自分の人生は、後悔ばかりで成り立っているように景時は思った。どんなに嬉しいことや楽しいことがあったとしても、やがてそれは後悔に彩られていく。気付いているのに、ついつい、自分は甘えてしまう。そして、後悔は深くなる。
「磨墨、頼むよ」
戦場から戻ったばかりで、再び敵のまっただ中へ戻ろうというのに臆することなく駆ける馬に景時は声をかけた。頼朝から賜ったこの馬は、景時にしてみれば、自分程度の乗り手には勿体ない名馬である。だが、今は自分の拙い技量を補ってくれる名馬に感謝していた。
疾く、疾く。
一刻も早く、彼女の元へ。
和議に乗じて平家を討つ。平家の正面から景時の軍は討って出た。いくら奇襲とはいえ、簡単に相手に付け入ることができるとは景時も考えてはいなかった。三草山でも源氏の裏をかく形で戦を仕掛けていた平家だ、今回の奇襲も見抜かれていないとは言えない。平家には還内府という優れた将がいる、彼が奇襲の可能性を少しも考えていないとすれば、嘘になるだろう。それでも、政子が来ているということで、奇襲の可能性は低い、とは思っているはずだ。だからいくらかは源氏に分がある。そこに賭けるしかない。考えているほど状況は楽観的ではないことも、そもそも気乗りしない作戦であるということも、もちろん、兵たちには隠しての出陣だった。いつものように、軽く、大丈夫、任せておいてよ、と。いつか、この言葉も虚しく響く時がくるだろうとは思っているが、そう言えば少しは言霊の力で大丈夫になるのではないかと思ったりもしている。
ところが、平家の逆襲は思ったよりも早かった。
(やっぱり、読まれていた?!)
最初の勢いに乗じて平家の軍を破るはずが、思ったよりも早く相手に建て直されてしまったのだ。作戦を読まれてしまっては、逆にこちらが窮地となる。前後から挟み撃ちにされれば九郎たちが到着したころには、こちらが壊滅しているということだって有り得ないわけではない。平家を破るどころか、源氏が敗走することになる。……もちろん、そうなる前に政子が全てを呑み込むということも有り得るわけだが。それでも、ぎりぎりまで政子は手を出してこないだろう。いざとなれば一人ででも平家の軍を相手にできる彼女が、何故表に立たないのかといえば、九郎の失態は望ましいことだからだ。
「景時! どうすんだよ!」
ヒノエの声にはっと我に返る。不安そうな面々が目に映る。指揮官がこうであってはならないというのに、自分ときたらいつもこうだ、と思う。景時は、自分の指揮能力についても過大評価はしていない。だから常にいくつかの悪い状況について想定し、それに前もって対応するようにしている。今回も平家が盛り返すということを考えなかったわけではないが、それでも相手の反応が早すぎたのだ。そして、思うのだ、想定外のことになると、やはり自分は一瞬遅れる、と。その一瞬が命取りになるのが戦場だというのに。
「一旦、引こう、転身、転身!」
こちらも一度退いて、態勢をを建て直すべく号令をかける。既に乱戦になりかけている戦場で、森を抜けて出るのにもはや源氏軍に規律というものはなかった。とにかくまずは戦場を離れよとばかりに各々外へ向けて駆け出す。一人でも多くを逃がすべく、それでも景時は辺りを気を配り殿を務めるように走っていったが、本来なら一番気を配らなくてはならないはずの人のことを、仲間が一緒だから大丈夫だと思ってしまったことにすぐに後悔した。
「望美がいないわ!」
切羽詰まった朔の声に景時は慌てて戻ってきた兵たちを見回した。見間違いか、兵たちの中に紛れているかもと思いたかったが、朔の言葉が事実だということは、景時にはすぐにわかった。彼女がもし、この場にいたならば、仲間を心配して一番に声を掛けてきただろう。景時より先に、ここへ望美が戻ってきていたなら、彼女の声が景時を迎えただろう。
「馬鹿な! 平家の中に置いてきちまったっていうのか!?」
言われるまでもなくそういうことで。その言葉を聞いた瞬間に、景時は既に馬首を返していた。
「景時さん! 何を……!?」
「景時! 将が何処へいくつもりだ」
「兄上!」
