三草山以降、平家との間には特に大きな戦もなく、源氏の兵たちも京にて治安の維持に当たりつつ、次の戦に備えていた。望美たちも京邸に滞在しつつ、時に都に現れる怨霊たちを封じるのが役目となっていた。九郎や景時、弁慶たちはもちろん、日々、源氏軍の維持や朝廷とのやりとり、鎌倉からの指示に沿うために忙しく立ち回っている。望美たちが世話になっている京邸の主である景時も朝食を共に摂ることはあっても夜は遅くになることが多かった。それでも、望美たちが怨霊を封印しに町に出る時には必ず共に行動をしている。それが、八葉としての行動なのか、源氏軍の軍奉行としてなのかはともかくとして、望美や八葉たちの働きによって京での怨霊騒ぎもひとまず落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
折しも季節は夏を前にして湿気の多い季節……梅雨のさなかで、怨霊騒ぎが減ったのはちょうど良い具合ともいえた。雨の中の外出は望美といえども些か億劫な気分にさせられるものだったからだ。しかし、もともと活動的な望美のこと、家の中に閉じこもっているのも退屈ではあった。おかげでここ最近の湿り気を帯びた天気と同じく、望美の気分も曇りがちだった。もっとも、その晴れない気持ちの原因が単に天気のせいなのかは望美にも良くわかっていなない。
その日は梅雨の晴れ間で、濡れた地面も乾き景時が居ればそれこそ大喜びで洗濯に勤しみそうな日だった。しかし、朝から慌ただしく六条堀川へと向かった景時は邸には不在だった。さぞかし残念に思っているだろうな、と望美は考えつつ、最近、景時のことを考えるともやもやした気分になることについて考えていた。もやもやした気分は、はっきりといえば不快感である。きっかけはといえば、あの日の夜、だ。三草山から帰った後の日、庭で景時と出会ったあの夜だ。『望美ちゃんも兄みたいに思ってくれてるとかーって』脳天気に景時がそう言ったとき、何故か突然に、急激に景時に対して腹が立ったのだ。それまで景時に対して、何か怒りを感じたりすることなどなかった。むしろ、優しいひとだと感じたり、彼の心遣いが嬉しかったり、張りつめていた心を緩めてくれるような存在だったのだ。
(……そういう点では、家族みたい、っていうか、お兄さんみたい、で間違ってないと思うんだけど)
縁に座って足をぷらぷらとさせながら、望美はしかめっ面になりながらとりとめもなくそんなことを考えていた。今でも、景時のあの言葉を、彼の声で思い出すと。
(……でも、ムカツク、んだよね)
今もまた、思い出してしまい、無意識のうちに不機嫌そうに唇が尖る。それでもあのとき、何も言わなかったのは盗み見た景時の表情がとてもそんな軽口を言っているような表情とは異なっていたからだ。少なくとも、いつものような笑顔ではなかった。笑っていたけれど、笑って見えなくて、だから望美は自分のその『ムカツキ』を口にできなかったのだ。
(だいたい、なんでそんなにむかつくんだか自分でもわかんないんだもん。無理だー。
景時さんに悪いよ……)
景時のような優しい兄がいて羨ましい、と朔のことを思ったことだってあるのだ。だからこそ本当なら景時の言葉は嬉しくても良いはずなのに、である。もやもやとした気持ちは一向に晴れることがなく、今も景時の顔を見ると、ちくりと胸を刺すのだ。
「あー! もう、すっきりしないなあ!!」
「望美、どうしたの」
苛々した挙句に頭をぶんぶんと振って、声を張り上げた望美に、朔が声をかけた。朔が近くにいたなどと思ってもいなかった望美はびっくりして飛び上がりそうになってしまった。
「な! なに、朔、いたの?」
「いたのって……兄上の部屋に着物を置きに行くのに通りかかっただけよ。
それより、いきなり大きな声を出したりして、どうかしたの?」
朔の手には確かに、景時の着物があったが、もしかしたら望美の様子を気にかけて見に来てくれたのかもしれない。朔にまで心配をかけてしまったと感じて、望美は尚更に落ち込んだような気持ちになってしまった。朔は俯いてしまった望美の表情に気付いたのか、景時の着物を手にしたまま望美の傍らに座り込んだ。
