京へ戻った一行を待っていたのは、意外な報せだった。
いわく、平家との和議を執り行う、という鎌倉からの報せ。既に、鎌倉からの指令を受けて京から福原へ向かい、平家との話は進んでいるという。長く京を留守にしていたにも関わらず、京が無事であったことには、こうした理由もあるかもしれなかった。
いつから和議の交渉が始められていたかはともかく、京に戻った一行は次は福原での和議に向けて奔走することになった。ほっとした表情を見せるものもいたが、源氏に身を置く九郎、景時、弁慶たちの表情はそれぞれに少し複雑だった。
「戦が終わるということは、民のためにも喜ぶべきことなのだろうな」
堅い表情で九郎がそう呟いた。京邸で今後のことを打ち合わせる中でのことである。秋の穏やかな風が心地よく庭木の紅葉を揺らしている。苔むした庭石に落ちた紅葉の赤が目に映えた。
黙って鎌倉からの書状を何度か読み直していた景時が顔を上げて九郎の顔を見つめる。 兄・頼朝の命は九郎にとっては絶対だ。肉親である兄、流人の身から兵を起こした兄を彼は尊敬している。九郎にとって、この戦は兄の役に立てるという喜びが実現する場である。しかし、同時に九郎にとってこの戦は父の仇を討つ戦でもあり、平家に勝つことを九郎自身が望んでもいるのだ。そんな九郎にとって、この時点での和議は、良いことであるとわかっていても、どこか内心燻るものがあるのだろう。
「まあ、仲良くやるってことは無理かもしれないけどさ、悪くはないんじゃないかな」
言葉を選びながら景時はそう言った。景時が思うのはまた別のことである。和議自体が本当に成るのか、ということが景時の不安だ。景時にしてみれば戦が終わるということは、何よりも嬉しい。朔や望美を戦場へ出さなくても良くなる。 何より、平家との戦が終われば、頼朝も変わるかもしれない。自らの手に政が託されることとなれば、血腥い支配は必要ないと気付くかもしれない。東国の武士たちは、荼吉尼天の力などなくとも、頼朝に従っただろうと景時は思う。事実、頼朝は荼吉尼天の守護を頂くと言われていても、実際に荼吉尼天が政子に憑いていると知るものは殆ど居ない。頼朝の強さと出自と、そして東国を武家の都に、政を武家の手に、という言葉とそれを実践する行動に皆は従うのだ。そのことに気付いてくれるかもしれない。 しかし、これで戦が終わると素直に信じられないのは景時が頼朝を良く知っているからだろう。長く流人であった頼朝は、誰かを信じるということができない。平家が和議に応ずると返事をしてきたとしても、それを信じないだろう。人の善なる部分の脆さをかの人は知っている。力の前にはそれがどんなに頼りなく屈するものであるかということを。
「政子さまが和議のために、こちらへいらっしゃるそうですし、お迎えの準備も整えなくてはなりませんね。
今回の和議については政子さまから鎌倉殿へお口添えがあったとか。
その上ご自身が名代として使者に立たれるのですから、平家としても和議に応じやすいのではないですか」
弁慶が静かにそう言った。景時は弁慶の表情を見てみたが、常と変わらぬ様子に彼が本当はどう思っているかは読みとれなかった。いつも慎重すぎるほどに疑い深い弁慶が、今回のことを心の底から信じているとは思えなかったけれど、政子がやってくるということが、和議の実現の真実味を増しているのかもしれない。……景時にしてみれば、それこそが和議を信じられないものにしているのだけれど。
それでもやるべきことはやらねばならない。信じられようと信じられまいと、和議の準備は進めねばならない。それからも無難に、兵の割り当てをどうするか、使者の扱いをどうするか、そんなことを半ば空々しいと思いながらも3人の話し合いは続いた。
