真 実




 夕焼け空は好きではない。赤い空の色を眺めていると、あの日の血の色を思い出す。懸命に落ちない血を洗い流そうと水の流れに手を浸した日を思い出す。いつから自分は歩む道を間違ってしまったのかと考える。

あの日の出会いが間違いの始まりだったのだろうか、それとも生まれてきたこと自体が間違いだったのだろうか。源氏の軍奉行と奉られたところで、本当の自分はそんな器に見合うほどの立派な人間ではないとわかっている。軍奉行という地位でさえも、動かすに都合の良い地位を与えられたにすぎないとわかっている。誰に言われずとも、自分自身の弱さを醜さを卑怯さを自分が一番知っていて、それでいて何もできずに諦めている自分を、何もしようとしない自分を、嫌悪している。

 夕焼けは嫌いだ、血の色を思い出すから。だからオレは空が赤いときは目を閉じる。赤い夕焼けの色に染まった仲間を見ると、まるで自分の裏切りを予言されているような気がして苦しいから、それなら一人、目を閉じた闇の中に立っていようとそう考えるんだ。

 源頼朝という人物は源氏の御曹司であったが、彼の後ろ盾となっている北条氏はもともと平氏であった。東国にも平氏は多くいたが、京で栄える平家一門とは温度差があったことは否めない。北条氏を始め、頼朝に従った東国の武士たちは平氏や源氏という枠を超えて、東国武士の治める世を求めたのである。そして頼朝自身が元が平氏の者であったとしても源氏に下るものであれば分け隔てすることなく迎え入れた。そうすることが自分の力になるということをよく心得ていたのである。従って、源氏の軍の中にも元は平氏という者は珍しくはなかった。石橋山で頼朝を助けたと言われている景時の梶原氏も、元は平氏であり、そのことは源氏の軍の中では周知のことだった。
 それでも源氏の軍の中では、元は平氏である人間が源氏の者と同じように、あるいはそれ以上に重用されることを苦々しく思う者たちもいる。頼朝の後ろ盾となっている北条氏に対して表立ってものを言う者はいないが、軍奉行である景時は石橋山での出来事からして揶揄する者は少なくはなかった。
『裏切り者が軍奉行では、いつまた裏切られるかわかったものではない』
『頼朝様に取り入るために、頼朝様がお一人になるまで待って駆けつけたのではないか』
『取り入ることが上手なおかげで軍奉行におさまっている』
『だがうっかりしたことを言うと上総介殿の二の舞になるやもしれん』
『自分が重用されるために上総介どのに謀反の罪を着せたのではないのか』
もちろん、どの噂も景時自身の耳には入らないようにひっそりと囁かれているものばかりだ。しかし、景時はそうした噂をもちろん、ちゃんと心得ていた。そして否定も肯定もしなかった。朔や母親の耳にだけは入らないように気を配ってはいたが、景時にはその噂を否定するだけの自信が自分になかったのだ。実際に自分は仲間を裏切っている。頼朝の道具であるが故に重用されている。頼朝にとって邪魔な者を暗殺している。上総介を殺したのも自分だ。
(たかが噂っていうけど、よく皆見抜いてるなって感心するよ)
自嘲気味に笑いこそすれ、兵たちのそうした声をたまたま聴いてしまったとしても聞こえない振りをすることにしていた。言われて当然の本当のことだ、と。
 もちろん、そうした者たちばかりが源氏の軍にいるわけではない。中には景時に心酔している者もいる。むしろ、そちらの方が多いといえる。石橋山で頼朝を救った源氏の救い主。知略に優れ、陰陽の術さえも操る知恵者の軍奉行。勇猛果敢な九郎と併せて、必ず平家を討ち源氏に勝利をもたらすであろう、と崇拝する者も多い。
『梶原様の下で戦えるのは光栄です』
『梶原様がいらっしゃるなら、この戦は勝ちも同然ですな』
『梶原様こそ源氏に必要なお方。東国を離れた京で戦えるのは軍略に優れ京に詳しい梶原様がいらっしゃってこそ』
 そういう声は悪気なく景時に向かって直接語りかけられる分、悪意を含んだ噂よりも性質が悪い。悪意をこめて囁かれる噂の方が真実で、敬愛を込めて語られる賛美の言葉は嘘なのだ。嘘で塗り固められた景時に向けられた言葉なのだ。曖昧に笑って誤魔化すことに慣れてしまったが、そうやって源氏の救い主と言われる毎に自分の嘘が大きくなっていくような気がして景時は息苦しくなるのだった。本当の自分を知られることと、嘘に塗れた自分を見せ続けることと、どちらが辛いだろう。あるいは、どちらが、まだマシだと思えるだろう。それでも、一度吐いてしまった嘘は、そのまま吐き続けるしかない。嘘を誤魔化すためにはもっと大きな嘘を吐くしかないのだ。内心の不安を隠して、勝てる戦だと皆を鼓舞して、優れた軍奉行であるように振舞うしかないのだ。血の色を怖れて夕焼け空すら見ることができないなどと、気取られてはならないのだ。


