綺麗だなあ……
景時はそれを目にした瞬間、ただそう感じた。
鞍馬から帰って数日。剣の腕を九郎にも認めさせた白龍の神子・望美は今やすっかり京邸での暮らしに馴染んでいた。景時も望美と譲と白龍という三人の来客を歓迎していた。 仕事柄、時に夜も邸を留守にする景時は、いくら部下に護らせているとはいえ邸に朔ひとりとなるのが心配だったから、というのも理由のひとつだ。 また、異世界からやってきたという望美と譲は、こことは違う世界の話をしてくれた。好奇心が人一倍強い景時にとって、その話は何よりも面白いものだった。それも、またひとつの理由。 そんなわけで、景時は自身の邸に客人が居てくれることを心から喜んでいるのだが、その他にも大きな理由があるということには、自分でもまだ気付いていなかった。
白龍の神子・望美は、自ら戦場に向かうことを願い、それを渋る九郎を剣の実力で黙らせた。その話を聞いた景時は驚きもし、また、納得もした。 屈託なく明るい彼女の、時に見せる何よりも強い意志の宿った瞳。それは凛として気高く、おそらく彼女がそうと決意したなら何事さえもやり遂げる強さを持ち合わせているだろうと思わせたからだ。
そして今朝も、京邸の庭で望美が剣を振っている。
その姿を通りかかった景時が目にした瞬間に感じたのはただ一言。
綺麗だなあ……
それだけだった。
剣の強さには迷いの無さも深く関わる。九郎の剣は真っ直ぐに迷いのない剣だ。リズヴァーンの剣も迷いを微塵も感じさせない強さがある。 望美の剣はどちらかといえば九郎に似ているかもしれない。ただ九郎よりも、もっと優美でもある。空間に曲線を描くように動く剣先は揺れることなく、彼女の実力を如実に表していた。
景時自身の剣は定まらぬ、と父親に言われたことがある。迷いがあって定まることがない、と。何度繰り返してもどうやっても、それ以上になることはなくて、いつか景時は自分の剣はそれ止まりなのだと悟った。 剣を以って向き合うことが苦手だった。切ることも切られることも、打つことも打たれることも好きではない。 武家の産まれだから、そんなことを言っていられないのは勿論わかっている。しかし、鍛錬のためとはいえ、あるいは、鍛錬のためだからこそ、本気で相手に打ち込むこともできなかった。 相手を打つことも打たれることも好きになれなかった。打たれずに済むように、打たずに済むように攻撃を避け逃げる自分に、父は諦めの溜息を何度ついたことだろう。
(……おかげで今でも逃げるのは得意だけどね)
それは自慢できることではないし、自嘲交じりの呟きではあるが。迷いのない剣を景時は羨ましいと思う。それは心の強さの表れであると思うからだ。 迷いを断ち切れないのは弱さの表れ。逃げるのが得意になったところで何ら褒められたものではない。
剣を振るう望美の姿に見惚れていた景時は、声をかけることすら忘れていた。ぼんやりと望美を眺めている景時に、望美の方が気付いて動きを止める。
「景時さん! おはようございます」
声を掛けられた景時は、我にかえって慌てて笑顔になる。
「お、おっはよう〜、望美ちゃん。頑張ってるね、あんまり無理しないようにね」
そのままその場を去ろうとした景時に望美が声をかけた。
「景時さん、これからお仕事ですか?」
立ち止まった景時は望美を振り向いて答える。
「いや、今日は午後から出仕なんだ。おかげでちょっぴりのんびりできるよ〜」
「じゃあ、時間、あるんですね、良かった〜!」
ぱっと明るくなった望美の表情に、景時は不思議そうな顔を返す。何か力仕事でも頼みたいのだろうか、と考えを巡らす景時に、望美は信じられない言葉を言った。
「あの、稽古にちょっと付き合ってもらえませんか? ひとりだとどうも良くわかんなくて」
「へ? オレに? 望美ちゃんの剣の稽古に付き合うの?」
あまりの驚きに声が高くなってしまったかもしれない。九郎ならともかく。何故自分か。考えて、九郎はこの邸にいないと気付く。譲は……彼は剣ではなく弓を使う。リズヴァーンは……今日は姿を見ない。 確かに今、この邸で望美が思いつく限り稽古の相手になるのは景時となるのだろう。だが、景時には先ほどの望美の剣さばきからして、自分が彼女の相手を勤まるとは思いもしない。 しかし、望美はお願い、というように両手を合わせて景時に向かって言う。
