CHANCE 4
依織は家に帰ってくると上着を脱いでソファに放り投げた。今日は、CM撮影の打ち上げでレストランで食事だった。面白くもない会話、美味しく感じられない食事。
むぎと二人の食卓が恋しかった。一生懸命、依織に話しかけるむぎの声、くるくると動く表情。素朴だけれど暖かみのある手料理。とても幸せな時間だった。むぎにとっても、特別な時間だったと思っていたけれど。
あれから、むぎからの連絡はない。特別な時間だと思っていたのは、自分だけだったのだろうかと依織は気を落としていた。自分から連絡を取ればいいのに、その勇気が持てない。かといって、もちろん、このまま彼女との縁が薄くなるのだって嫌なのだ。
(……本当に、俺ときたら相変わらず臆病なままか)
彼女からはっきり拒絶されたら。友達としてしか見れないと言われたら。そう思うと、思わせぶりな言葉を告げても、はっきりと思いを伝えることができない。
前を向いて進むこと、失敗をおそれないこと、彼女に教わったはずなのに。失恋の痛みはなかなか恐れずに受け止めるというわけにはいかないらしい。
遠くで雷の音がした。まるで自分の心の中の嵐のようだと考える。彼女を求めて吹き荒れる嵐。
窓から外を見やると、星もない真っ黒な空に一筋光が走るのが見えた。遅れて、低い音が響く。途端に、ポケットの中の携帯が鳴った。
(え……?)
驚いて依織はすぐに携帯を取り出し、かかってきた番号を確かめる。その着信音は、彼女からのコールがすぐにわかるようにと、彼女だけの音だったからだ。
間違えようもなく、確かにそれは、むぎからの電話だった。
「もしもし? むぎちゃん?」
依織が電話にでると、その向こうでむぎが泣きそうな声をしているのが聞こえた。
「いっ、依織くん……! 助けて、か、雷が…!」
窓の外でもう一度光が走ると同時に、電話の向こうでむぎの叫び声がする。
「むぎちゃん。……待ってて、今、行ってあげるから」
依織は先ほど投げ出した上着を手にとると、部屋を飛び出した。


雷は苦手だ。あの音も光も大嫌いだ。家族がいた頃は、両親や姉が側にいてくれた。ひとりぼっちになってからも、あの家にいた頃は、家の中に誰かいると思えば、怖くてもなんとか我慢できた。けれど、今は一人だ。それでもむぎは最初は我慢していたのだ。
来そうだ、と思ったときには音楽を大きな音でかけてみたり、歌を自分で歌ってみたり、なんとか外の音が気にならないようにしてみた。けれど、どうしたって外が一瞬明るくなったりするのが目に見える。
もうだめだと思ってむぎは自分の部屋に駆けあがり、ベッドに潜り込んで布団をかぶった。それでも低く響く雷の音はその隙間から漏れてくる。
怖い怖い怖い。
誰も居てくれない、誰も頼れない。
もう、自分には守ってくれる家族はいないのだから。一人で頑張らなくてはいけないのだから。
そう言い聞かせれば言い聞かせるほどに、怖さが心の奥から沸き上がってくる。寂しさに押しつぶされそうになる。
お守りのように握りしめた携帯電話は、誰かと繋がることができるものだ。絶対に、誰にも、頼ったりしないと決めていたはずなのに。むぎの震える指は彼の番号を押していた。
コール数回の後に出たのは、ひどく久しぶりに聞いた気がする彼の声。
『もしもし、むぎちゃん?』
その声を聞いた途端、ほっとして涙が出そうになった。
「いっ、依織くんっ……助けて、か…雷が…!」
それだけ言うのが精一杯だった。
『むぎちゃん……待ってて、今、行ってあげるから!』
その言葉だけで、むぎはさっきまでの恐怖が薄れていくのがわかった。雷の音ではなく、やがて来る音を待っていた。その音だけを待っていた。そのことを考えていたら雷の音は遠くになっていった。むぎはベッドを出て階下へおりて、玄関の前に座り込んだ。
そういえば、と考える。あの夕食会を始めてから、ずっと自分は待っていた気がする。待つことは、楽しかった。必ず、彼が来るとわかっていたから。今も同じだ。きっと彼が来る。だから、怖いものは遠くへ行ってしまった。
