月が明るい。京への道はまだもう少しある。それは、戦に戻るのにまだ時間が残っているということで、景時は空を見上げて溜息をついた。いっそ、このままこの旅路がずっと続けばいい。有り得ないけれど。
運良く宿が見つかり、旅の疲れもあって仲間は随分と早く眠りについたようだ。すっかりどの部屋も静まりかえり聞こえるのは細々とした虫の声ばかり。晩秋の虫の声は寂しいことこの上ない。命の尽きる前の声のように聞こえるからだ。自分もそんな虫たちと変わらないかもしれないと考えるせいか余計に寂しさを強く感じるのかもしれない。部屋を出て一人庭に面した縁に腰掛けそんなことをぼんやり考えながら月を見上げる。思い出すのは望美と月を見上げた夜のことだった。
あの日も月の明るい夜だった。京邸で二人月を眺めていた。空にある月と水面に映った月と。あの頃からもう既に景時にとって望美はどこか特別な存在だった。龍神の神子と八葉だったからではなくて。何故だっただろう。彼女の強さに惹かれた。その陰にある弱さや悲しみに共鳴した。彼女の八葉であることが誇らしく嬉しかった。あの頃からずっと、自分が八葉に選ばれたことが半ば信じられなくて、けれど、自分が変われるような気がしていた、龍神に導かれた運命のように。
「……きっとさ〜……間違いだったんじゃないかなあ」
本当は地の白虎になるべき人物は別にいて、自分がそうなったのは何かの間違いだったのではないだろうか。そうでなくて、何故、護るべき神子を殺すような人間が八葉に選ばれるだろう?
「……神子の為すことに間違いはない」
不意にそう声をかけられて景時は飛び上がるほどに驚いた。縁から転げ落ちそうになるのを堪えつつ振り向くと、そこには柱を背にリズヴァーンが立っていた。
「リ、リズ先生〜……びっくりさせないでよ〜……」
はは、と情けない笑いを浮かべて景時は頬をかいた。無口なこの年長の八葉は何もかもを見透かしているようなところがあって、少し景時は苦手だった。何よりも不思議と安心できて本音を零してしまいそうになるところが一番苦手だ。今も、リズヴァーンは一体何を察したというのか。
「……でもさ〜……武士なのに、先生が居るのも気付かないようなオレなんだよ〜?
こ〜んな頼りない人間が八葉なんてさ、間違いだって思わない?
神様だってさ〜、うっかり間違っちゃうことってあるんじゃないかなあ」
「ない」
即座にリズヴァーンが答えるのに、やっぱり景時は苦笑した。源氏でも平家でもない彼を、望美を護るということに関して景時は最も信頼していた。そこには半ば、羨望の気持ちも混ざっているかもしれない。リズヴァーンには迷いがない。景時のような迷いはなく、ただ望美を護るという強い意志があるだけだ。景時は頬に苦笑の余韻を残したまま、俯いて自分の手を見つめた。
母、妹、梶原の郎党、鎌倉……東国武士の都。大切に思うものは余りにも多い。その全てが景時の血肉でもある。武士であることが苦痛だった。多分、今も自分は武士には向いていないと思う。けれど、確かに自分の血肉には父祖から受け継がれた東国武士の想いが染み付いているのだ。京に虐げられてきた悔しさと、いつかは武士の世をという願いを景時も強く呪縛のように心に焼き付けられているのだ。だからこそ、東国に武家の都を開こうとする頼朝に惹かれる。九郎は優れた将で兵を惹きつける才を持つけれど、彼はけして東国武士の頭領にはなれないだろう。何故なら九郎は東国武士の苦難を知らないからだ。頼朝は伊豆に配流されてから東国の者たちと共に暮らしてきた。真実はどうであれ、その歳月があってこそ、彼は東国をまとめることができたのだ。だから、景時には頼朝を切ることができない。父祖の願いを、今生きている東国の者たちの願を裏切ることができない。しかし、それでも、命令のままに望美を殺すことも、できない。どちらも選べない。
「景時」
黙り込んでしまった景時にリズヴァーンが声をかけた。
「オレも先生みたいになりたかったなあ」
顔を上げて再び月を見上げた景時がそう言った。リズヴァーンは相変わらず表情の読めない顔で佇んでいたが僅かにその瞳が揺れたことに背を向けていた景時は気付くことはなかった。
「……景時、お前にしか出来ぬこともある。
お前が私になれぬように、私もまた、お前のようにはなれぬ」
思いのほかに切実な声音のリズヴァーンの言葉に、景時もその意味を噛み締めるように口の中で繰り返した。
「……オレにしか、出来ない、こと」
視界が歪む。そうだ、望美を殺すこと、それは自分にしか出来ないことだろう。仲間としてこんなにも近くに入り込み心を赦させて。しかし、その実、鎌倉の忠実な犬である自分にしか。暗殺などという汚い仕事。仲間を裏切るようなこと。薄汚い自分にしか出来るはずもない。