「望美、何かこの邸で不都合なことでもあった? 困ったことがあったのなら言って欲しいの。
あなたの住んでいたところとは、習慣もかなり違うようだし……」
「違うよ、違う違う、朔。全然困ったことなんてないよ。本当に、いつも皆に良くしてもらってるし
むしろ、なんていうか、お料理手伝っている譲くんに比べて、
私なんて何もせずにお世話になりっぱなしで……」
慌てて望美はそう言った。朔にこれ以上誤解されてはたまらないと思い、つい、言葉を続ける。
「そうじゃなくてね、あの……」
そこまで言って、はっと気付いて朔の顔をまじまじと見つめた。訝しげに朔は望美を見返す。もちろん、朔は望美の対となる龍神の神子だが、同時に景時の妹でもある。自分でも理由がわからないのに、朔に向かって『景時さんのことを考えると、もやもやした気分になってすっきりしない、言われたことを思い出すとムカつく』などと言ってしまって良いかどうかと思ったのだ。
さらに言えば、朔は景時に対してかなり厳しい妹である。望美の言葉を不快に思わないときは、朔が景時をきつくきつく叱るときだろう。そう思うと、それはあまりに景時に悪いと思えてしまう。それに……と望美は考える。それに、あの夜、庭で景時と会ったことは、景時との秘密なのだ。その秘密を護ること、たとえ朔であっても話さないことは、とても大切なことのように思えた。だから望美は言いかけた言葉を辞めて、朔に向かって笑いながら言った。
「そうじゃなくて、ちょっと考えてることがあるんだけど、でも、今はまだ自分でも上手く説明できないから。
いつか、朔にちゃんと話すし、どうしても駄目だってなったら相談するね。
でも、大丈夫だと思う。すっきりしない気分なのは、梅雨のせいかもしれないし!」
勿論、朔は心配げな顔をして望美を見つめていたが、やがて微笑んで頷いた。
「わかったわ。でも、本当に何かあったら話してね。お願いよ」
「うん、ありがとう。何があっても朔が居てくれるってわかってるから
一人でも心配せずにいろいろ考えこめるんだよ。だから、頼りにしてるから」
望美がそう言うと、朔は少しほっとしたような表情で微笑んだ。望美の考え込んでいることが、そんなに深刻なことではないらしいと納得できたのかもしれない。それじゃ、と言って朔が立ち上がる。その姿を見上げた望美は、心配をかけたお詫びのような気持ちで朔に向かって手を伸ばした。
「あっ、朔、それ、私が持っていっておいてあげる。景時さんの部屋に置いておけばいいんでしょ?」
「いいのよ、望美、兄上の部屋なんて何が置いてあるかわからないんだから!」
「いいからいいから! たまには朔のお手伝いもさせてよ、って、お手伝いなんていうほどのことじゃないけど」
望美も勢い良く立ち上がると、朔の手から景時の着物を取り上げる。そして、朔の背を押すようにして
「はい! これは私に任せてね!」
とはしゃいだように言い募った。朔は諦めたように笑いながら
「わかった、わかったわ、望美、じゃあお願い。でも、兄上の部屋、発明の部品だのなんだの
怪しげなものが散らばってるかもしれないから、触らないように気をつけてね、怪我でもしたら大変だもの」
と言って戻って行った。望美は景時の着物を手にそれを見送っていたが、やがて息をついて手にした着物を見下ろす。それから、ぱたぱたと景時の部屋へと向かった。
何故か少しばかりどきどきした気分で望美は景時の部屋の戸を開けた。本人が不在の時にこの部屋を覗くのは初めてで、別に悪いことをしているわけでもないのに妙に後ろめたい気分になる。部屋の中は綺麗に整理されていて、景時本人が中に篭って発明だのをしているときに比べれば随分すっきりしていた。
少しがっかりしたような気分になって望美は部屋の中に入った。なんとなく部屋を見回す。文机の上に文箱が置いてあり、束になった紙と景時が書いたのであろう書が無造作に重ねてあった。相変わらず、望美にはその書が何と書いてあるかはわからなかったが、そろそろと近づいて見てみるとまだ書き上げて新しいようで、そういえば毎日時間を見つけては練習していると言っていたな、と思い出す。その話を聞いたときはとても意外だったが、今はそんな風に好きなことには努力を惜しまない人だとわかっていた。
