京の町に慌しい武者たちの足音が響いていた。
いつもは人の行きかう小路も今日ばかりは武者の姿ばかりで、町の者たちは家の中に身を潜めているようである。
源氏の荒武者たちが時折伝令を叫びながら武具を鳴らして歩みゆく様を、家の中からおそるおそる眺めいるばかりだ。続く戦は京の人々にとっても生きる上での脅威だ。源氏と平家といずれが勝利するにせよ、早く終わればいい、それが本音だっただろう。
「丹波口の警備は」
「配置についたとのことです」
景時は部下からの報告に頷いた。九郎たち本隊は既に三草山へと出発している。京の出入り口の警備を請け負った景時は部隊を分け、その後、遅れて京を発つことになっていた。
源氏の兵が京を空けた隙をつかれては元も子もないからだ。
そして、なにも敵は平家だけではなかったのである。
「かように恐ろしげな有様にて、何故のご用でありましょうか」
景時が兵を配置している門から、おどおどとした様子で門から顔を出したのはおそらく遣いを言われた者だろう。
「こちらにどなたがおわしまするか、ご存知でいらっしゃいましょうや」
暗に抗議の意を表しているのに、景時は苦笑した。
「この京において知らぬ者がおりましょうや。我ら東国者とて十分承知いたしております。
それゆえに、警護させていただいております。
我ら源氏のおらぬ間に平家に襲われてはなりませぬ、我らの兵がこちらをお守りいたしますれば
何らご心配なさらずにお過ごしください」
もちろん、それは表向きのことであって、実際にはこの門に囲まれた奥の御座所にいる人物にこれからのことを引っ掻き回されては困る故の処置だ。
「出入りするものは全て怪しき者として捕らえるようにと申し伝えてありますれば、ご心配なく」
従って、これも警告でこそあれ、それ以外のなにものでもない。木曽冠者義仲に方住寺を焼かれた後白河法皇は、それを思い出して不愉快でもあろうし、また、迂闊に動くこともできないだろう。
「木曽殿と九郎は違うけどね」
九郎は幼少を京で過ごした。この町や朝廷への思い入れが違う。同じく京にて過ごした経験のある景時ではあるが、それでも自分の根は東国にあると思うし、そこが九郎と自分は異なると感じる。朝廷への思いも同じである。九郎は院を煩わしく思うことはあるかもしれないが、それでも弓引くことはできないだろう。景時にとっては、信頼できぬ食わせ者だと思うのが一番だ。
「さあ、じゃあそろそろ九郎たちを追いかけるか。少し時間がかかっちゃったなあ、九郎が苛々してないといいんだけど。
よーし、それじゃあ、三草山へ向かうぞ!」
景時の声に合わせて、声があがる。その声が遠く去っていった後も、京の町は兵の声が時折響くほかは静かなままだった。今日は源氏の軍勢が京を護ると言っている。しかし、明日にはそれが平家の軍となっているかもしれない。京の人々はそれを良く知っていたのである。
のんびりした声とは裏腹に、実際は景時は逸る気持ちを抑えていた。景時の率いる兵たちが着くのを待っての戦となるだろうが、自分の遅れがそのことに響くから、というのが理由というわけではない。
気になるのは望美のことだった。
彼女は九郎たちと一緒に先に三草山へと向かっている。
今日、京邸で別れるとき望美はむしろ景時のことを心配していた。
「気をつけてくださいね、遅れるからって無理しないでくださいね」
「オレは無理しないって、大丈夫だよ〜。望美ちゃんこそ無理しちゃ駄目だよ?
