誓 い




 高く耳鳴りのする音がおさまると、次に耳に届いたのは波の打ち寄せる音だった。肌に感じるのもどこか湿った海風だ。望美は閉じていた目をゆっくりと開いた。
 忘れたくとも忘れられない風景が望美の前にはあった。のどの奥がぐうっと鳴って、望美はその嗚咽を飲み込んだ。燃えさかる京邸を後にしたとき、もう二度とこんな痛みを経験したりしないと決めて時空を越えた。誰も犠牲にしないと心に誓った。なのに、あのときよりも深い絶望と痛みを味わうことになってしまった。同じ時空を何度も繰り返して、過ごす時間が長くなった分、相手を思う想いも深くなり、負う傷も深くなった。結局のところ、何の代償もなく全てを救い、手にすることなど無理なのかもしれない。それでも、代償を支払うのが自分自身であるというのなら、自分がどれほど傷ついたとしても助けたい人がいる。だから、もし、この先、三度また痛みを感じることがあったとしても、それでも、彼を生きながらえさせるためならば、何度でも自分は時空を越えるだろう。
 飲み込んだ嗚咽を深い息と変えてゆっくりと吐き出すと、望美は景時のいるところへと向かった。兵たちに船へ乗るように指示をしている景時の姿は、いつもと変わらないもので、それはこの後、彼が死地に向かうということを知った今でさえ、本当に何も変わらないように見えた。
(ずっと、同じだったのは、ずっと、決めていたから?)
 その背中をじっと見つめる。ずっと長く、その背を見てきたと思った。旅の途中、前を歩くその背、戦の中、自分を庇ってくれた背、楽しそうに揺れていたり、緊張にこわばっていたり、言葉以外でもいろいろなことを伝えてくれていた。けれど、今の景時の背は何も伝えてくれない。いつもと同じ、変わりない、ということしか。
「景時さん」
 望美はその背に向かって声をかけた。何度も繰り返した悪夢ではなく、これは現実なのだと言い聞かせて。それでも少し怖かった。振り向いた景時はいつもと変わらない笑顔で、大丈夫、これは現実なのだと望美は自分に言い聞かせる。そして、きゅっと唇を噛み締める。いつもと変わらないこの笑顔の奥の真実を、今度こそ見つけるのだ。
「望美ちゃん、どうしたの、君も早く船に乗り込んで……時間がないからね」
「景時さんも一緒に行きましょう」
笑顔でありながらも、抗えない強い力で望美の肩を船の方向へ送り出すように推す景時に、望美はその力に抗って向き直り、そう言った。
「大丈夫、オレもすぐに後から行くから」
いつもなら、差し出した望美の手を拒絶したことのない景時がこのときはその手を取ろうともせずに望美を行かせようとした。先を急いでいたからだと思っていたけれど、そうではなかったのだと気付けば良かった。今度は間違えない。
「いいえ、景時さんも一緒じゃなければ行きません。
 私、いいましたよね? 景時さんから離れません、って」
強い想いを込めて望美は景時を見上げた。きっと、景時にはわかるはずだ、望美の言葉は本気だと。そして、その通り、景時の目に動揺が見えた。
「望美ちゃん、もう時間がないんだ、急がないと、平家の追撃軍がすぐそこまで来ているんだよ?」
「わかってます。でも景時さんと一緒に居ます。
 でないと、景時さん、船に乗らないつもりでしょう?」
「そんなことないよ! どうしてそんなこと。
 君だって知ってるでしょ? オレが怖いのなんて大嫌いだってさ」
だから、オレがこんなところに残るはずなんてないって、とやっぱりいつもの笑顔で景時は言う。そして望美はもう気付いていた。景時の『いつもの笑顔』は嘘なのだということに。いつも変わらない笑顔、それ自体が嘘なのだから……変わるはずがないのだ。どうして気付かなかったのだろう、こうやってこれまでも自分は何かを見落としてきたのだろうか。景時の嘘を剥すために、望美は注意深く次の言葉を考えた。もし、真実が景時が名誉のために死を望んでいたのだとしたら、自分はなんと言えば良いだろう。それでも自分のために生きて欲しいと言っていいだろうか。考えて、そして思う。そう言うために自分は戻ってきたのだ。自分のために生きて欲しいと言うために、戻ってきたのだ。武士としての栄誉よりも、自分を選んで欲しいと、我侭でも何でも、縋りついてでもどうしてでも、彼を止めるために戻ってきたのだ。そして、景時の嘘を剥すためには、きっと真っ直ぐにぶつかるしかないと考える。策を弄したところで、嘘を重ねる景時にはかわされてしまうだろう、正面から真っ直ぐにぶつかるしかない、彼の嘘を破るほどに強い自分の意志をもって、ぶつかるしか。息をひとつついて、望美は口を開いた。
「……嘘です。景時さん、残るつもりでしょう? そう言って私を船に乗せて。
 そして、自分だけ、ここに残るつもりなんだ。
 平家の軍を一人で食い止めようとしているんでしょう」
