「待って、景時さん……っ!」
訴えかけるように呼びかけられて、景時は振り向く前に溜息を一つ心の中でついた。声の主が誰かということは、よくよく判っていて、そして、できれば会いたくないと思っている人だったから。その切羽詰まったような声音に含まれているのは、きっといくつもの自分に対しての疑問。何故、どうして、と思うことがたくさんあるに違いない。しかし、自分は彼女のそんな疑問に上手く答える術を持たない。
息を詰めて待っているであろう彼女の気配を察して、景時は振り返る。
「ああ、望美ちゃん、どうしたの〜」
できるだけ明るく言ってみる。和議がならず、戦となるのはもう決まったことだから。自分はもう納得してそう振る舞うのだから。それが当たり前のことなのだから。だから自分は何も疑問になど思ってはいない。そんな風に見えるといいと思いながら。けれど、それはあまり上手く行っていなかったようで、望美の表情は厳しいままだった。和議の中、奇襲をかけるという作戦を詰られるかと思っていた景時は、しかし、予想外の望美の言葉に驚いてしまう。
「景時さん、大丈夫ですか? すごく……すごく苦しそう……落ち込んで見えます」
厳しい表情は景時を責めるものではなく、彼の心の内の苦しみを心配してのもので。その意外さに景時は一瞬、声を失った。
何故、なのだろう? 何故、彼女は自分を責めないのだろう。何故、こんな自分のことを心配してくれるのだろう。
驚きと喜びと入り交じる感情が頭の中で渦を巻いている。上手く笑えるかどうかわからなかったけれど、それでも情けない様子を装って、景時は笑ってみせた。本当に、自分は情けない人間なのだと望美に見せつけるように。
「あ、はは……そっか……そんな、落ち込んで見えちゃうか」
困ったね、と肩を竦めた。戦を前にして将が意気消沈しているのは間違いなく志気を下げるもので、そう見せてしまうことは将の器ではないということだ。しかし、聡い望美だからこそ、自分の押し隠した感情を見破ってしまうのかもしれない。あるいは、望美にだからこそ、自分もそう見せてしまうのかもしれない。今までにだってこんなことはあったけれど、誰ひとりとして景時の仮面を見破った人間はいない。いつだってどんな命令だって、なんてことのないようにこなしてきた。自分一人の時以外に、仮面を外したことなどなかったし、その素顔を見つける人などいなかったのだ。なのに。
「すぐにも兵を率いて戦に出なくちゃいけないのに、ホント、駄目だね
せめて空元気だけでも出さないとなあ」
望美になら良い格好を見せたいと思ったり、あるいは、殊更に情けなくも駄目な自分を演じてみたり、自分が何故そうなのか、とっくに景時はわかっていた。今だってそうだ。駄目な自分を演じながら、本当は何でもないことだと格好つけて見せている。平気な振りをしようとしている。
本当は平家と和議を結べるものなら結びたい。戦が終わるものなら、終わらせてしまいたい。無駄に人殺しなどしたくない。けれど、自分には命令に逆らう術はない。そして自分は、目の前の少女に相反する二つの思いを抱いている。もう、自分に呆れて失望して、離れていって欲しいという思いと、判って欲しい、傍にいて欲しいという思いと。とうに作戦のことを知っていて、そして景時がそれに従うということも判っていて、それでなお、景時が苦しいだろうと心配してくれる優しさに、縋ってしまいたいと思うのだ。遠ざけた方がきっと彼女のためだと思うのに。だから、望美に零してみせる言葉の中には、苛立ちと懇願と投げやりさと自己嫌悪が入り交じるのだ。
「嫌なら、従わないこと、できないんですか」
普通なら詰る意味合いともとれるその言葉も、ただ景時を案ずる故の言葉なのだとわかった。苦しまなくても済む道はないのですか、と問いかけられているような気がした。だから、そう出来ればどんなに楽だろうと思う景時は、つい、自分の心をまた少し、零してしまう。
「オレは駄目な武士だから。命令に従うしかないんだよ」
何をやっても中途半端で、今、望美と相対している態度さえ中途半端だ。流されるまま、言われるままで自分の思うように何かをしたことなど何一つない。武士として大成せぬと言われればそれも尤もだと思い、陰陽師になれと言われればその言葉のままに京へ向かい、家督を継げと言われて鎌倉へ戻った。何一つまともに出来ない自分には、定められたことをこなすくらいしか出来ないと思っていたから。いつも隠している自己嫌悪の気持ちを漏らしてしまうと、ひどく自虐的な気分になった。どうせ情けない人間なのだ、こんな自分など蔑まれて当然なのだと。
「だからさ、君もオレのことなんか笑っちゃえばいいんだよ。
馬鹿だな〜ってさ」
そうしてくれれば、もっと楽になれる気がした。馬鹿に徹して何も考えずにお調子者のままでいられる気がしたのだ。いっそ、望美にも嫌われ呆れられてしまえば、自分のことなど、どうでも良くなる。なのに。
「……私、景時さんのこと、絶対、笑ったりしません!」
怒ったように強くそう言い切った望美の瞳は、強く強く景時を見つめていた。そして、そんな望美の反応に胸を突かれた景時は、まるで自分は彼女を試しているようだ、と頭の片隅で思った。
君は何処までオレを許してくれる? どこまで情けないオレを許してくれるの?