朔と一緒に、後方にいればいいからね? オレもすぐに追いつくからそれまで待ってて!」
相変わらずふざけた調子の景時に、笑って答えている様は特に戦へ向かうという緊張を感じさせはしなかった。むしろ、一緒に居た譲の方が心配そうに落ち着かない様子を見せていたくらいだ。
「先輩、景時さんの言うとおりですから! 前に出るようなことはしないでください。
いくらリズ先生に鍛えてもらっているとはいえ、本気の斬り合いになったらわかりませんから」
譲の言うことが尤もで、望美の平常な様子は、景時でさえ何も知らなければ実戦を経験していないが故なのかとも思わずにはいられなかっただろう。だが、実際には望美がそんな楽観的な思いを抱いているわけではないことを景時は知ってしまっている。平気に見せているその裏で、彼女は自分なりに何か重いものを抱え込んでいると、昨夜わかってしまった。
『自分が絶対にやり遂げなくちゃならないことがわかっていると、その重さに負けちゃいそうになるけど。
でも、それじゃ駄目ですよね。自分で決めたことなんだし』
そう言って、清清しく月を見上げていた姿を思い出してしまう。彼女の背負っているものは、半分は自分たちが彼女に無理に背負わせたものではないかと思う。いや、実際、そうなのだ。源氏も平家も本来は彼女には何の関係もないものだ。龍神の神子と呼ばれることさえ、彼女にとっては青天の霹靂、戸惑いこそあっても自ら望むものではなかっただろう。妹の朔がそうだったからこそ、わかる。朔は黒龍に恋をして、自らがその神子であることを受け入れ、歓びを感じることもあっただろうけれど、結局は悲しい結末を迎えることになった。神子であれ、龍神であれ、全能ではありえない、それが今の世なのだろう。
望んでを背負ったものではないにも関わらず、彼女はそれを『自分で決めたこと』だと言い切った。その強さが眩しくて、同時にいじらしかった。
それは、望美に対する負い目を感じているということだろうか? と自らに問いかけてそうではないという答えを即座に見つける。もっと違うものが自分の中で確かに彼女に対してあった。しかし、それを認めることは、またいつもと同じ過ちを繰り返すことに他ならないともわかっていた。護りたいと思うものが増えることは、景時にとっても相手にとっても不幸な結果しかもたらさない。それは嫌というほど今まで失敗を繰り返して理解したことだった。それでも源氏軍に必要な白龍の神子を心配するのだという言い訳があったので、自分を誤魔化すことは上手くできていた。軍奉行として、源氏に必要な白龍の神子を思いやることは、職務に反していないはずだ。
そう言い訳をしながらも、先を急ぐ心の内では月の光の下で見た望美の横顔をずっと思い描いていた。触れ合った手の小ささを、熱を、思い出していた。
今も彼女はただ一人、このどうしようもない戦を自分がどうにかしなくてはと、心に重荷を背負っているのだろうか。
「夜陰に乗じて平家を討つ、富士川のときみたいにとっとと逃げてくれればいいんだけどね」
夜の影が濃くなり松明を掲げて進軍しながら景時は小さくそう漏らした。
「しかし、率いているのが還内府では幸運だけを祈るのはちょっと難しいかな」
「梶原様?」
馬を並べる郎党が訝しげに話しかけてくる。
「や、なんでもない。九郎が待ちわびているだろう、なるたけ急ごうか」
初めての戦場が夜になるのは幸運なのか不運なのか。生々しいものを日の下で見ることがないのは幸運かもしれないが、夜目が利かずに危険も多いのは不運といえるかもしれない。おそらくこれから望美も幾度となく戦場を経験することになるだろう。怨霊を封印するために、とは言え生身の武者たちが戦う場でもある。死者も出る、怪我も当たり前で、血の匂いが充満するのが当たり前なのだ。自らを龍神の神子として受け入れ、そのために力を尽くそうとする望美が、そのことさえも自分で背負ってしまいはしないかとそれが心配だった。