(本当は、そんなこと、したくないのに……)
どうすれば、と問いかけようとして振り向いたときには、そこにはもうリズヴァーンの姿はなかった。月は相変わらず冴え冴えとした光を投げかけていて、景時はぎゅっと拳を握り締めてまた溜息をついた。
どちらも、選べない。望美も、鎌倉も。鎌倉はいまや頼朝と同じものであり、頼朝を裏切ることは鎌倉を裏切ることになってしまう。では命令のままに望美を殺すのか。
(ダメだ、出来るはずがない)
鎌倉を出て以来、答えの出ない迷路にはまり込んでしまったかのようだった。今までも同じことを繰り返してきた。昨日まで、さっきまで仲間だった者たちが景時の前で景時の手によって死んでいった。同じことを望美にできるのか。望みが驚きに目を見開いて、血に染まり、活発に輝いていた瞳が光を失い虚ろに見開かれたまま、命の炎を失っていく様を景時はまざまざと想像することができた。それは繰り返し観てきた光景そのままだったから。何も想わなかったわけではない、それでもその度ごとに自分が守りたいもの……家族や郎党たちや父祖の望んだ武家の世を……天秤にかけて切り捨ててきたのだ。自分に守れるものを限ってきたのだ。けれど望美は、自分が護りたいもののひとつなのだ。切り捨てることができないもののひとつなのだ。いつかはそうやって大切なものの中でも選ばなくてはならない日がくるかもしれないと思ってはいたけれど。
(………望美ちゃん)
初めて自分に自信をくれた。勇気をくれた。生まれ変わることができるかもしれないという希望をくれた。
(…………オレは、君を殺したくなんかない……殺したくなんかないんだ)
胸が苦しかった。彼女が死ぬということを考えただけでどうにかなってしまいそうなほどに。それを為すのがほかならぬ自分だということを認めたくなかった。どうすればいいのか、どうすればそれを避けられるのか、考えても考えても身動きがとれずに……いっそ、このまま死んでしまいたいと思った。
そして、景時はまるで天啓を得たかのように急に心が落ち着いていくのを感じた。
(…………望美ちゃん、君を殺すくらいなら、オレが死んでしまいたい)
それは、とても良い案に思えた。そして、やっと、と景時は薄く微笑んだ。やっと、死にたいと思うことができた、と。
初めて、頼朝に命ぜられて暗殺を行ったのは千葉広常だった。彼は景時に目を掛けてくれていた人物で、景時も彼を父のように慕っていた。けれどいざ広常に相対したとき、彼が景時に刀でもって切りかかってきたとき、景時は『死にたくない』一心で彼に切りつけた。それ以前の石橋山でもそうだった。荼吉尼天に喰われてゆく御家人たちの姿を見せ付けられて、『死にたくない』一心で命乞いをした。あのときからずっと、死にたくないと思う自分の心の浅ましさが惨めだった。自分のような人間が生きたいと思うことが間違いだと何処かで思っていた。それでも戦場にあってもいつも何処かでやはり自分はずっと『死にたくない』と思ってばかりいた。そんな弱い自分が何より嫌いだった。
(……やっと、死にたいと思うことができた……
誰かを殺すくらいなら、自分が死んだ方がマシだと思うことができた……ありがとう、望美ちゃん)
景時が死ねば、頼朝もそう簡単には次の暗殺者を望美の近くへ置くことはできないだろう。他の八葉たちもいる。景時ほど近しく彼らの中に入り込み信用を得ることは鎌倉から来た人間には難しいだろう。ただ、問題は何時、自分が死ぬかということだ。まだ、早い。朔や母親や一族のことを思えば、無駄な死に方はできない。弁慶や九郎がいれば安心かとは思うけれども戦の大勢が決してしまうまでは自分が欠けてしまうことは軍にとっても士気が下がることになるかもしれない。軍功を立て、味方の士気を高めるやりかたを選ばなくては。
頭の奥がシンと冷えて冴えているのに、何処か心が高揚した気分になっていた。きっと、何もかもが上手くいく。自分が死ねば全てがあるべき方向へと定まっていく。大切な人を殺す必要もなく、これ以上手を汚す必要もなく、これ以上苦しいことも、もう起こり得ない。やっと、楽になれる。
やっぱり、望美は自分を救ってくれた。死んでもいいと思わせてくれたのだから。
だから、自分は彼女を護る八葉らしく、彼女を護って死のう。
それは悲壮な決意ではなくて、ただただ自分に与えられた天命のように思えた。この思いに従えばきっと何もかもが上手く行くというような。
何時の間にか、虫の声は消えていた。力尽きてしまったものだろう。やはり、自分は秋虫と同じかもしれない。そう考えて薄く笑うと景時は縁を立ち上がった。
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