「なるべく……っていうか、本気で急いで作業を頼むよ〜
これ以上遅れると、九郎に殺されても文句言えないからね」
景時は逆艪を取り付ける作業を急がせながら九郎たちが出発した先の海を見つめた。源氏の兵たちは水上の戦に慣れていない。九郎たちは苦戦を強いられているだろう。自分もやはり九郎の命を聞き入れて共に出発するべきだっただろうか? いや、水上戦になれていないからこそ、やはり万全の準備は必要なのだ。どうあっても万が一のことまで考えて準備をせねば動くことのできない自分と九郎の違いを見せ付けられた気がして、少しばかり苦く笑った。
九郎には天賦の戦の才がある。ここぞという機を見るのも、まるで本能のように的確だ。九郎の戦には計算はなくて、彼は本当に考えるではなく感じるままに戦を展開し、それは景時のように考えて考えて相手を読もうとするような人間には読みきれないものなのだ。九郎には『勝つ』という確固たる意志があるのみで、戦に出るということを怖れる気持ちはないのだろう。だが、景時は違う。いつだって戦に出ることは怖い。誰かが死ぬかもしれないこと、自分が死ぬかもしれないこと、それはいつだって怖いことだった。だから、いつも、自分に出来る限りのことを準備して、その可能性を低くして、勝てるという確信をもてなければ慎重になった。九郎と共に戦うようになってからは、九郎の天賦の才が景時に味方したし、彼の才と運は景時の計算を超えたものではあったけれど。
(今回ばかりは、どうしても)
安全策をとりたいと思った。自分の命はどうあってもいい。死ぬと決めているのだから、それはどうでもいいことだ。だが、自分が欠けた後の軍のことを考えれば……少しでも失う兵は減らしたい。そのためにも逆艪は必要だと思う。一方で、こうした自分の慎重な対応が兵たちに与える影響も景時は良くわかっていた。勝利に慣れてきた兵たちは、景時の慎重策を不満に思い始めている。強攻策を取りつつも的確に勝利を収めてきた九郎のやり方を支持する声も高くなっている。それでいいと思う。九郎の策はいつも、突拍子のないもので、兵たちがついていくのに最初は戸惑いもあり反発もあった。奇異な策が勝利をもたらすことがわかってからは兵たちは九郎の奇抜な策をも信頼するようになってはいたけれど、中にはその策の故に命を落とした者たちもいて、その評価はいつも半々だった。景時はそうした者たちと九郎との間に入る役目も果たしていた。自分がいなくなったときに、九郎と東国の者たちの間で緊張関係が起こらないために、彼らが九郎を信頼するように。『梶原殿は自らの失策を命で贖ったのだ』と、けして景時の死が九郎の責となり彼らが九郎に反発することがないように、しなくてはならない。殊更、兵たちから腑抜けと思われるように慎重策を取り、九郎の策に反対を唱えてきたのもその考えがあってのことだった。
(臆病故に九郎の策を取らず、故に命を落としたと)
それくらいが自分にはちょうど似つかわしい死に様ではないかと思っている。
「景時さん」
呼びかけられて、どきり、とした。こんなになってもまだ、自分と一緒にいると言ってくれる人。景時の考えていることなど知りもしないだろうに、時折信じられないほど深く、景時の心に踏み込んでくる。心を決めて以来、彼女が生きている、彼女と生きている一瞬一瞬がひどく愛しかった。笑ったり、怒ったり、照れたり、彼女がここにいる、その一瞬一瞬が愛しかった。何も彼女に残していけるものはないというのに、自分は死んでいこうと思っているのに、その最期の時間まで彼女の傍に居る事ができるというのは、なんと幸せなことなのだろう、と思っている。ささやかな正月の宴の折にも、もう二度と年を重ねることはないであろう自分が、最期の正月を大切だと思える人と共に過ごすことができるのは幸運だと思えた。最期だとわかっていて、それと大切に過ごせることは、どれほどに運の良いことかと思いながら過ごしていた。戦で死んだ多くの者達も、今まで自分が命令のままに殺した仲間たちも、これを最期と思うことなく家族や友人や恋人や、大切な人と別れてきただろう。これを最期とわかっていれば、きっともっと違う時を過ごしたいと思っただろうに。奪ってきたものの重さを思えば、自分はなんと恵まれた最期を過ごすことができているかと思わずにはいられない。