(すごいなあ、毎朝早いし、夜も遅いのにちゃんと続けてるんだ)
朔は景時が書を続けていることを知っているようだが、おそらくそれ以外の人間は彼がこんな風に努力しているということを知らないのではないか、と望美は思った。普段飄々とふざけて見せる彼には、そんなコツコツとした努力という雰囲気が似合わないように思えるからだ。
(いろんなことを、隠してる人だよね、良く考えたら景時さんって)
ふと三草山で聞いたことを思い出す。そして、あの時のひどく頼りない自嘲気味の笑顔があの夜に見た笑顔に似ていたと思った。しかし。『望美ちゃんも兄みたいに思ってくれてるとかーって』そんな他愛もない台詞が、どうしてあんな痛々しい表情から出てこなくてはならないのだろう。
(……それが良くわからないから、こう、もやもやして気持ち悪い……のかな)
そこが景時の部屋であるにも関わらず、望美は再び顰め面になって考え込んでしまった。しかし、そうではないような気がする。現に、そんな景時の表情を見るまでに既に自分はムカムカしていたではないか。そう思いだして、また不愉快な気分を思い出し。望美は
「あーもう! 苛々するー!!」
と大声をあげた。
「わっ!! なに、え、何かオレ悪いことした?!」
望美が叫ぶと同時に部屋に入ってきたのは、もちろんこの部屋の主の景時だった。彼はすっかり驚いて、いつもそれがくせのオーバーリアクション気味に仰け反ってみせる。
「えっ、景時さん?! えっ、なんでいるの?!」
「なんでって……ここ、オレの部屋っていうか……」
望美の反応に景時の方が申し訳なさそうな顔になって言う。望美は自分の言葉の理不尽さに気付いて顔を赤くした。
「あ、違うの、ごめんなさい、突然だったからびっくりして」
「ああ、ごめん、声をかける前にオレもびっくりしちゃって」
驚かせちゃってごめんねー、と頭を掻きながら景時が謝る。望美は慌てて首を横に振った。
「ううん、私が悪いから。あの、ごめんなさい、ただお洗濯終わった着物を置きに来ただけなんですけど
景時さんが帰ってくる時間にはまだ早いと思って、
ほら、いつもこのところずっと遅かったから、だからびっくりして」
勝手に人の部屋に居座って考え事をしていたことが恥ずかしくて、望美はますます顔を赤くした。それを景時に見つかったことが、何より恥ずかしい。今すぐ走って逃げ出したいくらいだった。赤くなった頬を両手で押さえて望美は俯く。しかし、景時はといえば、全く気にする様子もなく、笑って頷いた。
「ああ、そうだったんだ。ありがとう! 望美ちゃんにそんなこと頼むなんて、ごめんよ」
「あ、いいえ! 私が、朔に、無理に手伝わせてって言って、だから」
まだしどろもどろのまま、望美は言い訳する。おそるおそる見上げると、本当に景時はなんとも思っていないらしく、望美はほっとした。それから、彼が自分の失礼な行為を怒らないのは、朔と同じように妹だと思っているからだろうか、と思いつく。途端に、驚きのあまりに忘れていた先ほどの苛々した気分がぶり返してきて、望美はそれを振り払うようにぶんぶんと頭を振った。
「大丈夫? 望美ちゃん。気分が悪いの? 疲れてる?」
心配げに景時が望美の肩に触れた。途端に望美は自分の心臓がこれ以上ないほどに跳ね上がるのに驚いた。景時に気付かれたかと思うほどに、煩く跳ねる鼓動に望美はますます混乱してしまう。
「ああああの、はい、大丈夫。です。景時さん、私って手のかかる妹みたいですか。だからですか」
気付かれないように平気な顔をしなくては、と景時の問いに答えるつもりで望美は自分でも思ってもいなかったことを景時に向かって言っていた。
「手のかかるって、そんなこと思ってないよ。むしろ、もっと頼ってくれていいのに、って思うくらいだよ。
なんだか、いつもオレばっかり助けてもらってる気がするしさ。
遠慮してるのかもしれないけど、家族と変わらない気持ちで頼ってくれていいんだよ?