 三草山の平家の陣はもぬけの殻だということが偵察でわかった。白龍の神子である望美の言った通り、平家は無人の陣に源氏軍をおびき寄せ背後から討つつもりだったのだろう。もしも何も知らず三草山へ進軍していたなら確実に源氏は敗戦を余儀なくされ、多大な犠牲を出すことになったに違いない。

(白龍の神子の力っていうのは凄いな……望美ちゃんは真実を見透かしてしまう力を持っているのかな……)
 鹿ノ口の平家の本陣を攻める計画を九郎たちと話し合い、兵たちに出陣を伝えるために戻りながら景時はそんなことを考えた。
(そうだとしたら、オレのことなんか望美ちゃんは全てお見通しだったりして……)
 本当にそうだったらきっと彼女は自分を軽蔑するだろうと思って首を横に振る。彼女の自分を見つめる眼差しにはそんな色はない。侮蔑の眼差しも諦念の目も嘲笑も、そんな眼差しは今までにいくらでも受けてきたので良くわかる。望美の瞳には、そうしたものは浮かんでいない。きっと自分の秘密までは彼女にも見抜くことはできないのだろうと安心した。ほっとして、そしてそのこと自体を可笑しく思う。たとえ望美に知られることがなくても、自分が薄汚い裏切り者であることは間違いがない、それなのに、と思うのだ。

