「源氏の虫けらどもが……小賢しい真似を」
忌々しそうに惟盛はそう呟いた。せっかくしかけた呪詛が祓われてしまって、これでは鎌倉を穢すことも、地脈を狂わせることもできなくなってしまった。鎌倉の五行を守る要たる鶴岡八幡宮に怨霊を放ち、一気にこの地を穢してしまおうかと考える。
忌々しい、忌々しい。
東国で源氏が旗揚げをしたと報せがあり、九郎義経が京へ上って来て以来、この忌々しい苛々した心持ちが収まらない。否、もっと以前からだったかもしれない。この苛々した心持ちは、自分がまだ人間というくだらない存在だったころから、心の何処かに燻っていたものだったかもしれない。
――惟盛殿はあのような方ではなかった
敦盛がそう小さく呟いたと聞いて、惟盛は逆に敦盛こそどうして以前と変わらぬ弱々しいままの心根なのかと蔑んだ。かつて確かに自分は、儚く舞う蝶の生命を嘆き花の盛りの過ぎることを惜しんだ。生命あるものは何時か尽きてゆくその儚さを哀しんだ。しかし、今は思う、あの哀しみも儚さを愛しんだことも、全ては自分自身の死を怖れるが故の裏返しであったと。どのように美しいものであれ、いずれ死にゆくということが、いずれその運命は自分にも訪れるということが怖ろしく、それ故に儚きものを尚更に愛おしんだのだと。今、同じように死に行くものを自分は愛しむ。しかしそれは、その儚さゆえではない、死に瀕した嘆きと恐怖が何よりも心地よいのだ。弱き者たちの恐怖の叫びが自分の強さを確信させてくれる。それ故に滅び行くものを愛でる。自分の足元に平伏すものを。
自らが人ではなく死すらも越えた存在として在るようになったとき、例えようもない高揚に包まれた。最早、自分は選ばれた存在なのだと。死すらも越えたのだ、何をも怖れることはないにだと。死すべき運命の者たちはその運命さえも越えた平家の者たちのために這い蹲り尽くすべきだ。その身を以て我らに尽くすのであれば、かつて蝶に花にかけたと同じほどの憐れみをかけてやろうではないか。
それなのに、と惟盛は歯噛みする。
東国の者どもと来たらどうだ。平家に逆らいあまつさえ兵を挙げるとは、己の分際をも弁えぬ無粋の輩どもが。虫ならばまだその姿でその音で、我らを楽しませてくれもしようが、逆らうばかりで不愉快な気にしかさせぬ者どもなど虫にも劣る。まとめて死んで仕舞えばよいのだ。何故に我らが京を追われ落ち延びて行かねばならぬのか。誰も彼も手ぬるすぎる、鎌倉が本拠ならば鎌倉に穢れを放ち怨霊で焼き尽くして仕舞えばよい。逆らう者どもなど殺し尽くして何が悪かろう?
ああ、苛々する。
何時からだったろう、人ならざる身となったときに感じた高揚感が消え、焦燥にも似たものがこの身に走るようになったのは?
平家の栄華のためと、この身が人ならざる存在へと変わったとき、全ての怖れを忘れたと思ったのに、この焦燥はまるで何かを怖れているようではないか。何を? 怨霊を封印するという源氏の神子だろうか? 死をも越えたというのに、やはり死はそこにあるというのだろうか?