 低い声で望美はそう言った。目をけして景時の瞳から逸らさずに、じっと見つめたまま。それまで何の感情の揺れも表さずに笑ったままだった景時の瞳が、そのとき、初めて揺らめいた。それを見逃さずに望美は景時を見つめたまま、小さく頷いた。それを見て景時の眉がつらそうに顰められる。一瞬、泣きそうな瞳に見えて望美はそれこそが景時の本当なのだと気付いて胸の前で強く手を組んだ。景時の本当を、やっとほんの少しだけだけれど見つけた、と。しばらく黙ったままだった景時が、時間の迫っているのを気にしてだろう、一瞬船の方を見遣り、そして再び望美を見ると、諦めたように溜息をついた。
「……はぁ〜〜〜、な〜んでわかっちゃうかなあ。オレ、そんなに嘘つくの下手?」
殊更がっかりしたようにそう言う景時の、その言葉に望美は胸を突かれた。景時は自分の嘘を見破られるなんて思ってもいなかったのだろう。自分の嘘に自信を持っていたのだ。……それほどに、嘘をつくことに慣れていたのだ。本当は戦が嫌いで、洗濯が好きで、それを仲間の兵たちに知られたくなくて隠していて、でも、望美はそんな景時のことを知っていて。だから、自分は彼の本当の姿を知っているのだと思っていた。それに安心して、そのもっと奥の彼の真実に目を向けられなかった。
「……景時さんが、嘘をつくのが下手なのかはわからないけど、でも。
 私には、わかるんです」
 時空を越えて、一度、経験しているから。これは本当はずるいことだけれど、それでも、今は罪悪感よりも自分の持つこの力に感謝している。望美の言葉に景時はどこか自嘲気味な笑みを唇に浮かべ、小さく息をついた。そして肩を竦めて望美を見遣る。その瞳は今までとは違う厳しさがあった。
「でもね、誰かが残ってここで敵を食い止めないと仲間は助からないんだ。
 だから、オレのことはいいから君は早く船に乗るんだ」
「嫌です!」
望美の腕を掴んで強く押しやろうとする景時に逆らって、望美は叫ぶようにそう言った。
「望美ちゃん! いいから早く! 時間がもうないんだよ?!」
怒鳴るような景時の言葉には焦りが滲んでいた。
「景時さんと一緒でなければ行きません!」
負けじと望美も景時に言い返す。武士の栄誉のためじゃない、仲間を死なせないためだと、望美は景時の心を知って尚更に彼を一人残す気がなくなっていた。栄誉のために残りたいのだと言えば、無理にでも一緒に船に乗ってくれと頼んだだろう。しかし、仲間を死なせないためなのだと言うのなら、それなら、彼を、一人にしない。
「……私、言いましたよね? 景時さんと一緒にいるって自分で決めた、って」
そう決めたのに、傍を離れて、後悔をしたから。
「だから、私、景時さんと一緒にいます。景時さんが残るっていうなら、私も残ります。
 傍を、離れません……」
声が震えるかと思った。
「望美ちゃん……! 自分が、何を言っているかわかってるの?
 それが、どういうことかわかってる?!」
まるで悲鳴のような景時の声だった。一人、この地に残った景時は二度と戻ってこなかった。望美と二人残ったとしても、今度は二人、二度と京へ戻ることはできないということになるのだろう。
「……わかってないかもしれないけど……」
それは望美自身も死ぬということだとは、わかっているけれど、本当に死ぬということがどういうことなのかは望美にはわかっていないかもしれない、とは思う。痛いだろうし、怖いだろうし、敵に斬られるということも、二度と見知った誰かに会うことも、元の世界に戻ることもできないということで、それらを想像することはできても、わかっているとはいえないだろう。けれど、望美にもわかっていることは、ある。
「でも、景時さんを一人、ここに残すってことがどういうことかは、わかってます。
 それだけは、何があっても、絶対に、嫌なんです……」
 船の上から声を限りに彼の名を呼んだ。世界が終わってしまうほどの絶望を味わった。振り向いた彼の姿がどんどん小さくなっていって、いっそ自分の呼吸もあの場で止まってしまえばいいと思った。何もかもが虚ろで、息をすることさえ苦痛で、何の気力も湧かなくて、心の半分が死んでしまったみたいだった。もう二度と、あんな思いはしたくない。どんなことがあっても。一人、あんな風に取り残されるくらいなら、最期まで一緒にいた方がきっと後悔しない。
「……望美ちゃん」
 苦しげに景時が呟く。望美は勇気を出して景時に一歩踏み出すと景時の軍羽織をぎゅっと掴んだ。その手を離させようとするかのように、景時は上から手を置いたが、先ほどまでのような強い力はなかった。
「景時さん……絶対に、傍を、離れません……」
苦しげにぎゅっと目を閉じた景時が、強く拳を握りしめる。望美の手に触れているその拳が小さく震えていた。一人で死なないで、それなら私も一緒に連れていって。その望美の願いは、誰も死なせたくないという景時にとっては、到底受け入れられない願いなのだろうと望美にはわかっていた。それでも景時が許してくれなくても、自分は景時と一緒に居ると決めたから。望美のその決意だけでも受け入れて欲しかった。
「望美、ちゃん……」
握られていた景時の拳がそっと解かれ、望美の肩に触れる。それは景時から望美を引き剥がそうとする力ではなく引き寄せる力だった。
(景時、さん……)
「望美、ちゃん………君は……」
そう呟く景時の声は、どこか泣きそうに聞こえた。

