こんな状態になっても、まだ諦めきれずに足掻いている自分を景時はどこか不思議にさえ思っていた。心が二つに分かれてしまったかのように、苦しくて苦しくて今にも逃げ出したいのに動けない自分と、そんな自分の心を何処か冷めたように見つめている自分がいる。銃を構える腕が震えて、狙う的が定まらない。今までだって、こんな風に何人もの仲間を殺してきたのに。そのときだってそう、ずっと自分は震えていた。それを冷めたもう一人の自分が抑えて引き金を引いてきた。今、異なるのは冷めた自分も引き金を引きたくないと考えていることだ。冷めた自分が、どうすればこの場を切り抜けられるかと必死で考えていることだ。
「景時、何をしているの? 早くなさいな」
嫣然と微笑む政子が言葉をかけてくる。恐怖とともに怒りがこみ上げる。そうだ、支配されながらずっと自分はこの人が嫌いだったと思い知る。押さえつけられ支配され、恐怖に打ちひしがれて、怒りを押さえ込んできたけれど。いっそこの銃口の向ける先を違えて、銃弾を異国の女神に打ち込んだなら。
「景時さん……」
銃口の先に佇む望美がそう呼びかけてきて、景時は我に還った。無理だ、無駄だ。政子が本性を表したとき、多少の痛手を加えることが景時の術に可能であったとしても、その先はない。景時が政子に向けて銃弾を放った瞬間、周りの御家人たちが景時にも、九郎たちにも襲い掛かるだろう。望美を逃がせば、他の仲間を助ける機会を景時は失してしまうだろう。他の仲間を助けるためには景時自身は鎌倉殿の忠実な僕でなくてはならないのだ。しかし、それでは望美を助けることはできない。
無理だ、撃ちたくなどない。望美をこの手で殺すなど無理だ。耐えられない。どうなってもいい、いっそこの場で自分も死んでしまえるのならそのほうがいい。政子を撃ってその間に望美が逃げおおせるなら。あるいは共に死ねるなら。
「大丈夫だよ、景時さん」
進むことも退くこともできずに立ち尽くしていた景時に向かって、望美がもう一度呼びかけた。知らず涙を零していた景時は、その望美の言葉に顔を上げる。望美は静かに微笑んでいた。銃口を向けられているというのに、何の怖れもなく、いつものように優しく景時に向かって微笑んでいた。
『大丈夫だよ』
瞬間、景時の脳裏に望美との会話が甦る。もう無理だと、もう逃げるしかないと、もう他にどんな道も残っていないと、そう言った自分に彼女が言った言葉。
『屋島でも、もう駄目だって思ったけれど、私たち、乗り越えてきたじゃないですか。
景時さんなら、知恵と勇気できっと何とか出来るって私、信じています』
景時はその言葉に対して、自分を信じることはできないと返したけれど、望美はそれでも信じると言った。そして景時にも……自分自身を信じることができないなら、望美を信じてほしい、景時を信じる望美のことを信じてほしい、と。そして、今景時に向かって微笑む望美は、こうなってもなお景時を信じているのだと強く景時に訴えかけていた。
逃げ出したい、もうどうにもならないと震えていた弱い自分が消えていくのを景時は感じた。知恵と勇気。そんなものは自分が持ち合わせてもいないと思っていたけれど、望美がそこまで信じてくれるものならば、自分にもなんとかできるだけのものがあるのかもしれない。ずっと信じることができなかった自分を、望美が今もなお信じてくれているのなら……自分はその思いに応えて今こそ自分自身を信じるべきなのだ。きっと、手はある。望美が言うのなら、きっと乗り越える手立てはある。
望美を撃つしか最早手はない。けれど、本当に撃つのではなく、ただ政子の目を誤魔化すことができたなら。望美が死んだことにできたなら……閃きは知恵、そしてそれを行うのは勇気。景時は小さく呪を唱えると引き金を引いた。
高く響く金属音、そして朱に染まる望美の胸元。遠く聞こえる朔の悲鳴と仲間たちの悲嘆の声。そして政子の笑みを含んだ声。どれもこれも、膜一枚隔てた遠い世界から届く音のようだった。神妙に自分が政子に答える声でさえ。
「……この人はオレの大切な人だったんです」
言わぬまでも政子には十分わかっていただろう。だからこそ殺せを命じられたのだ。どんなに大切な人であっても自分は無力で守ることなど出来ないと思い知らすために殺せと言われたのだ。景時自身の命運も大切な人の命も全て鎌倉殿の手の内にあると思い知らすために。倒れた望美の血の気のない頬にそっと景時は触れた。その後を追うように零れた雫が望美の頬に落ちる。それを優しく親指でぬぐって、景時は望美の身体を抱き上げた。