「ごめんなさい、忙しいと思うんですけど、ちょっとの時間でいいので……駄目ですか?」
「いや……駄目っていうか……オレじゃ役に立たないと思うっていうか……」
しどろもどろにそう言い訳をするが、望美はというと景時が謙遜していると勘違いしたものか、景時の元まで寄ってくると、その手を取って庭に降りるように頼み込む。
「一回でいいんで、ちょっと見てください。お願いします。なんだか一人だと動き足りないっていうか……」
「いや、望美ちゃん、それならほら、オレの部下でも呼んで相手させてもいいから……」
そう言いながらも手を引かれていつの間にか景時は草履をひっかけ庭に降りていた。
「じゃあ、お願いします!」
と木剣を手渡される。握りしめると銃とは違う重みを手に感じた。どちらかといえば、銃よりも剣の方がやや軽い。 だが、銃の方が剣よりも扱うに易い。迷いがあっても引き金を引けばそれで終わる。人を切る手応えも感じなくて済む。そのために銃を作った。 それを思い出して苦い思いがこみ上げる。それを振り払うように手にした木剣を握りしめた。望美も同じく向かい合って景時に向かって剣を合わす。
その表情が、先ほどの景時に相手を強請ったときとはうってかわり、真剣な表情へときりっと引き締まる。
やっぱり、綺麗だ……
と景時はふと微笑んだ。瞬間、望美の剣が景時に向かって流れるように繰り出される。それを景時はするりと避けた。人と向かい合って剣を打ち合うのはどれくらいぶりかな、と頭の隅で考える。 たいした腕でもないから兵たちの前で刀を振るってみせたりはしない。失望させると申し訳ないし、志気にも関わる。刀が無くても今の自分には銃がある。 兵を盛り上げるならそれで十分だ。偶に一人、庭で剣を振るったりするものの、結局自分の腕などさして上がるものでもないと思い知るばかりだ。望美のように花断ちを身につけるなど出来たものではないだろう。
「景時さん、本気出してくれていいんですよ? 隙があったら打ち込んできてくださいって」
望美の剣を避ける景時に向かって望美がそう言いながらさらに剣を繰り出す。それを避けてさらに景時は下がる。景時の構えた剣に望美の剣が触れることもなかった。真剣に打ち込んでくる望美を綺麗だなどと思って見つめながら、そんな彼女に向かって剣を打ち込むなど出来ないとも景時は考えていた。 もちろん、自分が彼女に向かって踏み込んだところで、その剣は受け止められてしまうだろうと思ってはいるが。ゆるゆると下がる景時に打ち込んでくる望美。景時はなんとなく、父親と幼い頃にこうして向き合って剣を合わせたことを思い出していた。 同様に、父の剣を受けずに避けて逃げ、自分から打ち込んでこない景時に、父の瞳は何時しか怒りを通り越して失望していった。今目の前にいる望美とて同じことかもしれない、と思うと景時は、どうして良いかわからなくなってしまった。
失望させたくない、けれど、だからといって彼女に打ち込むなどできない。本気を出して、と言われたところで、自分の本気とはどの程度のことなのかわからない。 そうだ、自分は『本気』の出し方がわからない。
なんとなく愕然としたような心持ちで景時は無意識に望美の剣を避けていた。迷いなく景時を追いつめようとする望美の剣を振るう姿は、やはり景時の目には綺麗で眩しく、景時は自分がその相手をしていることに酷く場違いな気持ちになった。 一太刀受ければ彼女も満足するか自分を見限るだろうかと不意に思い、景時は逃げるのを辞めた。振り下ろされる望美の剣の前にただ、立つ。
「兄上、望美!」
そのとき、屋敷の方から朔の声がかかった。ぴたり、と望美の太刀が止まる。景時は既に刀を降ろして無防備な体だ。
「まあ、兄上ったら……望美に一本取られてますのね……望美が強いのはわかってますけど……」
何か言いたげな朔に、景時はわかっているよと言いたげに苦笑する。実際、朔が声をかけるのがもう少し遅ければ明確に一本取られていたことだろう。
「違うよ、朔ー。景時さんってば手加減してくれたの。本気出してくれないんだもの」
額に浮いた汗を手の甲で拭いながら望美が少し悔しげにそう声をかける。驚いた景時が慌てて否定する。
「そ、そんなことないよ、望美ちゃん。オレ、手加減なんてしてないって」
「兄上、それは全然褒められたことじゃありません!」
「……はい」
