花纏う君




京に着いた後、落ち着く間もなくあわただしい日が続いた。長く空けていた邸は手入れをする必要があったし、鎌倉からの書状が届くとともに朝廷との遣り取りもせねばならず、九郎はもちろん、景時も邸になかなか長くいる時間がとれなかった。それでも戦の最中とは違った活気が市中にもあって、春めいてきた季節とあわせてどこか気分を高揚させる。
九郎は誤解もとけ、兄から西国を任されたとあって今まで以上に張り切っていた。景時に対してはただ一言『兄上の誤解を解いてくれてありがとう』と言っただけだった。九郎にも頼朝の本心はとっくに良くわかっていた。兄が自分に対して兄弟の情を持ち合わせていないことも知っていた。それでも源氏のために戦功をたてることで兄の心に届けば良いと思っていたのだ。そして、一度は謀反人として捕らえられながらも、今もなお兄への想いは捨てられない。西国統括の勤めを立派に果せば、いつかは兄と語り合える日がくるのではないかと願っている。どうあっても九郎にとって兄は一族の誇りを取り戻した英雄であり、九郎自身にとってもそうなのだった。少なくとも、景時のおかげでまだこれからという時間ができたというのは事実で九郎はその一言以上何も言わなかった。そして当然のように今までと変わらず景時と共に職務をこなしていた。
九郎だけではない、景時が不安に感じていたことなど嘘のように仲間たちは当たり前のように景時を迎え入れた。ただ一言ヒノエが『おっさん、あんたに見せ場を譲ってやったんだから感謝しろよな』と人の悪い笑みを浮かべて言いながら望美の背中を景時に向かって押したくらいだった。皆、まるで変わらない様子で笑ってそんな二人を見つめていたし、壇ノ浦からこっちの出来事が嘘みたいだった。それでもそれが嘘ではないことは景時自身が一番良くわかっていた。だから謝ろうとしたのだけれど……景時が口を開くより先に弁慶が言った。
『誰だって知られたくない秘密のひとつやふたつ、ありますよ。僕だってそうだ、君が隠していたことと同じくらいに罪深い秘密ですよ』だから謝るならお互い様だし、君だけに謝らせるのは後味が悪い、と。結局、他の誰だって景時が謝ろうと口を開くとその先を言わせてくれなかった。将臣に至っては『その件では俺は全く関係ねーからな。俺が捕まったのは平家の還内府だからだし、別にお前のせいじゃねーし』という有様だ。だから景時は、結局『ごめん』と誰一人に対しても言うことができなかった。その代わり、皆に伝えたのは『ありがとう』という言葉だった。けれど、不思議と自分もその言葉の方が皆に伝えるのにぴったりな気がした。そしてそのまま京に着いて。その後は忙しさの中に以前と変わらぬ日々が戻ってきたようだった。京邸も活気を取り戻し、将臣という住人も増えて以前より賑やかになったようにさえ思えた。
しかし、以前と変わらないはずなどないのだ。変化は突然に表れる。
最初に口を開いたのは白龍だった。
「神子、五行が整ったよ」
それを聞いた望美は嬉しそうな顔をして白龍を見返した。
「本当? 良かったね、白龍! これで京ももう大丈夫なんだね」
怨霊が生み出されることがなくなり、五行の流れが整い白龍も元の力を取り戻せたというのだ。望美のみならず、皆もそれを喜んだ。冬は去り、季節は疾うに春となっていた。庭の梅花は香り芳しく咲き誇り、白龍の言葉で本当にこれで全てが終わった、全てが在るべき形に戻ったのだと皆も感じたことだろう。その白龍の言葉に触発されたわけではないだろうが、ずっと京邸に世話になっていた将臣が、あるとき景時の部屋を訪れた。
「あれ? どうしたの、将臣くん」
京邸に滞在していても昼は景時は仕事に出ており、将臣も京の町へ出歩いていてあまり顔を合わすことがない。その将臣が帰りを待って部屋へやってきたことに景時は驚いた。将臣は特に何を思うふうでもなく、珍しげに景時の部屋の中を見回した。
「へえ、今を時めく源氏の軍奉行っつっても、結構質素なもんだな」
「や、やだなー、オレなんてそんな贅沢できるわけないでしょー。頼朝様に知れたら大変だよ」
「いや、いいんだよ、過ぎた贅沢なんざ、毒にしかならねーんだよ。
 質素だって、家族仲良く暮らせることが一番の幸せなんだ」
妙にしみじみと将臣が言うので、景時も思わず真顔になって将臣を見返す。将臣は肩を竦めて笑ってみせた。景時が帰ってきたのはもう夜も遅い時間で、家人は寝静まっていた。将臣の開けた部屋の戸から月明かりがほんのり差し込む。部屋の中の灯りがゆらりと揺れた。将臣が何のことを言っているのか、景時にはすぐに分かった。平家にあらずば人にあらず。そう言われた平家は贅を尽くした日々を送っていたという。その栄華を永久のものにせんがために龍脈を自らの力の源とし、五行を乱した。他者を全て蔑ろにし自分達だけの栄華を願い、それが自分たちには許されるのだと奢り昂ぶった。本当に追い求める『幸せ』がなんだったのか見失ったとき、身を滅ぼすしかなくなった。平家の中にも贅を尽くした暮らしよりささやかでも一族揃って安寧に暮らすことが幸せだと思う人もあっただろう。しかし、誰もそれを止めることができなかった。
「将臣くん……」
還内府と呼ばれた将臣は、しかし本当の小松内府重盛ではもちろん、ない。将臣は平家一門の『贅と奢り』ではなく『情』に触れたからこそ、彼らと命運を共にしようと考えた。『情』の面を知っていたからこそ、『贅と奢り』に変わり果てた姿になってもそれを棄てられなかったのだ。
「や、お前や九郎には本当に感謝してるんだ。生き延びた奴らを西に逃してもらったし。
 お前、贅沢するより、こっちがバレる方が首があぶねーんじゃねーの」