玄関先で、膝をかかえてうずくまっていると、やがてその扉越しに駆けてくる足音が聞こえた。むぎが立ち上がると同時に、チャイムがなる。すぐにむぎは玄関を降りて扉を開けようとした。けれど。
「むぎちゃん…! 待って!」
それを、依織の声が押さえた。
「依織くん…?」
それは間違いなく依織の声だったのに、とむぎは訝しく思いドアノブに手をかけたまま外へ声をかけた。
「……本当に。でる前に、相手を確かめなさい、と何度も言ってるのに、困ったお姫さまだね、君は」
困ったようにそう言うのはいつもの依織と変わらず。
「でも、依織くんでしょう?」
だから、開けても大丈夫じゃないの? そんな気持ちでそう言うと。扉の外の依織の声が低く、真面目なものに、なった。
「……ねえ、むぎちゃん。そのままで、聞いて欲しい」
「依織くん…?」
扉越しの少しくぐもった依織の声。表情が見えないだけに、余計にむぎは不安で一言も聞き逃すまいと耳を傾けた。
「……今まで、ずっと態度や言葉で君に伝えようとしてきたけれど、はっきり言ったことはなかったね。
 ……むぎちゃん、俺は、君が好きだよ。友達じゃない、妹のように思っているのでもない。一人の男として、女性である君を、好きなんだ」
どきりとむぎの胸が鳴った。かあっと頬が熱くなる。
「君の特別になりたくて。温泉旅行、一緒に行って帰って、プレゼントも貰えて。とても嬉しかった。少しだけ、君にとって俺は特別になれたのかな、と自惚れたよ。一緒に夕食を食べようと言ってくれて。しかも本当に二人で食事ができて、夢みたいだった。幸せな時間だった。
でも、君が瀬伊に僕のことを特別じゃないって言ったとき、やっぱり、無理なのかと思ってしまってね。二人きりの時間を重ねても、君の中で俺は友達やお兄さんみたいな存在以上には成れないのかと思って、ひどく落ち込んだよ。あれから後、君から連絡もなかったし……」
「そ……、それは…依織くんにすごく悪いことしたなって思って……だから…」
だから、嫌われたり、怒らせたりしちゃったんじゃないかと思うと怖くて連絡できなかった。そうだ、依織に嫌われてしまうのが怖かった。
「でも、今日、また、俺を頼ってくれただろう? ねえ、俺は……希望を持っていいのかな? 俺は、君の特別になれるのかい?」
「依織くん…」
「……君が好きだよ、むぎちゃん。もう、限界なんだ。だから……もし、君が俺を君の特別にしてくれるなら、ドアを開けて。もし、ただの友達や兄代わりとしか思えないなら、開けないでくれ。俺を、君のテリトリーの中に入れないで。それでも、雷が行ってしまうまでは、ここにいてあげるから……だから、正直に答えてほしい」
むぎは、依織の言葉を聞きながら自分は彼の気持ちも、他の彼らの気持ちも知っていたと思っていた。知っていて、見ない振り、気付かない振りをしていた。あの家で過ごした時間は心地よくて、だから、ずっとあのまま、皆と仲良しでいたかった。変わってしまった彼らの気持ちも自分の気持ちも見ないようにしていた。なのに、自分が好きな人には側に居て欲しくて、心には応えないのに振り回して、狡かった。
怖くても、前に進まなくちゃ。むぎは手の中のドアノブを回して、静かに、扉を開けた。
そこに立っていた依織は、扉が開いたことに驚いたような顔をしていた。
「……むぎ、ちゃん…」
「……開けたよ。これでいいんでしょう? 答え、合ってる?」
「いや、……俺は、君の特別になれる可能性があるって思って、いいんだね?」
もう一度、確認するようにそう尋ねる依織に、むぎはおかしそうに笑った。
「……もう、特別だよ。特別だから、依織くんに、助けて欲しいって思ったの」
そう言った言葉が終わるか終わらないかの瞬間に、むぎは強く抱きしめられた。
「い、依織くん……!」
「ああ……ありがとう。むぎ……本当に。君が好きだ。好きだよ、愛してる……」
耳に流し込まれる言葉に、むぎは目を閉じて酔った。抱きしめられたまま、大きく息を吸うと依織の香りがした。ほのかに甘い、良い匂い。ああ、好きだなあ、とむぎは思った。ぎゅっと依織の背中に腕を回す。そして、心に浮かんだままに言葉を口にした。
