涙のあと




 空に向かって、細い細い煙が上っていく。死者を焼く煙だという。死者を弔う煙だという。葬列に並ぶ誰もが口を開かなかった。望美はぼんやりと前をゆく棺を眺めている。
 低い読経が流れている中、棺が安置される。松明が灯され香が焚かれ、細い細い煙となって空に上っていく。望美はそれをぼんやりと不思議な気分で眺めている。あれは誰の棺だろう? 景時さんだと皆は言うけれど、だってあの中には彼はいないのに。人々に続いて望美は棺に近づいていく。美しい彫刻を施された木の箱は少しも望美に感慨を与えたりはしない。だって、この中に景時さんは入っていないのに・そう思うと望美の手は棺にかかり、その中をさらけ出す。中には何もなかった。
(ほら、景時さんはいない。だって、景時さんは死んでなんかいないもの)
そう思ってほっとしていると、背後から朔の声がした。
「いいえ、望美、兄上は死んだの。志度の浦で死んだのよ」
(そんなことない、だって、景時さんはいないじゃない、棺の中にいないじゃない)
「景時は死んだ。お前も見ただろう? 兵に囲まれた景時を」
九郎の声もする。違う、そんなはずない、そう強く思った望美は皆の方を振り返る。するとそこには景時が立っていた。
「・ほら、望美ちゃんも見たでしょう、血塗れのオレを」
赤く赤く染められた景時の衣。赤く赤く染められたその体。まるで涙のように赤い血が頬を流れていく。赤い、赤い、空まで赤い、その世界。
 望美は悲鳴をあげた。
「あぁああぁぁーーー!!」


 途切れることのない悲鳴が望美の部屋から聞こえる。長く続いたそれがおさまると戸が乱暴に押し開けられる音と、倒れ込むような音。朔は急いで音のする方へと向かった。主のいなくなった京邸で、戦から戻って数日、毎朝、望美はこうだった。涙に塗れて縁にうずくまるその姿は、戦場で凛々しく戦っていた神子と同じには見えなかった。
「望美……」
 朔はそう言うと、そっと望美の肩を抱く。触れた瞬間、ぴくり、と望美が震えた。冬の朝、身体はすぐに冷えてしまう。零れる涙さえ凍ってしまいそうで。かつて朔も大切な人を失った。そのとき、朔を繋ぎとめ支えてくれたのが、兄である景時だった。そして今、その景時まで逝ってしまって、朔には言いようのない寂寥感が胸に広がっている。それでも朔が留まっていられるのは望美のおかげ、だった。自分が望美を支えなくては、という強い思いが朔を支えていた。景時と望美が想いを通じ合わせていることを、薄々と朔は気付いていた。それは喜ばしいこととして朔は受け止めていたし、ぼんやりと夫婦となった景時と望美と、穏やかな邸を想像することもあった。それは、いつか来るだろうと希望を抱かせる、朔にとっても幸せな夢であったのだ。その夢も潰えた。
 朔は望美を支えて室へと戻らせる。褥に寝かせ、安心させるように手をそっと握る。望美の呼吸が落ち着いてきたことを確認してから、朔は手を離す。京に戻ってきてからずっと考えていることが朔にはあった。今のこの望美の状態はけして源氏軍にとっても良いとはいえない。このような状態ではかえって士気に関わる。九郎や弁慶たちもそれを知るから、今はもう既に景時の弔い合戦と称して再度屋島を攻める準備を進めているというのに、望美を帯同する話も出ないのだ。そして、朔も。兄もいない源氏軍に身を置く気にはなれなかった。怨霊を鎮めることができるのは自分だけであり、封印できるのは望美だけだ。それは良くわかっている。けれど、大切なものを失ってしまって疲れてしまったのだ。それは望美も同じこと。
 朔は、自分と望美が源氏軍を離れ、京の外れ大原の尼寺に身を寄せる願いを九郎に申し出る決意をしていた。そして、その朔の申し出は、九郎によって許される。残った八葉たちの誰もが、今のような望美に戦は無理だとわかっていたし、何よりも憔悴しきった姿を見ていられなかったのだ。そして九郎は何よりも、自分が景時を死なせたという自責の念があり、龍神の神子をあくまでも源氏に役立たせよという鎌倉の意志に反しても二人の望みを許すことを選んだのだった。
 景時が居たはずの屋敷を離れ、八葉の誰も訪れることのできない尼寺に身を寄せるうちに、望美もだんだんと悪夢にうなされることは少なくなっていった。しかし、それでも一日中考え込んで過ごすことは相変わらずで、朔はそんな望美の傍に常に身を寄せていた。そして、そんな朔だから気づいたのかもしれない。いつしか望美の瞳に力が戻り、何か強く思い詰めていることを。それがどんなことかはわからないけれど、景時の死について望美が自分自身を強く責めていたことはわかっていたので、自身が不幸になる選択だけはしないでほしいと思った。だから朔は、望美に向かって景時に悔いはなかったと思う、と語りかけた。本当のところは、朔にだって景時の真意はわからない。けれど、せめてそう思いたいのだ。そうであってくれれば、生き残った者は自分を許せなくても少しは救われる。けれど、朔のその言葉を聞いてさえ、望美が思い詰めている様子は変わることがなかった。


