夜の海 ―2―




 屋島で景時を助けられたことにほっとした望美だったが、その後、再び本当にそれが景時の願いだったのかどうかを悩むことになった。それまでとは打って変わって、景時に避けられているような気がするのだ。いや、相対して会話する態度に変化は何もない。やはり、優しくて望美を思いやってくれて、そしてきっと、自分のことを大切に思ってくれている。そう感じる。けれど2人になることをさりげなく避けられている気がした。
 景時の真実を知りたくて、屋島で彼が死ぬという運命をやり直した。そして、そのときの彼を見て……やっぱり彼は死ぬことを望んでなどいない、生きていたかったはずだと確信した。けれど、再び、景時の心が望美には見えなくなりかけていた。何を考えているのか、何を抱えているのか。どんなに近づいたと思っても、心の奥底の本当を景時はけして見せてくれない、そんな気がして寂しかった。
 景時がおかしい、というのは何も望美だけが感じていたことではない。屋島の後、平家を追いかけた源氏軍ではあったけれど、その勢いはけして揚々としたものではなかった。景時の言動が主な理由だ。兵たちがこそりと『臆病風に吹かれたのか』とささやくように、景時はすっかり慎重な姿勢を見せて九郎と対立するようになっていた。それは望美の目から見ても不自然なもので、どう考えても作戦にも言い訳にもなっていないと思うことを、景時はまるで必死に言いつのっていた。それは、彼の本質を良く知らない人間にして見れば確かに『臆病風に吹かれた』ように見えただろう。けれど望美にはそうは思えなかった。なぜなら、彼が臆病風に吹かれることなどあり得ないからだ。誰が知らなくとも、彼は屋島で死のうとしていた。命を捨てることに何の躊躇いも持っていなかった。そんな彼が何故今更に、自分が死ぬことを怖れることがあるだろう。今も彼の瞳には時折、あの時と同じ陰がよぎるというのに。
 そうした望美の不安と焦燥とは別に、源氏軍にも動揺は広まっていた。総大将の九郎と軍奉行の景時の対立は士気の面でも影響が大きい。八葉たちも二人の対立に顔を曇らせることが多くなっていた。遠慮のないヒノエなどは、兵たちと同様の景時についての感想を口に上らせる。ただ、兵たちと異なるのは、皆、景時には何かそうすべき理由があるのかという疑問があることだ。そして、その理由を皆から隠す景時に苛立ちを覚えているのだ。
(……このままじゃ、駄目だ)
 九郎が軍議の席で景時の言葉を遮り、明日にはもはや平家との決戦を行うとするとした日。望美もまた切羽詰った気持ちでいた。景時の本当の気持ちを知りたい、ずっとそう思い詰めてきたことが限界に近くなっているだけではなくて、軍の中で孤立していこうとする景時を見ていられなかった。誰にも心を閉ざして自分だけで何かを背負おうとしているその姿を見ていられなかったのだ。
 軍議の後、姿を消した景時を望美は探した。
 船が浮かぶ夜の海は空の色より濃い闇色で、まるで何もない空に浮いているかのようだった。船板一枚の下は奈落なのは間違いがないことではあるけれど、それがこの先の未来のようにも思えて望美は身震いした。景時を屋島で失って以来、本当にこの運命は正しいのかと時折、このままの運命を進むことに恐ろしさを感じた。自分は景時を本当の意味で救うことができたのか、彼はもう死ぬことはないのか、と。あの痛みを二度と感じたくなくて。思い出すだけで今でも胸が引きちぎられそうに痛む、あの屋島の光景。この運命は正しいのだと景時自身の答えを聞きたいのかもしれなかった。
 空の闇に紛れるようにして誰もいない甲板に景時が立っていた。その姿を見て望美はどきりとする。本当に闇にとけ込むかのようにその姿が消えてしまいそうに見えたからだ。その笑顔はお日様の下にこそ似合うというのは、絶対に間違っていないと思うのに、闇に融けそうにたたずむ姿はまるでその場こそが景時のあるべき場所であるかのように見えた。