たはは、と情けなさそうに頭を掻いて笑う景時に、望美は少し膨れっ面をして下から景時を見上げる。
「……でも、本気じゃなかったでしょう? 何か違うこと考えていたんじゃありません?」
「ごめんね」
景時は、望美にも謝った。ちゃんと相手をして欲しいという望美の願いに自分は全く添えていなかったのだから当然だが。
「本気を出せないのも、違うこと考えて集中できないのも、オレのせいだし望美ちゃんに一本取られた言い訳にはならないよ。
だから、望美ちゃんの勝ちってことで間違いないって。相手にならなくてごめんね」
笑ってそう言ったけれど、何処か何故か苦かった。迷いのない彼女は綺麗で強い。自分は何時になっても迷いを捨てられない、無様ですらある。 『本気を出せ、死ぬ気でかかってこい!』そう叱咤された幼い頃。父の言う『本気』がわからなかった、今もわからない。どれほど懸命になったところで自分には届かないのに、それでもまだ『本気』じゃないからだ、と言われたことを思い出す。 彼女も同じことを言うのだろうか? それは景時が隠している劣等感であり、笑顔を浮かべていられる間に、できればこの場を離れたかった。しかし、望美は悔しげに息を吐くと、景時に向かってびしっと指を指した。
「ああもう、悔しいなあ! やっぱり、景時さんを本気にさせるには私ってまだまだなんですね!
もう、絶対! 景時さんが他のこと考える余地もないくらい、本気になって相手してくれるように
強くなってみせますから! なんか、もう、とんでもなく強くならなくちゃ無理っぽい気がして悔しいけど!」
景時は呆気にとられてしまった。一体、どうしてそういう結論に彼女が辿り着くのかが不思議だった。不思議で、でも、真剣な表情の望美を見ていると、苦かった胸の奥が不意に緩んでくるのがわかる。 無理に見せていた笑顔ではなく、こみ上げてくる笑いに景時は喉を鳴らした。子どもっぽいと思われたとでも感じたのか、望美の頬が朱に染まり唇が尖る。
「ご、ごめん、ごめんね、望美ちゃん……君のこと笑ってるんじゃないんだけど……」
嬉しくて、と言うのもおかしくて景時はそこで口ごもる。そこに溜息混じりの朔の声が届いた。
「望美ったら……そんなの目指すだけ無駄だと思うわ、兄上ったらいつだってふざけてばかりで
本気になるなんて、私だって見てみたいくらいだもの」
「ひどいなあ、朔〜」
本当のことです、とさらに厳しい朔の声。
「難しいことこそ、挑戦しがいがあるってものよね! ぜーったい、景時さんに本気出させちゃう!
頑張るから、また相手してくださいね!」
ところが、その言葉さえ望美にとってはやる気を起こさせるものでしかなかったらしく。景時は素直に目の前の少女に自分は完敗だと思った。 きっと敵わないし、彼女の願いなら何でも聞いてしまいそうだ。
「さあ、望美、お茶にしましょう。
譲殿が、何か珍しい菓子を作ってくださったみたいだわ。白龍もお待ちかねよ。
……兄上も、よろしかったら来てくださいな。」
「えっ、本当? きっとプリンだ。この前、作ってみますって言ってたから、譲くん」
途端に望美の笑顔が瞬く。剣を持ったときの凛とした表情、少し拗ねたように頬を紅潮させていた顔、そして今の屈託のない笑顔。どの姿にも目を奪われるなあと、その横顔を眺めながら景時はぼんやり思う。それから気がついたように
「じゃあ、オレ、後片づけておくから行っておいでよ、望美ちゃん。
白龍もお待ちかねってことだし、あんまり待たせちゃ悪いから」
と言って、望美の手から剣を取った。
「えっ? 景時さんは? 景時さんも食べましょうよ。譲くん、皆の分作ってると思うし。
甘くてすっごく美味しいんですから」
「うん、片づけたらオレも行くよ。だから、ね。朔も待ってるし」
そう言うと望美はやはり、笑顔で「じゃあ、お願いしますね、すぐ来てくださいね」と言うと、ぱたぱたと朔の待つ縁まで駆けていった。 その後ろ姿を見送って景時は静かに息を吐いた。胸が痛い。嬉しくて嬉しくて、胸が痛いのだ。そんなことは初めてで、どうしていいのかわからなくて、それでも望美がすぐに来て、と言っていたことを思い出すと彼女の言った通りにすべく手にした剣を片づけるためにその場を後にしたのだった。
END
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