戦は人の起こしたもの。神子にはその生死を背負う責任などない。いや、おそらく怨霊でさえも本当ならばそれを産み出したものが贖うべきもので、神子がその後始末を背負うことは理不尽だと言えるだろう。
与えられた重い運命を何故、彼女は易々と受け入れ立ち向かおうとするのか。戦の真実を知らぬからだろうか。それとも、もっと違う遠くの何かを彼女は見ているのだろうか。
ただ景時にわかっていることは、そういう望美を護ることが自分の為すべきことだということだけだった。それが源氏の軍奉行としての職務にも沿っていることだと、相変わらず言い訳を心の中で繰り返しながらであっても。
「三草山に平家はいないんです。これは、罠なんです」
望美の言葉を九郎は信じがたい様子で聴いていた。何故それがわかるのかと言いたげで、勿論、景時だって半ばは信じられない気持ちだった。しかし、信じる理由を景時は持っていた。
それがわかるから、昨夜の様子だったのかと。
まだ信じられない様子の九郎に対してリズヴァーンが言葉をかけた。まだ何か訝しげな様子をしながらも、九郎は望美の言葉を確かめるべく偵察を行うことを許可したのだった。
平家の陣を目指して歩きながら、景時は望美の横顔をちらりと盗み見た。今朝見た屈託のない笑顔とは異なる、思いつめた表情。何故、彼女が平家の陣は罠だと知っていたのか、それは本当に龍神の神子だから感じられることなのか、それはこの際どうでもいいことだった。ただ、それを彼女は知っていてそしてそのことを一人で抱えていたのだ。夜陰を利用しようとしていたのは、源氏だけではなく、平家も同様だったということだ。
「望美ちゃん」
硬い表情をしたままの望美に景時は小さく呼びかけた。はっとした顔で望美が顔をあげる。
「景時さん」
取ってつけたような顔で笑顔をつくる。そんな顔をしないで欲しいと景時は思った。彼女の笑顔はこんな作ったものであってはならない。なのに気の利いた言葉が口から出てこなくて景時はただ片目を瞑って
「大丈夫だよ〜」
とだけ言った。何が大丈夫なのか自分でもわかっていないけれど、ただ、望美が心配するようなことにはならないとだけ言ってあげたかったのだ。景時のおどけた様子に望美が小さく笑んだ。それは微かではあるが作った笑いではなくて、景時はそれだけで嬉しくなった。心の奥に小さな灯りが燈る。ささやかな微笑みにさえ喜びが湧き上がる。それと自覚して景時は胸を押さえた。
「? 景時さん?」
訝しげに望美が様子の変わった景時を見上げる。慌てて景時は笑いかけた。
「や、なんでもないよ、大丈夫! おっと、そろそろ平家の陣も近いかな。静かに近づかないとね」
唇に人差し指をあてて静かに、という様子を示してみせる。
「一番賑やかなのは兄上です」
朔が後ろからそんな景時に声をかけた。それに感謝して景時は情けない笑顔を作ってみせると、促すように望美の背中を手で支え、行く先へと視線を送った。つられて望美の視線も景時から進む道の先へと移る。彼女の視線が自分から離れたことにほっとして景時は望美から手を離した。感じていた熱を知るのは離した後のことで、手のひらの熱を逃さないようにと思わず拳を握る。
視線を戻せばきっと、昨夜と同じ凛とした決意を滲ませた望美が先を見つめているだろう。その心に何を映しているのかわからないまでも、強い決意を秘めた彼女がそこにいるだろう。そして自分はきっとそこから目を離せないだろう。だから、景時は視線を戻さなかった。ただ望美と同じく行く先、平家の陣を注意深く探り見つめていた。そうする間は、自分の心の奥を見ないで済むと思ったから。柔らかく心の奥を照らす灯りがもたらす、痛みにも似た優しい気持ちが何であるかを自覚しないで済むからだった。
生まれたばかりのこの不確かな気持ちが、夜陰に融けて消えてしまえばいい。
しかし、胸のうちで呟いた言葉は、すでに自分が心の内に芽生えた望美への思いを十分に自覚しているということを示していた。
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