思わず景時はしーっ、と唇に人差し指をあて、あたりを見回す。もう荼吉尼天の恐怖は去ったとはいうものの、こういうときばかりはついつい神経を尖らせてしまう。しばらく意識を集中させてから、ほっと景時は肩の力を抜いた。
「やー、将臣くんにはいろいろお世話になったしねー。
 それにさ、詮議したり刑を下したり、めんどくさいでしょ。
 もう挙兵するだけの余力もないようだし」
実際は最後の一言が真実だ。たとえ将臣がなんと言おうと、生き残った平家の人々が再度挙兵する虞があったならけしてこのような方法は取らなかっただろう。しかし、もはや平家一門を束ねる者はおらず人心も平家を離れている。今、平家をまとめ得る人材は還内府と呼ばれた将臣だけだろうが、彼は最早戦を望まないだろう。だから、景時も九郎も残党を西へ逃すことに目をつぶったのだ。
「まあな。戦はもう、うんざりだ。静かにのんびり暮らせればそれが一番だよ、お互い、そうだろ」
「もちろん。ほんと、戦なんて、無いほうがいいんだ」
多分、将臣が何を言いに来たのか、景時は察していた。けれど、それを言いたくなかったし、できれば聞きたくなかったような気がする。
「いろいろ世話になったけど。京もこれで安泰ってことらしいし。
 奴らが気になるんで、オレもそろそろ後を追って西に行こうかと思う」
けれど、将臣はとうとうそう言ってしまって、景時は、そっか、とだけ言った。引き止められないことなど十分良くわかっていたからだ。
「望美ちゃんが、寂しがるよ。譲くんも、心配するだろうし。九郎もすごく残念がるんじゃないかな」
「望美には、あんたがいてくれるだろ。譲は……俺なんかよりずっとしっかりしてるから大丈夫だろうよ。
 九郎は案外、清々するんじゃねーかなあ」
笑って将臣はそう言って肩を竦めた。
「そんなことないよ、望美ちゃんにとって将臣くんの代わりになる人はだれもいないし
 譲くんだってしっかりしていても本当は年相応の少年だし、九郎はあれで案外、寂しがりやだよ」
「……わかってるけどよ、そこはまあ、あんたに任せるってことにするよ」
「……すっごい、オレ、責任重大じゃない?」
「ま、年に何回かはこっちにも遊びに来るさ。望美や譲が居るとして、だけど」
「うん、そうしてよ。皆、待ってるからさ」
しんみりした気分で景時はそう言って、そうして将臣が言った言葉をもう一度よくよく考えてみる。『望美や譲が居るとして』……二人が居なくなることがあるのだろうか? 鎌倉に戻ってしまったらってことか? そんな景時に将臣が言葉を続ける。
「ま、望美はあんたがいるから大丈夫か。譲はどうすっかなー。元の世界に戻るって言うかもしれねえなあ。
 そんときはアイツに随分また苦労かけちまうよなあ、参った」
大仰に溜息をついてみせてから将臣は、「とりあえず、あと1、2日くらいで荷物まとめることにするわ」と言って部屋を出ていった。が、景時はといえばもう聞いていなかった。将臣が出ていったことすら気付いていなかったかもしれない。そう、景時は考えていなかったのだ。望美が元の世界へ帰ってしまうということを。まるで当たり前のように彼女が自分の傍にいてくれるものだと思っていた。いや、今も八割がたそう思っているのだが本当にそうか、一人相撲でないか確信はもてない。そういえば白龍が五行が整ったと告げたときに、喜んでいたけれどあれは帰ることができるということなのか?
(……聞いてみようか。『望美ちゃんは元の世界に帰るの?』って……ってそんな聞き方したら駄目だー。
 帰るつもりだったら何を今更、って感じだし、そのつもりがなかったら、まるで帰った方がいい、って言ってるみたいじゃないか)
どうでも良いことには饒舌なくせに、こういうことに関してはまったく言葉が出てこない自分が嫌になる。はあ、と景時は溜息をついた。全てが終わったということは、新しい始まりということで、そしてそれは『今までどおり』ではけしてありえないのだ。ヒノエは熊野に帰り、リズヴァーンは鞍馬に姿を消すだろう。敦盛は将臣と共に行くかもしれない。譲は将臣の言うとおり、元の世界に戻るかもしれない。そして、もしもその上、望美までいなくなってしまうとしたら――
(――だめだ、そんなこと、考えられない)
想像ができない。望美が自分の前からいなくなるということが。望美のいない毎日が。自分の傍に望美がいないということが。がしがしと景時は両手で頭を掻きむしった。考えられないなんて言っていられない。しかし、望美のいない日々というのは――壇ノ浦近くの寺で、望美が目覚めるのを待っていたときを思い出した。二度と目覚めないのではないかと一瞬不安に襲われたときの絶望感を思い出した。もう二度と姿を見ることもない、声を聞くこともない、触れることもできない、そんなことになったら――。けれど、もし望美自身が帰りたいのだとしたら――。望美は景時に平穏な日々を与えてくれた、それだけで十分で彼女に感謝して元の世界へ帰してやるべきではないだろうか――様々な考えが景時の頭の中を巡っていく。
(いや、まって、オレ。落ち着いて落ち着いてってば。の、望美ちゃんにそうと言われたわけじゃないんだから……)
そうだ、だから最悪なことばかり考える必要はない。ただ、望美自身の気持ちを確かめなくては……と思って景時は溜息をつく。望美の気持ちを確かめる? そうじゃない、と思った。そうではない、望美の気持ちを確かめることが大切なのではない。自分がどんなに弱くて情けない男なのかなんて、もう望美にはとっくに知られている。それでも自分を信じると言ってくれたのが彼女で、それでも傍にいると言ってくれたのが彼女だ。だから、情けなくてもいい、自分の言葉で自分の気持ちを彼女に伝えればいい。そう、自分の気持ちを伝えることが大切なのだ。