 その後に続く言葉が、何であったのか、望美は知ることはなかった。やはり拒絶だったのか、それとも、共に死にたいという願いを受け入れてくれるものだったのか。泣きそうに聞こえた景時の心を知ることはできなかった。ほんの少し、彼の真実に近づくことはできたけれど。
 何故なら、景時がその後の言葉を続けるより先に、二人に声をかけた人物がいたからだ。
「……話は、聞かせてもらいましたよ」
 突然現れた弁慶と九郎の姿に、慌てて望美から離れながらも、景時の表情には何処かほっとしたものが浮かんでいるのに望美は気付いていた。お前一人を死なせるわけにいくか、と怒鳴る九郎に、何処か嬉しそうな表情になるのにも気付いた。
(景時さんは、仲間をとても大切に思っている人。
 そして、仲間に大切に思われることに、こんなにも感激する人。
 良かった、景時さんを助けられて。良かった、九郎さんたちが、来てくれて)
 自分ひとりでは、景時を引き止められなかった。一緒にここに残るとしか言えなかった。景時の知恵を引き出して、皆が助かる道を考えようと言ってくれた二人に、望美は心から感謝した。
(どんなに困難なことでも、景時さんの知恵ならこうやって乗り越えていけるんだ。
 私は、景時さんの傍にいよう。
 そして、景時さんが、何を抱えていても、乗り越えていける人だと信じよう)
 懸命に陰陽術に集中する景時の背中を見つめながら、望美はそう決意する。


 もう、二度と間違わない。もう二度と、景時に何も――命も仲間も――失わせたり、しない。




戻ってきた望美が景時と対峙するところは
かなりの真剣勝負だったはずだと思うんですね。
景時の決意と望美の決意のぶつかり合いなワケで。
その割に、景時があっさり「残るつもり」と白状したのは
多分、望美の「傍にいる」という決意を見くびっていたんだろうな〜と思います。
まさか、死ぬことになってもいいから景時の傍にいる、と
言うなんて思っていなかったんでしょうね。


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