「出でよ、鉄鼠」
惟盛は怨霊を呼び出した。強い瘴気が集まり怨霊へと姿を変える。自らの命を聞き忠実に働くこの怨霊は、惟盛にとって十分可愛い存在だった。
「思うままに鎌倉を踏みつぶし、荒しつくし、忌々しい者共を引き裂いてしまうが良い」
この苛々は収まることがあるとするなら、きっとこの東国の者どもを葬り去り、全てを灰燼に帰し、生在るもの全てが平家に平伏し、永遠が約束されるときにこそだ。賢しげに自分に意見をしてくる還内府と呼ばれる者も……全くの偽者の癖に、それこそ一族を率いるかの如く振る舞っている様も忌々しい……全て消え去って仕舞えばよい。
鉄鼠の放つ瘴気は辺りの空気を澱ませ、それまで日を射していた空が俄にかき曇り生ぬるい風が吹き始める。最初は鉄鼠に向かって弓を射掛けてきていた者たちも、そのうちの何人かが鉄鼠の餌食になると共に背を向けて逃げ出した。その背へ向けて容赦なく鉄鼠は爪を立て踏みつぶし瘴気を放つ。見る間に辺りに人の姿は無くなり、鎌倉の要たる八幡宮は重い闇に沈もうとしていた。
ほら、こんなにも容易い。初めて怨霊を見て恐れ逃げ惑う鎌倉武士たちの恐怖を感じ取って、声を挙げて笑った。
しかしじきに惟盛は、それがとても空虚なものであることに気付いた。心地よいと思ったのに一瞬でそれは過ぎていく。もっともっと恐怖を、もっともっと。足りない、この程度の血では足りないのだ。この焦燥感は何故収まらないのだろう、この鎌倉の全てを焼き払ったとしてもこの思いは収まらないのかもしれない。
――私は永遠が欲しかった。いずれ訪れるであろう死を見たくなかった。
そして私は死を超えた。地を這いずり命乞いをする愚かな生き物とは別の存在になった。
ああ、それなのに何故私はこんなにも渇いているのか、何故なのか
源氏の血が私を潤してくれるだろうか、神子の血が私を潤してくれるのだろうか?
暗く瘴気の立ち込めた八幡宮の境内に一筋の光が差し込む。それは空から降り注ぐのではなく、遠く道の果てから一筋に向かってくる光。やがて強く眩しく、光は辺りの空気を清浄なものに変えてゆく。
(……現れましたね、源氏の神子……)
目を眇めて惟盛は光の先を見つめる。怨霊を封印することができる唯一の存在。
怨霊の力を以って京で優勢を盛り返すかに見えた平家を再び西へ落ち延びさせたのは源氏の神子の存在だった。死せる者は皆、源氏も平家も関係なく怨霊となる、平家の傀儡となる。この世に未練を残す者が怨霊となり我を失い生者を呪い瘴気を振りまく。
□■□
惟盛という人物を景時は良くは知らない。敦盛の話では、かつては優しい人であったという。怨霊となるということは、人らしさを失ってしまうということなのか。戦場でも数多の怨霊を見てきた。人の姿を失い、人の心を失い、かつての味方にも蔑まれ、ただ敵を、人を打ち殺す。彼らもかつては人だったのだ、家族を愛し、友と語らい、生きることを楽しむ人だったのだ。そのことが堪らないと思った。景時も、怨霊を快いものだとは勿論、思ったりしない。望美と初めて会ったとき、『怨霊と戦うなんて、嫌になっちゃうよねえ』と言ったのも本心だ。それでも、それよりも、人を人でなくしてしまう、怨霊などにしてしまうということこそが許されないことなのだと思う。
逆らうことの出来ない命令にがんじがらめになり、いっそ人の心などなければ楽になれるのに、と思う自分が、そんな風に思うことが少し滑稽ではあるけれど。それでも、やはり、堪らないのだ。怨霊となった者たちの中には源氏の兵もいる。景時の部下であった者たちもいるだろう。
平家の将たちも怨霊になった者がいる。惟盛もその一人だという。死後甦ったと言われる還内府と呼ばれる者も怨霊なのかもしれない。死してなお、一族の栄華を求めるというのか、あるいは、死者の国でも作るつもりなのか。
死者の国と恐怖を齎す神が君臨する国と、どちらがよりマシだろう。
怨霊となり平家の傀儡となった者は景時を哂うかもしれない、生きたまま傀儡であるお前よりはマシだと。
それでもやはり、死してなお支配される者は哀れだと思うから。せめて死は、全てからの解放であって欲しいと願うから、やはり自分は平家とは相容れないであろうと景時は思う。
「望美ちゃん、封印を……!」