「景時さん……!」
 思わず焦ったように望美は景時に声をかける。望美の姿に気づいて顔を上げ、少し微笑んだ景時に望美はほっとした。たとえそれが本心からではない作った笑顔であったとしても、彼の笑顔には確かに光を感じることができたから。
「やあ、望美ちゃん」
 柔らかなその声はどこか疲れが滲んで聞こえた。
「良かった、望美ちゃんのこと探してたんだ」
 その言葉に望美はどきりとした。ずっと今までさりげなく望美を避けてきた景時が自分を探していたというのだ。
「……ちょっと、話したいことがあってね。今、いいかな?」
 一体それはどんな話なのか……戦を控えたこの時に、彼が、ということはきっと重要なことに違いない。ぎゅっと望美は手を握りしめ緊張した面持ちで景時を見上げた。自分も彼に尋ねたいことがあったのだ。そのことときっと無関係ではないだろう。
「はい……私も、景時さんと話がしたかったから」
 その望美の言葉に少しだけ景時は目を見張り、それから小さく微笑んだ。
「……そう、じゃあ人気のないところへ行こうか」
 そう言って望美の前を景時は歩いていく。その背中を闇の中に見失うような気がして望美はぴったりと景時について歩いていった。人のいない船の舳先に立ち、しばらく景時は遠く波間を……というよりは深い闇を眺めていた。その姿に声をかけることができなくて望美はただ黙って彼を見上げる。やがて望美へと視線を転じた景時は小さく首を傾げて望美に問いかけた。
「ねえ、望美ちゃん。君は屋島で、オレが1人、残ろうとしていることを見抜いたよね。
 その時に限らず、君はオレの嘘をことごとく見破ってきた。
 ……オレはさ、結構自信あったんだよ? 嘘をつくことには慣れていたから……」
そうだろうと望美は思う。望美とて最初からすべて景時の嘘を気付いてきたわけではない。屋島のときだってそうだった。本当を言えば景時の嘘を最初から見抜けたことなどないのだ。
「……ね、オレが今考えていることも、わかる?」
試すように景時がそう言う。望美はそんな景時をじっと見つめた。自分は彼の嘘を見抜いたわけではない。逆鱗を持っていたから『知っていた』だけだ。現に今、彼が何を考えているのかなんてわからない。わかりたくてわかりたくて、本当に彼の心を全て見抜くことができたらどんなに良いだろうと思う。
「……わかりません」
正直に望美はそう答えた。
「……そう……そう、だよね」
 何処かほっとしたような表情で景時がそう言う。
「でも! ……でも、景時さんが何かとても苦しんでいるってことは、わかります」
言いつのるように強く望美はそう続けた。その言葉に景時は少し困ったように微笑む。それからしばらくの沈黙の後、景時はやっぱり少し笑ったまま、言った。
「ねえ、望美ちゃん……オレね、思うんだよ。
 やっぱり、オレは屋島で残るべきだったんじゃないかって。あそこで死ぬべきだったんじゃないか、って」
 静かに吐き出された言葉は夜の海に融けていきそうだった。ずっとずっと、彼はそう考えていたのだろうか、やっぱり彼は死にたいのだろうか。望美は夜に紛れそうな景時の表情を見逃すまいと必死に目を見開く。
「……そんな……そんな悲しいこと、言わないでください……」
間違っていたと思いたくない。彼は確かに、生きることを、仲間と共にあることを喜んでいたはずなのに。死にたいと、死ねば良かったと、そんな風に思い詰める心の闇が何故この人の中にあるのか。何故、それを自分は癒すことができないのか、それが悔しくて悲しくて、視界が滲む。不意に景時の手が伸ばされて、そんな望美の目元を優しく撫で、こぼれそうな雫を拭った。
「……ごめんね、また君を悲しませちゃったね。
 ホントに、オレって駄目だな……」