戦場を離れた寺の一室は、世間から切り離された世界のようだった。冬枯れした庭を眺めるも遠く響く音さえ聞こえず、ただただ寂寞とした空気が満ちるのみ。褥に横たえた望美の身体を前に景時はただ座してその顔を見つめていた。もうずっと望美の様子は変わらず、景時は少しばかり不安を心の内に抱いていた。一瞬の閃きとそれを行うことを決断した勇気。それは望美から得たものだったけれど、本当にそれで良かったのか、自分はまた何か間違いを犯してしまったのではないか……
恐る恐るそっと頬に触れると、僅かに熱を感じることができてほっとする。大丈夫、ちゃんと彼女は生きている。そのことに深く安堵する。彼女は生きている。初めて頼朝の命に背いた。初めて自分の意思で運命の端っこを捕まえた。望美がいてくれたからきっと自分は手を伸ばすことができたのだ。
「……望美ちゃん……」
伝えたいことがたくさんある。不思議と、目が覚めた望美が景時を責めるという気はしなかった。彼女を撃ったことを詰られるとも思いもしなかった。最後まで景時を信じていた望美は、ただただ景時がそれを成し遂げたことを、まるで自分がそうと定めたかのように『ほら、景時さんはやっぱりちゃんと乗り越えたじゃないですか』と、そう笑うだろうと思い込んでいた。君がそう信じてくれたから出来たのだと伝えたい。諦めずにいてくれてありがとうと伝えたい。焦れる心持からか、望美の頬に触れたまま、だんだんと身体が傾いで顔が近づいてゆく。伏せられた長い睫をはっきりと見ることができるほどに顔を近づけて今にも鼻先が触れそうになったときに、望美の瞼が震えて景時は我にかえって身体を起こした。逸る心を抑えて静かにもう一度呼びかける。
「望美ちゃん」
それに応えるように緩やかに望美が目を開いた。どこかまだ夢見心地のようなぼんやりした表情で、視線を彷徨わせ、そして景時の姿を認めると途端に瞳に光が戻った。
「……景時さん……」
うん、と景時は小さく頷いて微笑んだ。そっと望美の手が上がり、頬に触れている景時の手に触れる。あったかい、と望美の口が動いた。
「痛いところは、ない?」
そっと尋ねると、しばらく望美は考えるように口を閉ざし、それから思い出したように胸に手を当てた。そこは景時の放った銃弾の当たった場所。不思議そうにそこを押さえ、それから顰め面になる。
「……やっぱり。痛かったよね、ごめんね」
「……なぜ?」
「ええと、ね。魔弾を使ったんだ。
ほら、望美ちゃんと一緒に居たときに閃いた……気絶させるだけの弾があるといいなって言っていたでしょ。
着弾と同時に幻術で血を見せるのはすごく難しかったけど……皆の目を誤魔化すことはできたみたい。
でも、やっぱり無傷ってわけにはいかなくて……痛かっただろうし、きっと痕になってると思うんだ。ごめんね」
そっと景時の手を支えにするように握り締めて望美が起き上がる。そして景時に顔を近づけて微笑みながら言う。
「……そうじゃなくて、なぜ、景時さんが謝るんですか。
私のことを、助けてくれたのに」
虚を突かれたように景時は瞠目する。鮮やかに望美が微笑んだ。
「ね? ……やっぱり、景時さんはすごい人。知恵と勇気で全てを乗り越えることができる人だったじゃないですか」
すべては望美のおかげだ、と景時は言おうとして、そう口が動かなかった。目の奥が熱くなって胸の奥からこみあげてくるものがあって、それらを堪えるために思わず望美を強く抱きしめる。ぎゅっと強く目を閉じて深くゆっくりと息を吐いた。突然のことに驚いたであろう望美は、それでも景時の為すがままにそれを受け入れ、優しく抱き返してくれる。生きている。間違いなく生きている。これは希望だ。このいとおしい人は、やっと自分の手で掴んだ未来に繋がる希望なのだ。この温もりが傍にある限り、自分を信じることができる。信じられる自分でいられる。護りたいと願うものを、護ることができる。
まだ、自分には護りたいと思う人たちがいる。ただ一つだけを選べば、きっと後悔すると教えてくれたのも望美だった。望美も、仲間も、家族も、そのどれも諦める必要はないと教えてくれた。その全てを護ることが景時には出来ると。だから、まだやるべきことが自分にはある。
心を鎮めて、ほうと息を吐くと、景時は望美から身体を離した。少し照れたように頬の赤い望美を見つめて、心が高揚する。それでも、その思いを抑えて。まだ、もう少し、と抑えて、景時は望美に告げた。
「…皆を助けたいんだ。望美ちゃん、協力、してくれる?」
護りたいと願うもの全てを護るために。彼女が信じてくれる自分自身を、信じよう。
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