「……好き。大好き、依織くん」
優しくむぎの髪をなでていた依織の手がそっと滑ってむぎの顎を捕らえる。その動きにつられてむぎが顔を上げると、間近に依織の顔があった。端正に整った顔。どんな女の子でもきっと見とれるだろう、とむぎは思った。でもそんな依織の瞳にはむぎだけが映っている。吸い込まれてしまいそうな深い瞳に思わず目を閉じると、そのままそっと依織がむぎの唇に触れた。
(あ……)
そのまま、依織の唇が瞼、額、髪、耳と移動していく。そして、耳に口づけた後、ささやく。
「君は、きっと苦手だと言うのだろうけれど。僕はこれからはきっと雷に感謝して過ごすことになると思うよ」


その日、むぎは授業が終わった後、慌てて帰り支度をしていた。
「むぎー。ねえ、今日、帰りに駅前の喫茶店に行かない? 今週から新しいスイーツが入ったんだよ」
夏実がやってくるのに、むぎは両手をあわせて謝った。
「ゴメン! 今日は用事があるんだ」
「そうなの?」
「うん、今日、依織くんが夕食食べにくるの」
「え、松川さんが?!」
「うん、そう」
「それは聞き捨てならないなあ、鈴原さん」
夏実と話すむぎの背後から、そう声がかかる。
「せ、瀬伊くん、びっくりしたー!」
「何、松川さんがまたご飯食べにきてるの? 狡いなあ」
唇を尖らせて言う瀬伊に、むぎは笑って答える。
「ごめんね。依織くんは特別なんだ。付き合ってるの。だから」
その言葉には、瀬伊だけでなく夏実も、瀬伊から遅れてやってきた麻生も驚きの表情を隠さなかった。
「あっと、ごめん、急がないと依織くんとの待ち合わせに遅れちゃうや。それじゃ、行くね!」
ばたばたと教室を出ていこうとしたむぎは、入り口で振り向いて瀬伊と麻生に言った。
「あっ、でも、瀬伊くんも麻生くんも、友だちなのは、変わらないからね! 依織くんも一哉くんも一緒に、みんなで食事会とか、またやろうね! 今度は楽しい話題で」
それじゃね、とぱたぱたと駆けていく後ろ姿を見送って、瀬伊と麻生は顔を見合わす。
「……松川さんと彼女がラブラブ〜な食事会なんて、行きたいと思う?」
「……あんまり思わねえな」
気のない返事を返した麻生は、しかし、言葉を続ける。
「けどよ……」
仕方ない、というように肩をすくめた。
「アイツがそうしたいって言ったら、俺はまあ、行ってもいいかな。松川さんに見せつけられるだろうと思うと、ちっと癪だけど、アイツが嬉しそうならいいかって思うよ」
「……一人だけいい人ぶって、ホント、羽倉ってヤな奴」
瀬伊が口を尖らせていうのに、その頭を軽くこづいて麻生は言った。
「お前だって、俺と同じだろ。アイツに言われたら、揃って「お食事会」にいっちまうんだ」
「……まあね」
ため息ひとつ、ついて、瀬伊は肩を竦めた。
「あ〜あ、つまんないの」
そういって、教室を出ていこうとする。それから、夏実を振り向いて言った。
「あ、そうだ、丘崎さん! 彼女から松川さんとの経緯を聞くときは僕にも教えてね! 僕だって聞きたいからさ。そして、一哉に報告してやるんだ。暢気に仕事でアメリカなんか行ってるからだよ、って言って、いぢめてやる」
「一宮……お前、御堂に返り討ちにあっても知らねえぞ」
麻生は小さくつぶやきながら、瀬伊の後に出て行った。



「依織くん、いらっしゃい!」
「やあ、むぎ。おじゃまするよ」
むぎと依織の夕食会は、そうしてまた復活したのだった。以前と変わったといえば、曜日を決めることなく、依織の仕事やむぎの都合に合わせて、会える日に、会いたい日に会うようになったこと。そして……
「依織くん、明日のお仕事、早い?」
「大丈夫、明日は午後からなんだ」
「そっか、良かった、じゃあ、ゆっくりしていけるよね」
「……泊まっていって、とは言ってくれないの?」
「…………いいの?」
「もちろん……おいで」
依織の手みやげのスイーツよりも、もっと甘い時間が、二人の間に流れるようになったこと、だった。






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