ほのか




 三草山への進軍が決まって慌ただしい一日が終わり、景時は京邸へ戻ってきた。あちこち書簡を出したり、兵を分けたり、資材の調達に武器の手入れと点検、馬も同じく。すべて素早く的確に終わらせなくてはならないものの、予定というものは常にいささかの狂いを生じるもので。なんとか終わらせて帰ったときには既に夜も更けていた。しばらく留守になる京邸のことについては、朔が下働きの者たちに指示を出してくれているであろうから心配はしていない。
 とりあえず、明日に備えて寝るのが肝心だと思いつつ、腹が減った景時は家人を起こさぬようにそっと台盤所へ向かうと、皿に残った味噌と朔が作っておいてくれたのだろうか、握り飯を見つけてそれを手に部屋へ向かった。

 どうせ誰も見ていないものだから行儀悪く、手にした握り飯を食べながら歩く。自室に向かう簀子を歩いて部屋に入ろうとしたとき、暗い庭で踞る影を見たような気がして景時は目を凝らした。もうすっかり邸は静まっていて、起きている家人がいるとは思えない。景時はそっと素足のまま簀子から足音を忍ばせて庭に降りた。手にした握り飯と味噌の皿にふと目をやり、置いてくれば良かったと少し考える。それでも、戻ることはせずに影が見えたと思うあたりへと近づいた。

 池の傍に作られた山にみたてた盛り土に配置された石の上にしゃがみこんで、池を眺めている姿を認め景時は目を眇める。妙に心配になるのは、朔が夜中に同じように家の庭を彷徨って歩いた時期があったからだ。だが、そこに踞っている人影の髪は長く、朔ではないことがすぐにわかった。

「……望美、ちゃん?」

そっと驚かせないように声をかけると、水面を眺めていた人影が顔を上げた。

「あ、景時さん。おかえりなさい。遅かったんですね」

 顔をあげた人物は、確かに望美だった。膝を抱えるように石の上に座り込み水面を眺めていた彼女は、景時を見ると笑いかけた。その笑顔が嘘かどうか確かめるように景時は注意深く見つめながら彼女に近づく。夜に一人、こんな風に自分自身を確かめるように踞るのは、普通なことじゃない、から。昼間の彼女の明るい笑顔を思えば、夜の庭に一人佇む姿は意外なものだった。それでも、人は何かを隠していることも多々あると、景時には良くわかったから。だから、彼女のその笑顔が嘘なのではないかと確かめるように、じっと見つめた。
 しかし、望美の笑顔は日の光の元で見るのとは異なる月光独特の透明感を漂わせながらも、柔らかく優しいいつもの笑顔で、景時にはその奥に何があるのか伺うことができなかった。

 景時が近づくと望美が少しばかり身体の位置をずらしたので、その隣に景時もしゃがみこむ。そして、望美が見つめていた池の水面を自身も覗き込んでみた。

「何が見えるの?」

そう尋ねてみると、望美は、うーん、と少し考えてから

「お月様」

と答えた。今夜は満月でもなく月を愛でるには中途半端でしかなく、景時は、ふうん、と答えながら水面に映った月を眺めた。

「どこででも、いつでも、変わらずにそこにあるものって凄いな、って思ったり。

 ずっと自分もそれを眺めていられるようありたいな、と思ったり。なんかいろいろ考えちゃいました」

思い切ったようにすっぱり、そう言われて、景時はまた視線を望美に移す。その横顔は微笑んでいて、視線は遠くを眺めているように見えた。そういえば、如何に剣術に優れていようと、宇治川で怨霊と出逢いそれを封印していようと、彼女はまだ本当の戦場に出たことはなかったのだと思い当たる。おそらくは、初めての戦場を前にして緊張とも高揚ともつかない心持ちになっているのだろう。自分もそうだった。生きて再び眼前の風景を見届けることができるのだろうかという漠然とした不安を抱いていたものだ。
 彼女だってきっと同じなのだろう。何か言葉をかけようと口を開きかけたとき、望美が景時の方を向き直り、そして急に笑い出した。