背中に届く声はもっともなことで、景時もいつもならそう考えただろう。もう遅い、自分が行っても間に合わない、他にすべきことがある、と。けれど、考えるより先に身体が動いてしまった。気付いた時にはもう、駆け出していたのだ。
「兄上……!!」
危険だと追いすがる声に、いつものように「大丈夫」と返す時間すら惜しんで、景時は元来た戦場へと向かった。
戦に出ることを、今でも多分怖いと自分は感じていると思う。なるべく考えないようにしているけれど、背負うものがなければきっと、戦場に出たところで今だって逃げ出しているかもしれない。死ぬのは怖い。武士として情けないことだけれど、いつだって死ぬことは怖い。今だって、怖いのだと思う。けれど、同じくらい、望美を失うことが怖い。
何故、九郎の軍へ彼女を加わらせなかったか後悔している。自分がただ傍に居て欲しかったから。そんな甘えのせいで、もし、彼女に何かあったなら、と考えて景時はそれ以上考えられなくて迫り上がってくる吐き気を呑み込んだ。大丈夫だ、彼女は大丈夫だ、と言い聞かせる。何故なら、鎖骨の宝珠が輝いているではないか、龍神の神子はまだ存在するという証だ。そして、神の加護を受けた彼女が人の手に倒れるはずがない、神の意に背いてもいないのに。
「源氏の将だ、戻ってきたぞ!」
声を挙げる平家の兵へむけて銃を放った。兵が倒れるのを見ることもせず、声に集まってきた兵たちを相手にもせず、ただひたすらに景時は磨墨を駆けさせた。駆け寄ってこようとする者たちを寄せ付けもせずに走り去る、磨墨の足には誰も付いてくることができず、徒の兵たちの声が後ろになる。木立の間から現れる者たちも物ともせずに景時は望美の姿を、声を捜した。
遠く、兵たちの声が聞こえた。
景時は手綱を引いて磨墨の進路を変える。馬は低く嘶いて、それでも速度を落とさずに背に乗る主の命に従って駆けた。頼朝がこんな名馬を自分に宛ったのは一つには景時自身への牽制であり、また周囲の御家人たちに向けて、景時が自身の側近であると見せつけるためのものであっただろう。けして部下を思いやってのことではない。だが、今は理由がどうであれ、この勇敢で賢く足の速い馬を自分に与えてくれた頼朝に感謝した。
(望美ちゃん……!)
封印の力を持ち、龍神の加護を受けた存在であると言っても、彼女がまた、普通の17歳の少女でもあるということを景時は良く知っていた。自分だって八葉であり神子を守るための力を得たとはいえ、元々の自分と本質的には何も変わっていないのだから当然だろう。初めての戦場を前に、眠れない夜を過ごしていた彼女。彼女だって本当は戦場に出ることが平気なはずがないのだ。それを神子だから、自分にはその力があるから、と迷いを捨てて立っている。戦場に立つ彼女のことを思うと胸が苦しい。傷つかないで欲しいと思う。怪我ということだけではない、その心も傷ついて欲しくないと思う。とっくに彼女はいくつもの傷を心に負って、それでもなお毅然と運命に立ち向かおうとしているとわかっているけれど、それでも、彼女を苦しめるものをなくしたいと思う。彼女の笑顔を思うと胸が熱くなる。見ない振りをして、遠ざける振りをして、自分の気持ちにも気付かない振りをして、でも気付いていた、無理だとわかっていた。見ないのも、遠ざけるのも、自分に嘘を吐くのも無理だ。
鎖骨の宝珠がチリリと灼けるように熱い。自分が死ぬことよりも彼女を失うことのほうが怖いと思ったのだ。今このとき、彼女を護るために自分が間に合ったなら、何か変えることができるだろうか。大切なものをこれ以上増やさないようにと思ってきた。大切に思うものなら尚更に遠ざけるべきだと思ってきた。彼女を護るための力を得たというのなら、最後まで彼女を護りきることは可能だろうか。
望美がいる、と景時にはわかった。先ほどまでの身を焦がすような焦りは去り、不思議に周囲の音さえ気にならなくなった。ただ前方、おそらく只人には見えないであろう望美の神気が辺りを照らしているように感じられた。
「怨霊をけしかけて弱らせろ!」
平家の兵の声が耳に届いた。考える間もなく、景時の手は銃を構えていた。木立の合間、少し開けた場所に平家の兵がいる。その先に怨霊武者がいて、そして、その怨霊と対峙しているのは……