戦が終わろうとしていると信じているせいか、物寂しい秋という季節に似合わずどこか浮き立った雰囲気が京邸の中にもあった。それは主に、望美や譲の表情から景時が感じるものではあったけれど。戦場に立ったことなどなかった彼らを、戦に連れ出し戦わせていたのだ、それが終わるとなれば彼らがほっとするのは間違いないことで。彼らのためにも本当に和議がなればいいと思わずにはいられないのに、既に諦めている自分がいるのが、なんとも景時には情けなかった。
「景時さん」
声をかけられて振り向くときには条件反射のように笑顔になった。
「お疲れじゃないですか? 昨日も随分遅くまで九郎さんや弁慶さんが来てらしてたし」
「やあ、望美ちゃん、平気だよ〜。それにこれは望美ちゃんも知っての通り、オレの楽しみだからね?」
パン、と殊更に大きな音をさせて白布を広げると、景時はそれを庭に張った綱に掛けた。もう望美や譲にはこの趣味は隠していない。そして、望美はといえば景時が洗濯に勤しんでいるのを見つけては、手伝いにやってくるのだ。今もそのようで、さっさと庭に降りてきて景時の隣に立つ。
「お手伝いします! 景時さんがお洗濯好きなのは知ってるけど、
楽しいことや好きなことって、一人でやるより二人でやるほうがもっと楽しくありません?」
言葉よりも早く、既に望美の手は桶に溜まった洗濯物に伸びている。
「や、望美ちゃん、気にしなくってもいいんだよ〜」
もうそろそろ、朝は水が手に冷たくなってくる頃でもある。冷えた洗濯物のせいで望美の指先がかじかんで赤くなるのは忍びないと景時は望美の手から白布を取り上げようとするが、望美はそれをさっとかわした。
「私だって好きでやってるんですから!」
「……望美ちゃん〜……だって、君がいたところでは、こんな風に手で洗濯しないって言ったじゃない。
無理しなくてもいいんだよ? 家の手伝いなんかしなくても気兼ねなく過ごしてくれていいからさ」
「もう! だから、好きでやってるんですってば。手で洗濯なんてしたことないけど
干すくらいは普通に干したりしますよ、私の居たところだって。
それに、私も景時さん見て好きになったんですから」
「え?」
思わず、間抜けな声が景時の口から漏れて一瞬、二人の間の空気が止まる。が、すぐに景時は
「オレ〜? オレが洗濯してるのってそんな楽しそうだった?
望美ちゃんを洗濯好きにしちゃうくらい? 参ったなあ」
と驚いたように大げさに手を広げて首を横に振りながら言った。望美も赤い顔を縦に振り何度も頷きながら答えた。
「そう、そうそう。景時さんがあんまり楽しそうだから、私もつられちゃって。
確かに、お天気良い日にお洗濯干すのって、気持ちいいですしね! すっきりするっていうか!」
くすり、と景時は笑って、赤い顔で俯いてしまった望美に向かって言った。
「じゃあ、望美ちゃんに甘えちゃおうかな。一緒に、干してくれるかい?」
「はいっ!」
顔を上げた望美が満面の笑顔で景時に応える。眩しすぎて、突き刺さるように痛かった。なんてことのない、ささやかで穏やかで緩やかな時間。こんな時間がずっと続くならそれを幸せと自分は呼ぶだろう、と景時は想う。そんな景時の心中を察したのかどうか、望美が空を見上げて言う。
「戦が終わったら、きっとずっと、こんな風に過ごせますよね」
ずきり、と景時の胸が痛んだ。
「平家の人と仲直りできて、怨霊を作るのもやめてもらって。そしたら京も平和になるし。
戦だなんだってぴりぴりしなくても良くなって、熊野でみたいに皆で笑い合って暮らせるといいなあ」
楽しげにそう言う望美に景時はいたたまれない気持ちになる。それでも調子を合わせるように頷いた。
「そうだね〜平家だって、戦もなく平穏に暮らせるならその方がいいに決まってるよね〜」
「……そうやって、相手のことも考えられるのって景時さんらしいなあって思います」
「……それは、望美ちゃん、オレのこと買いかぶりすぎだよ」
情けない顔でなんとか景時は笑った。相手を気遣っているわけじゃない。これ以上、自分の苦しみが長引かなければいいと願うだけ。これ以上、自分の大切な人を裏切るようなことになりたくないと思うだけ。
「でも、景時さんは戦が終わるといいなあ、って思っているのでしょう?