「? ど、どうかした?」

何がどうしたのかわからずに、景時が尋ねると望美は可笑しそうに笑いながら景時の手を指さした。

「景時さん、お握り持って……」

はっと気付いた景時は自分が両手に持っているものを思い出して赤くなった。味噌の皿にかじりかけの握り飯。これで真面目な顔をしたところで、笑い話にしかなるまい。自分の情けなさにがっくり項垂れつつも

「あはは〜、遅く帰ってきたものだからお腹空いちゃってね。握り飯が残っててこれ幸いってとこかな〜」
と言いながら、皿を置き、味噌を掬って握り飯に少しつけると一口囓った。しかし、そんな景時を望美は見つめて息をついた。

「笑っちゃってごめんなさい。でも、なんだか景時さんを見ていたら元気が出てきたかも。
 明日のことを考えると、すごく緊張しちゃって夕餉もあまり食べられなかったんだけど……」
「あ〜、オレもねえ、初陣の前は何も喉に通らなかったなあ。終わった後もだったけど。
 でも、何か口に入れないと身体が保たないって無理矢理食べさせられてさ〜
 お陰で今は慣れちゃったよ。何時でも何処でも食べられるっていうか」
笑いながら景時はそう言った。事実、その通りだった。今では戦場の真ん中でだって平気でものを食べることができる。たとえ味など全くわからなくなってしまっていても、ただ口に入れて咀嚼して飲み込む作業を淡々と行うことができる。

「でも、それはやっぱり、たいしたことだと思うんですよね。
 少なくとも、やるべきことがちゃんとわかっていて、それを行うことができているってことですもん。
 基本はちゃんとご飯を食べること! そうですよねえ」
うんうん、と頷いて望美がぎゅっと拳を握り締める。その表情は真面目で、本当の本気でそう思っていることを感じさせる。つい、景時は笑ってしまった。どうして、彼女ときたらこうなのだろう、と思うと、可笑しくてではなくて嬉しくて笑わずにはいられなかったのだ。しかし、望美はというと心外だというような表情をして景時を振り返る。

「あっ! 笑いましたね! ひどいなあ、景時さん」
むっとした表情で頬を膨らませる望美に景時は謝る。
「ご、ごめん! ごめんね。可笑しくて笑ったんじゃないんだよ。ほんとに。
 ただ、望美ちゃんらしいなあっていうか……うーん、まだ君のこと、そんなに良く知ってるわけじゃないのに
 変だけど……でも、すごく、望美ちゃんらしくって、いいなあと思ったんだ。笑っちゃってごめんね」

じっと景時を見つめたまま頬を膨らませている望美は、しばらくそのままじっと景時を見つめていた。景時もどうしたものかそのまま望美を見返している。と、望美が不意に笑顔になって
「わかりました! じゃ、景時さんのそのお握り、分けてください!
 私も見習ってちゃんとご飯食べようっと」
と言ったので、ほっとした。それから言われたことを反芻して驚く。

「ええっ! いや、でもこれ食べかけ……」
「気にしませんよ。っていうか、多分、そのお握りも私が残したから朔が作ってくれたものかも……
 おなか空いたら食べなさいねって言ってくれてたから……」
「えっ、そ、そうなの?! うわっ、ごめんね!」

心優しい妹の、夜更けに戻ってくる空腹であろう兄への心遣いではなかったのか、と内心少しばかりがっくりしつつも景時は望美に申し訳なさそうに謝ると、望美は笑った。

「もう! また景時さんってば謝るし。そうじゃなくて、私なんかの残りでごめんなさいって私が謝るべきじゃないかなあ。
 景時さんは仕事で遅くなってご飯も食べれなかったのに、そんなものしかなくって」
「い、いやいやいやいや、十分。食べられるだけで十分です」

