深淵




鶴岡八幡宮から梶原邸に戻ったのは、正午を少し過ぎた頃だった。
「これで鎌倉の怪異も解決したわね」
朔がほっとしたように言う。鎌倉の怪異を操っていたのは、平家の将・平惟盛だった。名のある将を討ったという点でも今回の成果は高いと言える。
「それじゃあ、夕方には鎌倉を出立できるかな」
まだ皆が腰を落ち着けて間もないというのに、朔の言葉を受けて景時がそう言ったのに皆が驚きの目を向けた。
「景時、まだ皆、疲れも取れていないのではありませんか?」
「そうですわ、兄上。いつもなら兄上が一番にゆっくり休みたい、とおっしゃるでしょうに」
弁慶は物静かに、朔はいつものように少し窘めるように強めの口調で景時に向かってそう言う。景時はそんな二人にどこかもどかしそうな表情になりながらも、言いにくそうに言い募る。
「で、でもさあ、ほら、京をあんまり空けておくのは良くないんじゃないかなあ。
 半日でも早く出発できるなら、それに越したことはないんじゃないかな」
「おやおや、いったい何時から君はそんなに職務に熱心になってくれたんですか」
「な、なにさ弁慶。オレはいつだって一生懸命じゃないか」
弁慶の揶揄する口振りに、景時が懸命にそう言うが、もちろん周りの誰も景時に同意しない。ただ、望美だけは、少し心配げに景時を見上げていた。彼が何の理由もなしにそんなことを言うはずがないと思っていたから。そんな望美の視線と目が合うと、景時は少しだけすまなそうな表情になった。それでもなおも早めに鎌倉を出ようと言う景時に、九郎が言った。
「兄上に今回のご報告をするのが先だ。大倉御所へ行く。
 出発はその後、わざわざ夕方に出る必要もないだろう、早くとも明日で十分だ。
 今日のところは、皆ゆっくり休むといい」
大将である九郎がそう宣言してしまえば、景時もそれ以上何も言えなくなる。小さく肩を竦めて景時は九郎と一緒に頼朝の元へ向かい、邸を出ていった。
「景時さん、何か心配ごとがあったのかな」
京へ戻る準備をしつつ、望美はそっと朔に尋ねてみたが朔も首を捻るばかりだった。
「……兄上のことだから、何時までも鎌倉にいては、頼朝様に叱られるとでも思っているんじゃないかしら」
冗談なのか本気なのか、真面目な顔でそう言う朔に、望美は梶原邸の前で出会った頼朝を思い描いた。確かに偉そうで景時を上から押さえつけるような言い方をして、政子も合わせて嫌な感じだった。こんな人間だと知っていたら教科書に掲載されていた頼朝の肖像画に思い切り落書きをしてやったものを、と内心憤慨したことを思い出す。
「……頼朝さんって、いつもあんな感じなの?」
「私は、直接お目通りしたことはほとんどないから、いつもと言われても良くわからないけれど。
 兄上が不甲斐ないから何時も怒られているんじゃないかしら、自分でもそう言っているし」
溜息ひとつついて、朔はそう言いながら着物を畳んだ。望美はその言葉には釈然としないものを感じる。
(景時さんが不甲斐ないせい? ……皆そんな風に思って目を瞑っているの?
 景時さんもそんな風に自分のせいだって思っているのかな……何かしっくりこない、何か違う)
考えても答えは見えてこない。ただ、鎌倉と頼朝とに、景時の様々な苦悩は繋がっていると思うのだ。そしてその原因は景時自身にあるのではなく、むしろ、彼自身抗えない何かがそこにあるような気がして。それをけして明かしてはくれないであろうことがもどかしい。彼のことを知りたいと思い、近く感じ、知るほどに、逆に何も知らないのではないかという思いにかられてしまう。不安ではなくて、もどかしさが望美の心を占めてしまうのだ。


