、僕が一緒に夕食を食べてあげるって言ったら?」
「え?」
瀬伊にそう言われて、むぎは瀬伊を見返す。いつものからかいを含んだ顔ではなく、真面目な表情で瀬伊はむぎを見つめていた。
「松川さんは、鈴原さんの特別じゃないんでしょ?」
「それは……そう、だけど……」
むぎはけれど、瀬伊と二人で、自宅で食事をするというのが少しも想像できなかった。あの空間はもう依織の姿が馴染みすぎていた。
「………まあ、いいや。寂しかったら、いつでも言ってくれれば僕が付き合ってあげるからね」
困らせたいわけじゃないから、もう行くね、と言って瀬伊は立ち上がった。じゃあね、とその後ろ姿に向かってつぶやきながら、でも、むぎは依織のことを考えていた。


「ちぇーっ。つまんないの。松川さんがあのまま諦めてくれて、彼女が自分の気持ちに気づかなければいいのにな」
瀬伊はカフェテリアでテーブルに突っ伏してつまらなそうにそうつぶやいた。その目の前に座った麻生は肘をついて窓から遠くを眺める。
「もう、いいじゃん。アイツが好きなのは松川さんなんだろ。本人があそこまで鈍いのもどうかとは思うけどよ」
「麻生はそれでいいんだ。ふーん」
「……仕方ないだろ。俺は別に、アイツが元気に笑ってくれてんならいいんだよ。けど、今、アイツは明らかに元気がねーじゃん」
「だから僕が慰めてあげるんじゃない」
「お前じゃ無理だよ。現に、今だって無理だっただろ」
麻生の言葉に、瀬伊は不機嫌そうに目を閉じると答えようとはしなかった。そんなこと、わかってるよ、と言うのは悔しかったのだ。
「つまんないの」
もう一度、瀬伊はそう言った。本当は、温泉旅行のとき、行きも帰りも依織がいいとむぎが言ったとき。少しだけ、そうなのかな、と思ったのだ。でも、どうせ卒業してしまった依織は彼女の側にいられないから、と侮っていた。
(わかっていたのにな、松川さんだって本気だってこと)
悔しいけれど、でも、心の何処かに依織なら仕方ないと思う気持ちもあった。4人はライバルでもあったけれど、お互い、どこか認めるところもあったから。
「つまんないの」
その言葉は、物わかりの良すぎる自分の心に向かって小さくつぶやいた。





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