平家の人たちと、分かり合えるのなら戦いたくないなあって。
平家の人だって同じですよ。皆がそう願っているのだもの、きっと戦は終わりますよ」
きっと戦は終わる。力強い望美の言葉は景時の心に響いた。その言葉が本当になればいいと景時は思う。そして、望美の言霊であれば、もしかしたらそれは本当になるかもしれないと、少しだけ思った。ただ望美が悲しむようなことにならなければいいと思う気持ちが、そう思わせただけかもしれないけれど。それでも本当に、その言葉の通りになればいいと、願ったのだ。
予想はしていたことであっても、実際にそれが的中するとそれでも気持ちが落ち込むのは仕方のないことだと思う。望美や九郎はどのようにこの言葉を聞くだろう。景時の耳に入ってくる言葉はその意識を通り抜けて、ぼんやりと彼は目の前の美しい女性を眺めていた。
「景時、聞いているんですの?」
彼女は不満げに景時をすっと目を細めてねめつける。景時ははっと気付いたように頭を垂れた。
「はっ……」
まるで花見の宴を催すがの如くに楽しげに、その女性が語っているのは和議を信じて無防備となる平家に奇襲をかけるという、だまし討ちのような戦法である。
『きっと、戦は終わりますよ。平家の人たちだってそう思ってます』
望美の言葉が思い出されて思わず苦い表情になる。ささやかな願いさえ、叶えてあげられない自分の不甲斐なさが身に染みた。和議のために鎌倉からやってきた北条政子は景時を呼びつけると戦の準備を進めよと言いつけたのだ。今なら油断している平家を一網打尽に出来るだろうと。
「鎌倉殿からの命を、そのような上の空で聞いていて良いとでも?」
「いえ……」
彼女の恐ろしさを景時は良く知っている。頼朝を思う一途な女性という面を持つ彼女は、一方で無邪気に残酷だ。頼朝のためならどれほどの人の命であれ瞬時に奪い尽くすだろう。紅をさした唇が、もっと違うもので紅く染まっていたことを今もまざまざと思い出す。それでも、景時は顔を上げて政子を見た。
『平家の人と仲直りできて……皆で笑い合って暮らせるといいなあ』
その言葉を思い出し、望美が願う戦の終わりを、今ここで為すことはできないものなのかと。精一杯の気持ちを奮い立たせて景時は政子に向かって口を開いた。
「政子さま……しかし、平家との和議が成れば源氏にとっても……」
だが、その言葉は政子の言葉に遮られる。
「景時、忘れていましたけれど。鎌倉を出る前に、お前の母の様子を見舞って参りましたのよ」
にっこりと優しげに微笑む政子に景時は先ほど言いかけた言葉を呑み込んだ。ぐっと握りしめた拳が震える。
「鎌倉殿の命を受けて京で功を為し働いていると、大変お慶びでしたよ。
お前は、本当に親孝行ですわね」
傍で聞けば優しく景時をねぎらうその言葉が、実は抗えない脅しであることを景時は良くわかっていた。
「……は、……母にまでお気遣いいただき、ありがとうございます」
力無く、景時はそう答えた。
「あら、当然でしてよ、景時は鎌倉殿の大切な切り札ですもの。
ここぞというときに、ちゃんと役に立ってくれますから、鎌倉殿も景時を信用しておられるのですわ」
その言葉が景時への侮蔑の言葉だということを景時は良くわかっていた。頼朝に抗えない鎌倉の犬。言われたことをこなすだけの、けして牙を剥くことのない犬。とっくに、そんな自分を受け入れていたつもりだったのに、と景時は思う。自分にかけられた枷が重い。
『でも、景時さんは戦が終わるといいなあ、って思っているのでしょう?』
思っている。思っているのに。
「では、景時、時間はあまりありませんよ? 早く準備をなさいな」
紅い唇が弧を描く。血が足りないと言っているかのようだと景時は感じて、ぞっとして目を閉じた。
「では、御前失礼いたします」
頭を下げて政子に背を向けて歩き出す。ねっとりと背中に張り付く視線をそれでも感じずにはいられなかった。それこそが、目に見えない、そして、何よりも重い枷なのだ。
――ごめんね、望美ちゃん……
まだ戦を終わらせることはできそうもない。
――きっと君は、政子さまの言いなりなオレに、失望するだろうね
重い足取りで景時は兵を集め指示をするためにその場を離れた。
END
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