 望美は雪の庭を眺めていた。寒いはずなのに冷たさを感じてはいなかった。ずっと景時が死んだということを認められなかった。もしかしたら生きているかも、もしかしたら逃げ出して戻ってくるかも、そんな一縷の望みにすがりついていた。葬儀の空の棺を見たときに初めて、もう彼は戻ってこないのだとわかって自分の中の何かが欠けてしまった気がした。
 最初は何もわからずにがむしゃらに目の前の怨霊を封印した。次に京の五行を整えることが人々のためになり、自分が元の世界に戻るために必要だと知って戦いに身を投じた。けして自ら望んだわけではなかった。けれど、その後は自分からこの世界に戻った。大切な人たちを守りたいと思ったからだ。……一度同じ運命を辿った自分なら、来るべき悲劇を予見して避けることができ、皆を救うことができると思った。
 それはどれほど傲慢な考えだったのか、今となってやっとわかったのだ。守られていたのは自分の方だった。あのとき、おそらく景時はとっくに自分の死を覚悟していたのだ。望美の目には景時はいつもと変わらない様子に見えた。それはつまり、あの場でそうと心を決めたわけではなく、ずっと以前から景時は死ぬことを決めていたということに違いない。そして望美は朔の言葉を思い出す。『死んで英雄となれたのだから悔いはなかったはず』本当にそうなのだろうか? 景時は死んで英雄になりたいと……ずっと思っていたのだろうか。望美にはそれが信じられない。
(景時さんは……お日様が似合うひと。寂しい影を背負っているけれど、でも本当は誰よりもお日様が似合う人なのに)
戦なんて嫌いだと言っていた。痛いことも怖いこともごめんだと言っていた。そんな人が、なぜ名誉や栄誉のために自分の命を賭けるのか。
(本当のことを聞きたい、景時さん……)
 望美は強く自分の身体を抱きしめた。あのとき、何故最後まで自分は景時の傍にいなかったのか。なぜ彼の傍から離れてしまったのか。失ってしまったものの大きさに、なぜいつも自分は後からしか気付くことができないのか。はたはたと床に落ちた雫を望美は指でなじった。泣いてばかりいる自分には、もううんざりだ。本当のことを知りたい……そして、景時を助けたい。その術を、望美は知っている。
 ぎゅっと手を握り締めて唇を噛んだ望美はそっとその手を胸元へと導いた。服の下にある硬い感触。命を賭けてこれを渡してくれた白龍のことを思い出す。そしてそれが故に躊躇いを感じる。
(使ってもいいの? 逆鱗を……自分のためだけに使っていいの?)
仲間のためでもなく、景時のためでもなく。そう、景時を助けたいという気持ちは望美の勝手な思いでしかないのだ。もしも景時自身が朔の言う通りに、名誉のための死を望んでいたのだとしたら、全ては望美の自己満足でしかなくなってしまう。もう一度時を遡ったとしても、やはり景時は死んでしまうかもしれない。変えられない運命もあるのかもしれない。景時が命を永らえたとしても、次は違う誰かが死んでしまうかもしれない。自分はそれらすべてを背負うことができるのだろうか。
 躊躇いは自分の身勝手さのために逆鱗を使うことの是非にあるのではない。躊躇いは、怖れからだ。真実を知りたい、けれど知るのが怖い。景時を助けたい。けれどまた時空を遡って、そして、また景時を失ったら、と思うと怖い。景時の変わりに誰かが死ぬことになったらと思うと怖い。それが自分の責任となることが、怖いのだ。
 まるで想いの強さを試されているようだとさえ思った。何よりも強く望むものは何か。全てを背負っても譲れない想いを持っているのか。
(私は……)
景時を失ったまま、この尼寺でただ彼を弔って生きていくことで満足できるだろうか。否だ。
景時の本当の声を知らぬまま、彼は満足して逝ったのだと思い込むことができるだろうか。否だ。
それなら。
(私は、どれほどの痛みを繰り返したとしても、景時さんを助けたい。
 何度彼を失ったとしても、彼を助けるためなら何度でも時空を越える。
 でも、そのために彼の他の誰も仲間を犠牲にはしない)
強く、望美は心に誓う。欲しいのは力ではなくて強さ。剣の強さではなく、心の強さ。
「望美……?」
心配げな声がして、顔をあげると朔が少し離れたところから望美の様子を伺っていた。どれほどに心配をかけたか望美は胸が痛くなる。自分が弱いがために、同じ痛みを抱いている親友にも更なる痛みを感じさせた不甲斐なさを後悔した。
「……ごめんね、朔」
そう言うと、朔は「いいのよ」と言うと、にこりと微笑んだ。優しい笑顔。その笑顔の陰にどれほどの悲しみを朔は抱えているのだろう。自分に彼女の半分ほどでも心の強さがあったなら。
「ごめんね、対の神子がこんなで」
……こんな、身勝手な私で。
「……いいのよ、望美。あなたがいいなら、いいの」
朔はそっと望美に近づいてくると冷え切った望美の頬に手を宛てた。
「あなたが、決めたことなら、いいのよ」
何を感じ取ったのか朔はそう言って頷いた。望美もそれに応えるように久しぶりに……あの日以来初めて笑みを口元に浮かべて、そして、頷いた。

それが罪でも我侭でも。すべて自分で背負うと決めた。

その日、望美は逆鱗を握り締め時空を越えた。




最初のときと、このときとでは時空を越える意味が異なるように思います。
戦う意味も変わったかも。
景時にとってもそうですが、望美にとっても大きな転機だったと思います。


■ 遙かなる時空の中で ■ 銀月館 ■ TOP ■