や、そりゃ、オレって頼りないけど」
望美の唐突な問いに少し意表を衝かれた様子ではあったものの、意外に真剣な表情に景時は真面目に答えてくれたようだった。望美はその言葉を聞いて景時を見上げる。
「兄と思ってって、そういう意味ですか? 家族みたいに頼っていいよって言いたかったんですか?」
景時はといえば、望美が何のことを言っているのか理解できていないようだったが、今言った自分の言葉の意味を反芻して頷く。
「う、うん。そうそう。もっとオレに頼ってくれていいよって」
「そっか、なんだ、そうなんだ」
何故か望美は気分が良くなって何度も頷いた。さっきまでの苛々した気分の悪さが消えてしまって不思議な気がした。
「もっと頼っていいよって意味だったんだ。もう、私、随分景時さんのこと頼りにしてますよ!」
それまですっきりしない気分が続いていた分、急に浮かれた気分になってしまって望美ははしゃいだようにそう言った。景時は何がなんだか良くわからないという様子ながらも、望美が笑顔になったのに安心したようだった。
「良かったー、望美ちゃん、元気みたいだね。
なんだか、このところあんまり元気ないみたいだったからさあ。お天気のせいだったのかな?
梅雨って雨が多くて鬱陶しいものね」
嬉しげに笑顔でそう言う景時に望美は、知られていたのかと少し驚いた。
「今日は鎌倉から書状が来てね、それを知らせに早く帰ってきたんだけどさ。
実は、このところ塞いでいた望美ちゃんの気も晴れるかな〜っていうような書状だったから
余計に急いで帰ってきたんだよ」
「え! 何なんですか、鎌倉からの書状って」
「ま、本当は全然気楽なものじゃないんだけどね、熊野に行くことになるんだ。
京を離れるのもちょっとは気が晴れるかなあ〜なんて」
ああ、と望美は夏の旅を思い頷いた。皆と一緒の熊野の夏。
「そうですね。熊野、頑張りましょう! ほんと、すっきりした気分で張り切って行かなくちゃ駄目ですよね」
ぐん、と景時の手を強く握って望美はそう言った。自分の内に囚われていて見えなくなっていた、自分の為すべきことを思い出させてくれたような気がして嬉しかった。
(やっぱり、景時さんだなあ)
それから自分が随分と強引に景時の手を握っているのに気付いて慌てて手を離す。
「ああああ、ご、ごめんなさい! つい、勢いで」
引いていた頬の熱が再び戻ってきそうになる。
「ああ、いや、そんな気にしなくたっていいんだよ〜」
そう言う景時も不思議と赤い頬をしているように見えた。望美はこれ以上何か失敗しないうちにと景時の部屋から出る。
「じゃあ、旅の準備しなくちゃですね! 朔にも知らせてきます!」
手を振ってぱたぱたと縁を駆けていく。景時はその姿を眩しげに見送っていた。
望美は浮き立った気分で朔の部屋へと向かった。
(妹みたいってことじゃないんだ。良かったー)
自分の心をよぎったそんな思いに気付くことなく、
「朔ー! 朔、あのね……」
と嬉しげな声を挙げる。
「どうしたの、望美ったら……」
戸惑った様子の朔が部屋から顔を出すのに、望美は「あのね……」と待ちかねたように話しかける。
空は明るく晴れ渡り、梅雨の終わりを告げている。望美の心にも梅雨明けが訪れたようだった。
END
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