 そう言う景時の表情こそが悲しげだった。ああ、駄目だ、自分がこんなことで涙を見せては景時を悲しませるだけなのだ、そう望美は感じてぐっとそこで堪える。この人を支えたいと思ったのだ、だからこんなことで揺らいでいてはいけないのだと。二度と彼を失いたくないと思った、そのために強くなろうと決めたはずだ。望美は深く息をした。そしてもう一度、ぐっと景時を見上げる。彼の悲しげな表情を強く、受け止めた。その望美の表情の変化に景時は気づいたのだろう、そっと目を伏せて、触れていた手を離す。
「オレって、本当に最低なヤツなんだよ。君にそんな風に悲しんでもらう価値なんてないんだ」
 そんなことない、と言おうとした望美を制するように景時が続ける。
「君が知らないだけで、本当に、オレは最低な人間なんだ」
 その声があまりに暗くて望美はそれ以上何も言えなかった。景時が自分自身のことを好きではないことは、何処か薄々感じてはいた。けれど、それは武士としての自分への劣等感の表れだと思っていた。本当の自分を知らない故のことだと思っていた。けれど……
「鎌倉で受け取った書状のこと、覚えている? 何が書いてあったか、教えるって約束、したよね」
小さく望美は頷く。辺りはとても静かで戦を前にした兵たちの声さえもどこからも聞こえはしなかった。まるで景時と望美だけが居るかのように。
「あの書状に書かれていたのは……暗殺の命令だったんだ」
ずっと変わらぬ調子で静かに淡々と景時が言うので、望美はその言葉の内容をちゃんと理解するのにしばらく時間がかかった。誰を? いつ?
「それも、初めてのことじゃない。今までだってオレは命令のままに
 仲間を暗殺してきたんだよ。頼朝様に従うようになってから、ずっと――」
戦の中のこと、人殺しを許せないなどと言うことがどれほどにナンセンスなことかは望美にも良くわかっていた。けれど、景時は敵の平家ではなく……仲間を暗殺していたのだと言うのだ。俄には望美には信じられなかった。仲間を大切にする人だ、殺すことを嫌う人だ。それなのに何故……と思って、そして彼の表情を見て気づく。彼とて望んで暗殺を行ってきたはずがない、と。命令だと彼は今言ったではないか――
「この銃だってそうだ。発明した理由なんて半分は嘘だよ。
 自分が安全なところにいて、相手を殺すことができるように作ったんだ」
オレが殺したって相手にわからないように隠れて遠くから狙えるようにね、と景時は自嘲的に続ける。仲間の命を狙うくせに、最後の恨み言を受け止めることもできなくてただただ隠れて事を行ってきたんだ、と。けれど望美は首を横に振った。卑怯だから、弱いから、確かにそうかもしれない。けれど、彼は殺したくなどなかったはずだ。それを強いられたときに、目を逸らさずには居られないことを誰が責めることができるだろう。この人はずっとこうやって自分自身を偽ることを強いられて、自分自身を汚すことを強いられて、そして自分を嫌いになっていったのだと思うと、望美はまるで自分のことのように苦しくて景時の顔を見ていられなくなった。それを景時は軽蔑されたと思ったのかもしれない、強く望美に縋り付いた。
「……もう、イヤなんだ、これ以上、手を汚したくなんてないんだ。
 このままだったら、いつかきっと大切な人までも手にかけなくてはならなくなるかもしれない――
そんなのは、イヤなんだ……ねえ、オレと一緒に逃げてくれないか
 源氏も平家も、今までのこと全部忘れて、どこか遠いところで静かに暮らそう……
 オレの傍に居るって、言ってくれただろう?」
それは哀願だった。どんなにつらそうな顔をしていても景時が本当にこんなに苦しげな声を出したことを望美は知らない。震える声は今にも消えてしまいそうなほどに細くて、縋り付いて望美を見上げる瞳は何処までも深く暗い色をしていて、ああ、この人の抱える闇はこれだったんだ、だから彼はずっと死にたかったのだ、とやっと望美にも全てがわかったのだった。そしてまるで試すように『オレの傍に居るって、言ってくれただろう?』と問いかける景時に応えるようにその背を強く掻き抱く。その腕の強さに景時はほっとしたかのように、こわばっていた体が少し和らぐのを感じた。