「えっ、そうなんですか?」
聴きなれた声が聞こえて、考え事をしながら歩いていた景時は、はっと立ち止まった。それは望美の声だった。
 どうやら兵たちと何かを話しているらしい。屈託なく人見知りをしない望美は兵たちと打ち解けるのも早かった。荒くれ武者を相手に、少しもおどおどとすることがない。京の人々は坂東武者たちを恐ろしいものでも見る目で遠巻きに眺めることが多かったが、望美は全くそんなところがなく兵たちに接していた。ほとんど初陣と言ってもいいはずの今日、もう既に望美は兵たちとすっかり打ち解けていた。神子としての力が未知数であるということもあり、兵たちにはまだ望美が白龍の神子であるということは大きくは知らされていない。それでも兵たちが望美に対して一種の親愛を込めて接しているのは、彼女のその人柄のせいなのだろう。強さと優しさ、その清冽な気を知らず人は感じ取るのかもしれない。
 景時は殊更明るい声を出して望美と兵たちが集っている場所へと入って行った。
「そろそろ休憩は終わりだよ」
 しかし、それまで盛り上がっていたらしい兵たちが景時の顔を見ると声もなく、そそくさと散らばって行ったのを見て、ああ、と景時は納得する。自分のことを話していたのだな、と。望美だけが景時の傍に残った。殊更何でもなさそうに景時が望美に尋ねる。
「オレのこと噂していたのかな〜? 良かったら何話していたのか教えてくれない?」
 なんとなく、自分の知らないところで、自分の知らない噂を望美の耳に入れたいと思わなかった。彼女に自分の何を知られたのかを知っておきたかった。
「景時さんって、昔平氏だったんですね」
 そう聞いてほっとする。そんなことだったのか、と。源氏の中では既に周知の事柄だ。梶原だけではない、北条も平氏の一族だ。源氏対平氏として語られるこの戦の中で、平氏の一族が源氏に味方していることは望美には不思議なことなのかもしれない。東国と京との隔たりというものを語っても理解してもらうのは難しいだろうとも思えた。だから景時は簡単に事実の肯定だけをした。
「みんな知ってることだから、言いそびれちゃったね」
しかし、望美は更に言葉を続けたのだった。
「頼朝さんを助けたなんて凄いじゃないですか」
望美はそう言い、景時を笑顔で見上げた。その言葉は景時を凍りつかせた。それは確かに、景時を語るときに兵たちが言わないはずもない事柄で、それもまた源氏の軍の中では周知の事柄だった。
「や、望美ちゃん、そんなことはないんだ。なんていうか、それはさ……いろいろ尾ひれがついて……
 本当のことじゃなくて大げさな話になったっていうか……」
 引きつった笑みを浮かべて景時は必死にそう言った。今までも、そんなことは言われていたし聞きなれてもいた。これまでは上手く笑いながら流してきた。なのに、何故今回ばかりはそうできないのだろう。それは、望美には知られたくないことだったからだ、と景時は気付く。
『兄上が命を助けられたと聞いた。九郎からも礼を言う』
九郎にそう言われたときもいたたまれずに何も言えなかった。自分が仲間を裏切っていると一番思い知らされるのは、陰口を囁かれたときよりも、そんな風に心から賞賛や礼を言われたときだ。仲間にそう言われるときこそ自分が一等薄汚く思える。だからこそ、望美からだけは、嘘の出来事を賞賛されたくなどなかった。
 気付いた時には景時は望美に言っていた。
「違うんだ、望美ちゃん……オレは手柄を立てたわけじゃない。
 手柄に縛られているんだ……」
口にしてから後悔した。九郎に対してすらも嘘を通しているというのに、望美には嘘の自分を本当だと思われることが溜まらなく耐えがたい。それは間違いなく、彼女が自分にとって特別な存在だからだ。
「……私でよかったら、話してください」
 望美の声は静かで優しい。真実を知られることは怖い。けれどきっと自分はずっと誰かにそう言って欲しかった。本当の自分を知って欲しかった。誰に対してさえも、虚像である自分しか見せることができないことをずっと辛く感じていたのだと、そんなことに今更に気付く。そして、望美に出会ってからはずっと、きっと彼女にこそ、そう言って欲しかったのだ。
 景時は躊躇った。誰にも話したことのない真実を告げることを迷った。望美はしかし、促すでもなくただ静かに景時を見つめ待っていた。
 澱のようにずっと長く長く景時の心に溜まっていたものがその眼差しに融けていく。誰にも告げることのなかった秘密が零れた。話すべきではないと思いながらも、言わずにはいられなかった。本当のことを告げた後、ひどく呼吸が楽になって、今まで自分はこんなに息苦しい思いをしていたのかと気付く。しかし、話し終えた後、しばらく望美の顔を見るのが怖かった。
「景時さん……」
 そっと呼びかけられ手に触れられて顔をあげる。まるで自分のことのように辛そうな表情で望美がじっと景時を見詰めていた。その瞳には相変わらず、侮蔑の色はなく、ただ労わりと優しさだけが満ちていた。
(……ああ、君は、こんなオレの気持ちを思いやってくれるんだね……)
思わずまた何かを言い募ろうと口を開けて、そして言葉を飲み込む。それだけじゃないんだ、と言い出せばきっと本当に何もかもを告げてしまいそうで、けれど、そればかりはきっと彼女も自分を受け入れてはくれないだろうと思えて。それだけじゃないんだ、オレはそうやって頼朝様に従って以降、何人も仲間を殺してきたんだよ……そればかりは言えない。少し目を閉じて、広がった闇の中にその言葉を沈めてから、景時は目を開け望美に向かって静かに言った。
「……誰にも話したことのないことなんだ。……内緒にしておいて、くれるかな」
上手く笑えたかどうかは自信がない。けれど、望美は頷いてくれた。
「それじゃあ、鹿ノ口へ出陣しよう。九郎たちが待っているよ」
そう言って望美を促し、先に立って歩きながら景時は深く静かに息を吐いた。結局自分は、楽になりたかっただけなのだろうか。嘘を重ねる苦しさを彼女に救って欲しかっただけなのだろうか。おそらくそうなのだろう。

 嘘を誤魔化すためには、もっと大きな嘘を吐くしかない。際限なく嘘を重ねていかなくては、最初の嘘さえ隠し通せない。そして、もしもそこに綻びが出来たなら。どんなに小さなことであれ、真実が零れてしまったら、重ねた嘘はいずれ剥がれ落ちてしまうだろう。いつか望美は、今はまだ隠している景時の真実に気付くかもしれない。
 それを思うと景時は、望美に真実を話したことを、そして話さずにはいられなかった自分の弱さを後悔せずにはいられなかった。






やっぱり、今まで隠してきたことをつい話してしまうのは
特別な人だから、だと思うわけで。
でも景時は、その後激しく後悔しそうだとか思ったりして。


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