そしてお互い顔を見合わせて笑い出す。景時は、まだ自分の口がついていないあたりを割って望美に差し出した。

「はい、じゃあ。味噌つけて食べるとウマイよ」
「あー、良くやりました。お味噌塗って、焼いて食べるの。焼きお握りって」
「へー、焼くんだ。それも美味そうだね」
美味しいですよ、と望美は言いながら差し出された握り飯に味噌を少しつけて口に入れた。その様子を景時は見やる。懸命に食べているけれど、なんとなく察しはついた。

「……美味しい?」
「はい、美味しいですよ。味噌ひとつで変わるもんですよねえ」
そう言って望美がにこり、と笑う。けれど、その嘘が景時にはわかった。

(だって、オレも嘘つきだから、わかるんだ)

「……本当は、味なんてわかんないでしょ?」

そう言うと、笑っていた望美の表情が固まった。懸命に咀嚼していた口も止まり、じっと景時を見つめる。その目には疑問とそして少しばかりの怒り。隠そうとしていたことを暴かれたことへの、自分をも誤魔化そうとしていたのにそれを暴いたことへの小さな怒りが観てとれた。

「やっぱり。……笑わないでくれるといいけど。あのね、オレも今、味なんてわかんないから」

そう言うと望美の目が驚いたように少し見開かれる。それへ向かって景時は笑ってみせた。

「いつでもどこでも食べることはできるけどね、やっぱり、味はわかんなくなっちゃうんだ〜
 情けないでしょ? こればっかりは何時になっても慣れないんだなあ」

望美が懸命に首を横に振った。それからごくん、と口の中のものを飲み込む。そして、何故かきっ、と睨むように手にした握り飯を見るとばくばくと口に入れ始めた。それを見て景時は少しばかり呆気に取られたものの、その懸命な様子に微笑んで自分も手の中の残りを口に入れる。

 やがて、ごくん、と手にした握り飯を最後まで食べ終えた望美が息をついた。
「……なんだか、やっぱり、景時さんには敵わないって感じだなあ」
ほうっと溜息を吐いてそう言う。
「ええっ? オレに? 何がなんでそうなるの」

本気でそう問うた景時に答えずに望美は空を見上げる。天空にあるのはぼんやりとした月。その光も満月ではない今夜は頼りないものだ。つられて景時も空を見上げる。

「自分が絶対にやり遂げなくちゃならないことがわかっていると、その重さに負けちゃいそうになるけど。
 でも、それじゃ駄目ですよね。自分で決めたことなんだし」

呟いたようなその言葉に、景時は望美をそっと見やる。きゅっと口を結んで一心に天空を見上げるその表情に、景時は今更に彼女の龍神の神子としての勤めというものを考えた。この京と何のかかわりもない世界から呼ばれてやってきた、神子姫。ごくごく普通の少女でしかない、しかも、戦というものを経験したこともない彼女が、それでも剣を取り戦おうとしている、その心情を思った。自らの運命を受け入れ、精一杯に己の為すべきことを為そうと努めている強さ。けれど、本当の彼女はやはり、普通の少女でもあるのだ。戦の前には食事も喉に通らないほどに。その弱さを克服しようと努めても。

 まだ出会ってからほんの短い期間であっても、この不思議な少女に自分はいくらか救われてきた。いくつかの言葉に、彼女のその振る舞いに、態度に。
 その度に、強い人だと思った。景時にはない、真っ直ぐな強さを持った、日のあたる場所が似合う人だと思った。凛とした強さを持つ気高い少女だと、そう思う気持ちは変わらなかったが、そういう望美をいじらしいと思う気持ちもまた、景時の中に湧き上がり不意に大きくなった。