「……君が居てくれたら、オレ、ここから抜け出せる気がするんだ」
源氏にとどまる限り……頼朝の支配下にいる限り、彼のこの地獄のような苦しみは終わらないのだろうか。ここに居る限り彼の闇は深まるばかりなのだろうか。景時が望むなら源氏も平家も全て捨ててしまってもいいと望美は思った。それで彼が曇り無く笑うことができるなら。お日様の下でいつも笑っていてくれるなら。
「景時さん……」
けれど、景時の笑顔を思い出したとき、望美はそこに仲間の姿を思い出さずにはいられないのだ。景時の背を抱きしめて望美は目を閉じた。景時が朔のことをどれほど大切にしているか知っている。母親をどれほど大切に思っているか知っている。九郎や弁慶をどれほどに信頼し、譲やリズ先生や敦盛や……八葉の仲間をどれほど大切に思っているか知っている。夏の熊野で仲間が揃って嬉しいと一番はしゃいでいたのは景時だった。
(……あんなに大切にしている人たちを景時さんに失わせたくなんかない……
 全て忘れて、仲間とも二度と会えなくなって、本当に景時さんは幸せになれるの?
 私があげたいのは、そんな幸せじゃない……!)
「……景時さん、逃げる以外の方法を、考えましょう?」
そう、彼が大切なものを何一つ失うことのない幸せをあげたいのだ。
「無理だよ……どんなに考えたって何も思いつかないんだ
 逃げるのが一番なんだよ……!」
望美は自身もしゃがんで景時と目線を合わせる。この人はずっと一人で苦しんで来たのだ。自分自身の心を痛めつけて耐えてきたのだ。でも、今日、今このときからは一人じゃない、そう伝えたかった。
「屋島でも、もう駄目だって思ったけれど、私たち、乗り越えてきたじゃないですか。
 景時さんなら、知恵と勇気できっと何とか出来るって私、信じています」
屋島でだけではない、生田の森でもそうだった。一人では無理だと思っていたことも二人で乗り越えられた。
「……君はオレを買いかぶりすぎだよ……オレにはそんなすごい力なんてない
 オレは、オレを信じられない…」
景時の本当をずっと望美は見つけられなかった。けれど、景時の知らない景時を、望美は知っているとも思う。彼の本当の勇気、そして閃き。緻密な計算と地道な努力。表面にけして表れないそれらを、能力の無さを示すものだからと卑下しているけれど、それは違うと望美は思っている。
「……じゃあ、私のことは信じられませんか? 景時さんを信じている私のことを、信じてください」
静かに望美はそう言った。それに対する景時の答えはなかったけれど、その代わりに望美の背を抱く腕に力が込められたように思う。ただぬくもりを確かめるかのように、黙ったまま抱き合い、景時の肩に頬を当てて望美はそっと目を閉じた。傷つき苦しんでいる景時を愛おしいと思った。彼のしてきたことを彼が許せなくても、仲間で詰るものが居たとしても、それでも自分は許せると思った。けれど……
 景時のために一体、自分になにができるだろう。そう思うとき望美はなんと自分は無力だろうかと悔しく思う。ただこうやって抱きしめて、そしてただ彼を信じることしか自分には出来ない。それでも。
(景時さんの背負っている重いものを、私にも背負わせてください。
 一人で耐えられないことなら、私にも分けて欲しい、きっと二人なら乗り越えられるもの)

闇が深い夜の海にも、やがて朝の光が射すように。




ということで、とうとうきました、一緒に逃げようイベント。
ここを景時視点で書くか望美視点で書くかで迷いました。
でも、ここでの景時の想いはまだまだ掘り下げられていないので……
この場面での景時の心はとても複雑だと思うのです。
望美にこう言われて、やっぱり景時は絶望と希望の両方を感じたことでしょうね。


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