その姿が目に入るやいなや、景時は銃を撃っていた。磨墨は怯むことなく今にも倒れそうなほどに疲弊した望美と、それを囲もうとする兵の間へ突っ込んでゆく。景時の放った弾は怨霊武者を確実に捉え、金属的で耳障りな叫び声をあげて怨霊武者が倒れる。望美の目が景時を見つけ、驚きと安堵に見開かれる。
「景時さん……!」
景時は馬上から望美へ向けて腕を伸ばした。
――いつも間に合わなかった。後悔ばかりだった。自分が大切なものを守りきる自信などない。でも、もし、今、間に合ったら、何かが変わるような気がしていた。
望美もまた景時へ向かって手を伸ばす。
――彼女が自分を必要としてくれるなら。彼女が自分に、彼女を護ることを赦してくれるというのなら。自分に与えられた力は彼女を護るためのものなのだから。
精一杯に伸ばしたお互いの腕がお互いの身体に触れ、景時は走る磨墨の上から望美を自分の元へと引き上げた。突然、乗り手が二人になり、背が重くなった磨墨が嘶く。景時は望美を抱えたのと反対の腕で手綱をひくと磨墨を止まらせ、平家の兵へと向かった。
「この子は大切な人なんだ、お前たちに触れさせるわけにはいかないな」
ぎゅっとしがみついてくる望美の体温が温かい。構えた銃に兵たちが怯んだ様子を見せるのに、景時は望美に自分に捕まっているようにと目で知らせた。
「皆、森の外で態勢を建て直しているんだ、そこへ向かうよ」
ここまで走ってきた磨墨の息は荒いが、まだ走り足りないかのように落ち着かない。
「磨墨、行こう!」
馬腹を蹴ると、弾かれたように磨墨は駆けだした。望美が増えたというのに、磨墨の速度は行きと変わらないもので、景時は愛馬に感謝した。まだ、皆の元へ戻るまでは完全に安全だとは言えない。胸に抱いた望美は小さく震えていた。
「ごめんね、望美ちゃん」
そう言うと、背に回してしがみついている腕にぎゅっと力が込められたのがわかった。胸元で望美の頭が小さく横に振られる。
安堵とともに、景時にはこみ上げてくるものがあった。間に合った、自分にも彼女を護ることができた、という想い。
(オレに、彼女を護ることができるだろうか)
護りたい、彼女を。その自分の気持ちに正直になってもいいだろうか。一歩を踏み出しても、良いだろうか。彼女が、自分に、彼女を護ることを赦してくれるというのなら――
神子を救い出した景時を、仲間は歓声と共に迎えた。
「今日ばかりは兄上を見直しましたわ」
ほっとした表情の朔がそう言う。真っ直ぐに兄を褒めることができないのは、性分なのだろう。景時もめったになく褒められると、どう反応していいか困ってしまって、つい軽口になる。
「や、やだなあ〜、オレはいつだってこうだよ、オレの本当の力、わかっただろ?」
本当は自分でも少し、信じられない。自分が望美を救えたということが。でも、それは本当のことで、そして、自分がそんな風にできたのは望美のおかげだと、望美自身が教えてくれる。
「助けに来てくれて、すごく嬉しかったんです。
大切な人って言ってもらったとき、すごくほっとして……」
そうだ、無意識のうちに口から吐いて出ていた。源氏の軍にとって、ではない、自分自身にとって何に代え難く大切な人だと思った。恥ずかしそうに頬を染めて、景時を見上げてくる望美を見つめて、景時は改めてそう思う。
――彼女を護りたい、と思う気持ちに正直になってもいいだろうか? 今日このときのように、これからも彼女を護ることはできるだろうか。鎖骨の宝珠は自分と彼女を結ぶ絆だと信じていいだろうか。迷って踏み出せずにいた一歩を、踏み出してもいいだろうか。
景時は望美に向かって一歩近づくと、その頬に手を触れた。
「やっと、笑ったね。……君には笑顔でいて欲しいな」
望美の表情がより一層明るい笑顔になって、景時は、花が咲いたみたいだ、などと思った。
「……それは、景時さん次第ですよ」
悪戯っぽく望美はそう言い、頬に触れる景時の手を取った。触れあう指先から互いの熱が伝わる。きゅっと握りしめてくる望美の手を景時は解こうとはせず、自らもその小さな手を握り返した。
――君を護りたい……その気持ちに正直になってもいいよね?
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