「大丈夫だよ、望美ちゃん。心配しなくても大丈夫。
 オレの傍にいるといいよ、きっと君を守ってみせるから、ね? 大船に乗ったつもりで!」

おどけたように景時はそう言った。本当は『オレか九郎の傍に居れば安心だから』と言うべきだろうと思ったけれど、そう言いたくなかった。自分が、彼女を、護りたかった。
 空を見上げていた望美が驚いたように景時へと顔を向ける。真っ直ぐ自分を見つめるその表情に、思わず景時は自分の言葉が恥ずかしくなってきて、頬を掻いた。何か、この場の気まずさを誤魔化すような気の利いた言葉を捜して考えるが、美味く言葉が出てこない。たいがいにして自分は、口先で物事を誤魔化すのが得意だと思っていたが、望美に関してはどうもそれも上手くいかないようだと内心慌てていると、望美が微笑みながら言った。

「……ありがとうございます、景時さん」
「あっ、いや、えーと。……望美ちゃんが強いことは、良く、わかってるよ。でも、ね。
 あまり、頑張らないでも大丈夫だよ。オレもいるし……
 九郎だって、弁慶だって、譲くんだって、リズ先生も、朔も、白龍も、ね?
 望美ちゃんは一人じゃないんだから、ひとりで頑張らなくても大丈夫って、
 そう、言いたかったんだ。だから」

あたりが薄暗い夜で良かった、と頬が熱いのを感じながら景時は思った。望美の顔を見るのが照れくさくて池に映った月を見つつ、なんとか言葉を繰りそう言うと、望美が「そうですよね、うん……私には、皆がいるんですよね」と呟くのが聞こえた。

「よーし、景時さんのおかげで、なんだか頑張ろうって気分になりました!」

気を取り直したように望美が顔を上げてそう言う。景時はその声の調子に、いつもの彼女の響きを感じ取って安心すると腰を上げた。

「大丈夫だね? じゃあ、戦の前に。ちゃんと食べたら次は何が大事かわかるかなあ?」
そう言うと望美も笑いながら立ち上がった。
「はい! 睡眠、ですよね。遠足の前は夜更かしせずに良く寝ることって教わった気がしますもん」
「当たり! じゃあ、戻ろうか」

そして無意識のうちに手を差し出していた。それへ望美も躊躇いもせずに手を重ねる。手を重ねられて初めて景時は自分の行動に気付いて、慌てた。望美の手は景時の手に比べて小さく、そして柔らかく、強く握ってしまえば骨まで折ってしまいそうに思えた。
 力を入れないようにそっとそっと握って、景時は自分の動悸が辺りに響くほどに大きく打っているのではないかと思わずにはいられなかった。今が夜でよかったと思ったのはこれで何度目だろうと考え、今更手を離すこともできず、かといって、何か口を開けば声が裏返ってしまいそうで、黙ったまま庭から邸へと戻る。望美もしかし、何も言わずただ黙って景時に導かれていた。

 邸について、その手を離したとき少しばかり寂しい気がしたのは気のせいではなかっただろう。望美は景時を見上げるとうっすら微笑みながら

「今夜はありがとうございました、おやすみなさい、景時さん」

そう言って、部屋の方へと消えていった。それを見送りながら景時は、もしかして望美もここまでの短い距離を、同じように感じながら歩いてくれただろうか、などと考える。そしてそんなことを考える自分に半ば呆れて首を振ると、溜息ひとつついて自分もまた部屋へと戻っていったのだった。





あくる日早朝。庭に裸足で降りていた景時が、そのまま部屋に戻ったと朔に絞られたのはまた別の話。汚れた床を望美が一生懸命拭いてくれて景時が大慌てになったのもまた、別の話。






三草山出陣前の京邸にてって感じでひとつ。
微妙に景時と望美のお互いに対して感じ取っている事柄はすれ違っているわけですが

景時は望美が二回目の三草山とは知らないわけですしね
それにしても、戦前に望美の不安を感じ取り励ます景時……という話の予定だったんですが
何故か握り飯なお話になってしまいましたよ。
やっと次から三章、三草山関連……


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