望美の前で弱音を吐いても、本当の自分をさらけ出しても、嫌われたいと願ったとしても、全て、望美なら赦し、なお自分の傍にいてくれるということを試しているようだと。
「本当は、強い人だと思うから……」
静かに続けられた望美の言葉に、景時は顔を歪ませた。
どこまで許してくれるだろう。本当のオレを知らない君は、本当のオレを知って、それでも許してくれるのだろうか。
「君は、オレを、買いかぶりすぎだよ」
君は、オレを知らない。知らないから、そうやって幸せな誤解をしている。本当に強い人間は力に屈したりしない。本当に強い人間は、大切なものを守るもっと違う術を知っている。他者を傷つけなくても大切なものを守り通せるだろう。泥水の中、這い回る恐怖も知らずにいられるだろう。血の海に沈む悪夢を見ずにいられるだろう。
何時にも増して、景時の心は不安定に揺れていた。望美が自分に寄せる信頼に、混乱していた。どんなに自分は駄目な人間なのだと言い張っても、望美はそんなことはない、という。その言葉を嬉しく思う一方で、彼女がそう言えるのは、景時のもう一つの顔を知らないからだとも思う。どんなに望美が自分を信頼してくれるとしても、どんなにその言葉が真摯だとしても、だから苦しい。嬉しいのに、苦しい。
「もう、行かなくちゃ」
振り切るように、そう言った。迷っても、止めたくても、戦は始まる。何も考えないことが一番楽な方法なのだと、身に染みてわかっている。あるいは、この場を早く離れたかった。このままでは言わなくても良いことを言ってしまいそうで。
「私も一緒に行きます。……今の景時さんを一人にできません」
そう言った望美が、二人の間の距離をつめて、静かに景時の手を取った。その手が温かくて、景時の顔が一瞬歪む。彼女のこの温かい手は、自分ではない誰かを救うに相応しい手だと思う。きっと自分は、ひとりで大丈夫だから、と言って彼女を九郎の軍へ加わらせるべきだろうと思う。
「本気、なんだ?」
問い返した声は変に掠れていた。また、自分は彼女を試そうとしているのだろうか、と景時は思った。問い返すと望美は強く景時の手を握ってきて、ただ大きく頷いた。
ただ、それだけのことに胸が熱くなり、景時は気付く。望美だからなのだ、と。
彼女なら自分を救ってくれるかもしれないから、好きになったのではない。逆なのだ。凛とした強い瞳と、どこか危うげなところに惹かれた。自分とは違う、まっさらな太陽の光が似合う、心も美しい少女だと思う。まるで正反対だからこそ強く惹かれて行った。好きになったから、彼女に赦して欲しいと思うのだ。好きだから、彼女にだけは、情けない自分も弱い自分も受け入れて大丈夫だと言って赦して欲しいと思うのだ。傍に居て欲しいと思うのだ。望美だから。
今このときも思う。近づきすぎてはいけないのではないか、と。彼女を拒むべきではないのか、と。けれど、そうしたくない自分を知っている。
「九郎にかけあってくるよ」
そう言って、望美の手を一度強く握ってから、その手を離した。危険な戦いとなるだろう。いくら奇襲とはいえ、自軍は平家の真正面から攻めていくのだ。それでも、望美が自分の傍に居たいと言ってくれる気持ちを、手放したくないと思うようになってしまった。
どこまで許してくれるだろう。
本当のオレを知らない君は、本当のオレを知って、それでも許してくれるのだろうか。
君には赦して欲しい。君になら赦されなくてもいい。
君には受け入れて欲しい。君になら裁かれてもいい。どちらも本心で。
君を護りたい、君に救われたい。
君のために自分から遠ざけたい、自分のために君に傍に居て欲しい。そのどれもが本当で。
迷いを消すことができないでいるのに、今は、彼女の傍に居るという言葉に縋ってしまう。
(やっぱり、オレは弱い人間だね……)
そう呟いた言葉は、口の中で消えた。
END
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