「ん〜! いい香りですね! ここからでもほのかに梅の香りが楽しめます。
 やっぱり、景時さん、梅が好きだからここに自分の部屋なんですか?」
高欄から身を乗り出す望美を背後からヒヤヒヤしながら景時は見つめた。
「望美ちゃん、危ないよ」
「へーきですよ、落ちそうになったら景時さんが支えてくれるでしょう?」
無邪気に振り向いてそういわれると、景時はもちろん、と頷くばかりだ。望美の髪が風に揺れて、うっとりと香りを楽しむように目を閉じた横顔にさらりと流れていく。綺麗だ、と景時は思った。春の女神のように綺麗だ、梅の花を人に映したように綺麗だ、オレが触れていいのかと思うくらいに綺麗だ、と思った。オレが触れてもいいのだろうか、という思いに、きっと以前なら自分にはそんな資格はないと怖気づいただろう。けれど望美になら、それでもオレは君に触れたいと言える。望美になら。
「ね、望美ちゃん。オレ、ずっと君に言わなくちゃいけないことがあったのに言えずにいたんだ。
 っていうか、その、君がここに居てくれることがすっかり当たり前みたいになってて、それに甘えてた。
 君は異世界から来た神子さまだってこと、わかっているけれど、でもオレは君がいてくれないと、駄目なんだ。
 君がいない毎日なんて、想像できないんだ。
 白龍の力が戻って、君が望めば元の世界へ戻れるってことわかっているけど、でも
 ずっと、オレの傍に、居て欲しい。……君を、帰したくないんだ――」
景時の声が聞こえているはずなのに、望美はしばらく目を閉じたまま、梅の香りを楽しんでいるかのようにうっすらと微笑みを浮かべていた。やがてゆっくり目を開くと、微笑んだまま景時に向き直る。
「……景時さん。私、言いましたよね? ずっと、景時さんの、傍にいます、って」
それってもちろん、期限なしにずっと、ってことなんですからね、と言って望美はにっこりと笑みを深める。風になびく髪に手を当てて抑えながら、そう言いきる望美に景時は手を伸ばした。そうだ、彼女は自分に嘘なんかついたことなかった。彼女が「ずっと」と言ったならそれは本当にずっとなのだ。……それでも、やっぱり、自分の気持ちを伝えることは必要だったと思うけれど。望美は景時の動きに逆らうことなく――というかむしろ、飛び込んでくるような勢いで景時の腕の中にすっぽりと収まった。
――抱きしめた望美は花より甘い香りがした。

 




EDとのちょうど間って感じでしょうか。
こんなに将臣が出張るとは思っていなかったけれど!
ということで、ラスト1話はED後、ただの甘甘になる予定です(^^;)


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