夕方、九郎と景時が戻ってきた。九郎は頼朝に会い、言葉を交わしたこともあってか気合の入った引き締まった表情をしていたが、景時はといえば相変わらず「や〜、ほんっと、疲れちゃったよ。頼朝様の前に出るとどうにも緊張しちゃってダメだよねえ」と苦笑しながらぼやいている。「兄上ったら、そんなだから余計に叱られるんです!」と朔が叱咤すると、情けなさそうに笑うのもいつもの風景で。それを見て相変わらずだなあ、と笑ってしまうのが以前の常だったのに、何故か望美はそんな気になれなかった。
はあ〜、と長い溜息を吐いて部屋へ向かう景時に思い切って声をかける。
「景時さんっ!」
「ん? やあ、どうしたの、望美ちゃん」
振り向いた笑顔はいつもの通りで、朝の早く京へ帰らなくては、と切羽詰まったような様子は微塵も感じさせない。だから望美も、心配することはないのだろうか、と拍子抜けしてしまった。
「えーと……大丈夫でした?」
何が、と言われそうだが、漠然としたそんな問いしか口から出てこなかった。しかし、景時は望美の言わんとすることを判ってくれたようで、いやあ、と情けなさそうに笑った。
「うん、一応ね、ちゃんと鎌倉の怪異は解決しました、平惟盛を討ちましたって報告したけどね。
 これで鎌倉は大丈夫です、って言ったけど、『本当だな?』なんつって言われたときは
 ちょっと緊張しちゃったよ〜〜本当にもう呪詛は残っていないよなあ?
  って考えちゃった」
「……大丈夫ですよ、だって、あとは怪しい噂もなかったんですし」
「だよね? ほんと、鎌倉まで来て、毎日調査だの穢れを祓うだの封印だの、
 望美ちゃんもごめんね」
「そんなの、構わないですよ。だって、もともとそのために鎌倉に来たんですし」
慌ててそう言い、それから望美は夕方の空を見上げた。赤く染まりかけた空は、まだ星は出ていないが、じきに陽が沈んで夜になるだろう。それでも。
「ね、景時さん、それじゃあ、邸の近くでいいから、少し鎌倉を一緒に歩いて案内してくれませんか?」
武士の作った都だ、と誇らしげに景時が言っていたこの町を、探索ではなく歩いてみたかった。景時はしかし、驚いた声を挙げる。
「えっ? こ、これから?」
「えっと……ダメですか? だって、明日にはまた京に出発するみたいですし……」
「うーん……」
景時は考えながら空を見上げた。その目は夕焼けを見つめているようでいて、何かもっと違うものを捜しているようにも見え、望美は訝しげにその表情を見つめる。
「えっと……あの、景時さんも準備しなくちゃいけないだろうし、
 ごめんなさい、迷惑だったらいいんです」
「あっ、そうじゃないんだよ、全然、オレは大丈夫。それじゃあ、夕餉までに戻れるように、
 さっと、この辺りを案内しようか。このあたりは御家人の邸ばかりなんだけど
 偶に、邸の門の前で子どもが物を売っていたりするから」
大丈夫だよ、と景時は言い、望美はほっとして笑顔になった。
「じゃあ、ちょっと出かけてくるって朔に言ってきますね」
ぱたぱたと駆けていく望美の背を見送って、もう一度虚空を景時は見上げる。
(……鎌倉にいるなら、何処にいたって一緒、か)
心の内でそう呟いて、景時は望美の後を追った。

「この先は、北条家のお屋敷があるんだよ。政子様のご実家だね」
「政子さんの家族って……」
想像できずに思わず絶句してしまう望美に、景時は笑いながら応える。
「普通のご家族だよ。父君の北条時政殿は豪胆なお方だけれど、政子様の弟君の義時殿や時連殿は実直な方だし」
「政子さんって兄弟がいるんですね〜」
望美は変に感心してしまう。
「妹御もいらっしゃるよ。もう有力な御家人に輿入れされているけど」
「景時さんは、そういう『有力な御家人』っていうのとは違うんですか?」
特に深い考えもなく望美がそう言うと景時は思い切り咽込んだ。
「オッ、オレ? オレは違うよ。ほら、望美ちゃんも知ってるでしょ、梶原は元々は平家なんだから。
 源氏の有力御家人に、ってことだよ」
「じゃあ、そういう話はなかったんですか?」
「なっ、そんな、オレなんかが北条の姫君って無理に決まってるでしょ、っていうか
 政子様の妹君なんて、とんでもないよ」
大げさに両手と首を大きく振ってそう言う景時をじっと見つめていた望美は、ふふっと笑っ言った。
「良かった!」
「?」
その言葉の意味がわからずに景時は望美を見つめる。少し頬を赤くして望美は悪戯っぽく景時を見上げて笑いながらもう一度、言った。
「良かった! 景時さんにそんな姫君がいなくて!」
そしてそのまま景時に背を向けて走り出す。突然のその言葉に、景時は何も言うことができず、望美の背をただ見送り呆然と立ち尽くした。少し先まで走って行った望美が振り向いて景時に手を振る。その表情はもう夕闇の中、あまりはっきりとは見えない。
「景時さん! 早く!」
少年のように胸が高鳴る。そして同時に胸が痛む。どうして自分なのだろう? どうして彼女なのだろう?
守りたい、彼女を。なのに、どうしても不安が募る。それはきっと、自分が信じられないからだ。

それでも、まだ、不安が現実になることを、何処かで覚悟していなかったのだと思う。
もしかしたら形のない不安は、そのまま形を成さずに消えていくのではないかと思っていたのだと思う。
なぜなら、彼女がいなくなることなど想像することが出来なかったからだ。
きらきらと輝き、真っ直ぐに目を見つめ、凛と気高く、そして、自分に手を差し伸べてくれる、そんな稀有な存在が、消えてしまうなどということを想像することができなかったからだ。
だから、一通の書状が手元に届いたとき、景時はそれを信じることができなかった。有り得ることだとずっと不安に感じていたことのはずなのに、その意味もちゃんとわかっているはずなのに、どうしても理解することができなかった。そんな自分を心配して声をかけてくれた望美の顔を見返して初めて、その書状の意味が景時に浸透してゆく。
それは、救いのない深淵へ景時を誘うものに他ならなかった。




ということで、ここまで来ました。
北条氏って嫌いじゃないんですよね、湯口聖子先生の影響です(笑)
遙か3で、政子はある意味命がけで頼朝に賭けているわけで
ふと、そんな人に勝つためには、やっぱり望美も景時も同じく
命がけの恋であると証明することが必要だったのかしら、とか思ってしまいました。


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