「はいっ……!」
鉄鼠の放つ瘴気は既に望美の清らかな気に祓われていた。穢れを祓い、怨霊にさえ安らかな眠りを与える清浄なる神子。
既に八葉によって気を削がれていた鉄鼠は甲高い叫びを上げて光に包まれその姿を霞ませてゆく。
これで惟盛が退いてくれれば鎌倉も危機を脱するはずだ。景時はほっと一瞬気を緩めた。しかし、鉄鼠が封印されたというのに、まだ瘴気は晴れない。
「……おのれ……」
惟盛の周囲の気が瘴気に歪む。今回ばかりは、彼は退く気はないようだと知ると景時は再び戦うために銃を手にする。勝てるとは思わないだろうに、退く気がないのは何故なのか、怨霊であることに疲れたのか。自ら望んでそうなったとしても、人の心を失ったとしても、あるいは失ってしまったからこそ、存在することは苦しいことなのか。……それとも、そんなことさえもう気付いたりしないのだろうか。
惟盛を封印するべく気を集める望美を景時は、半ば見惚れるように見つめていた。いつか自分の罪が裁かれるときがくるだろうか。そのとき、こんな風に君に裁かれるとしたらどれほど甘美なことだろう。望美の手で封印される惟盛を一瞬羨ましく感じたことに、景時は自嘲した笑みを浮かべた。
□■□
鉄鼠が封印されたとき、機を逃さず退けば退くことができただろう。しかし惟盛はそうする気がなかった。忌々しい源氏の神子にしてやられたまま、みすみす尻尾を巻いて戻るつもりもなかった。還内府に仕切られた平家の現状にもうんざりしていた。何もかもが惟盛にとって耐え難いものになっていた。
何もかも、厭わしい浮世の理から自由になったと思っていた。もはや何も怖れるものはないのだと思っていた。しかし、実際はどうだっただろう。
かつて美しいと感じた花々は色褪せて見えた。一体この世界のものを美しいと感じたのは何時が最後だっただろう。花を慈しみ、蝶を愛で、儚きものを憐れんだそれは死を恐れるがゆえのことで、かつての自分が弱かった証だと思っているのに、何故あのころの自分の方が幸せであったような気がするのだろう?
八葉たちの中に裏切り者の姿を見つけて惟盛は歪んだ笑みを浮かべた。敦盛だけではなく、そこに居たのは平家を率いる還内府その人だった。最初から、自分はこの男を信じたりなどしていなかった。やはりこの男は平家の人間ではなかった。平家のために戦うと言いながら、それでどうして自分を討ちにくるのだ? 自分こそが平家の正当なる血を引く者だというのに? 神子よりも八葉よりも、還内府と呼ばれるその男を瞬間、憎いと思った。偽者であるのに祖父に強く信頼されている者を。父を偽る者を。自分の父はただ一人、それはけしてお前などではない。
偽りだらけだ
そうだ。全て偽りだらけだ。何もかもが偽りだ。還内府と呼ばれる男は平家の人間ですらない。清盛も既にかつての姿も記憶も失った。人であることさえ辞めた。
自分も、平家のために、人であることを辞めた。平家のために、平家のために、平家のために。
なのに私は討たれるのか? 還内府に、敦盛に、平家の者に討たれるのか? 平家のために、平家のために?
死せる者は皆、源氏も平家も関係なく怨霊となる、平家の傀儡となる。
ああ、と惟盛は笑った。
自分は違うと思っていた、と。人であることを辞め、怨霊の身になっても、清盛の血を引く自分は違うと思っていた。戦で死した兵たちが醜い怨霊となったのとは違うと思っていた。だが、同じだ。姿は違っていても結局は同じだ。同じ、傀儡ではないか。平家のために使い捨てられる、それは同じではないか。
かつての記憶を失い、しかし強大な力でもって怨霊を生み出し、平家の世を作ろうとしている祖父・清盛に、惟盛は最期に問いたかった。
あなたが作ろうとしている平家の世とは、いったい誰のためのものなのか。
私も、私以外の者も結局は、あなたのための世を作る駒に過ぎないのではないのか。
封印の力が押し寄せてくる。死にたくない。消えたくない。恐怖が惟盛を包む。だが、もう、遅かった。
何故、私はこんな最期を迎えなくてはならなかったのですか。
その問いは誰に届くこともなく、虚空に消えた。
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