「望美ちゃん、ごめんね。九郎たちのこと、心配でしょ。
急がせているから、もうちょっと待ってて」
こくり、と望美は頷きながらも探るように景時の表情を見上げてくる。
「……九郎さんも、ですけど……でも私が心配なのは、景時さんです……」
「オレ? どうして〜? オレは大丈夫だよ。あ、九郎とやりあっちゃったから? 心配ないよ〜そんなのしょっちゅうだしさ」
殊更大げさに両手を振って、景時は望美に向かって情けなさげな様子を見せた。残してあげられるものが何一つないから、本当だったら彼女にこそ、愛想を尽かせられるように振舞うべきだと思うのに。引き寄せることも、突き放すことも結局、できなかった。どんなに情けない様子を見せても、望美は景時を心配こそすれ、呆れたりはしなかった。それが嬉しくて心地よくて、冷たくすることもできなくて、甘えて。
(やっぱりオレって最期まで情けないね)
でもおかげで多分、幸せだったと思って死ねるかなあ、などと考えていて。やっぱり自分勝手でごめんね、と内心で謝る。
探るような望美の視線が景時をじっと見つめていて、それに対して景時はいつものように笑顔を返す。迷いがないからそれは全く難しいことではなかった。つられたように、望美も少し困ったような顔をして、そして笑顔になった。どんなに上手に心を隠しても、いつも敏感に景時の中の怖れや躊躇いに気付いてきた少女は、今もやっぱり何かを感じ取ろうとしていたけれど、それは景時にとって幸いなことに上手くいっていないようだった。今までは、景時の中に迷いや恐れがあったから。けれど、今はもう景時にはそのどちらもない。心に曇りもない。だから、きっと望美にも景時の心は読めない、はずだ。景時の様子に安心したのか、ほっとしたように微笑む望美を景時は見つめて唇を緩めた。
(そう、笑っていてくれると、嬉しいな)
いつからだったか、彼女の笑顔に力づけられるようになった。彼女の笑顔を見ていたいと思った。彼女の笑顔を護りたいと願うようになった。一瞬のことだったけれど、自分にもそんな力があると錯覚したこともあった。叶うはずのない夢でも、一瞬の夢でも、夢を見ている間は十分に幸せだった。過ぎた夢だった。
「梶原様〜! 逆艪の取り付けが終わりました!」
その声に、はっと景時は顔を上げる。息せき切って告げる兵は、そわそわと景時の命令を待っている。景時の命令に従っているものの、皆早く出航したいのだ。逆艪を取り付ける間も待ちきれずに今か今かと苛立っていた様子を景時も知っている。
「よし、皆、船に乗り込め! 九郎たちが待っているぞ、急げ!」
待ちかねていた兵たちはその命令に、声を挙げて意気高く船に乗り込む。兵たちの待たされていた苛立ちが高揚感へと変わっていくのがわかる。兵たちを見つめる景時の手を、後ろから望美がそっと握った。ささやかな温もりはどこまでも優しくて、胸が痛くなった。その手を離す勇気がなくて、景時は振り向いて言う。
「じゃあ、行こうか、望美ちゃん」
屋島の戦場は景時を欠いた上に平家の必死の反撃に源氏は混乱を極めていた。敗色の濃い戦に、景時の軍が加わってもこのままこの場で軍を立て直すのは難しく思われた。意気高かった景時の連れてきた軍勢も、あまりのことに浮き足立っている。敗走する兵をまとめるのが精一杯の様子の九郎たちに景時は唇を噛んだ。
「ごめん、オレが遅くなったせいで……」
しかし九郎は首を横に振った。もし景時の軍が最初からともにあったとしても、今のこの情勢は多少源氏に有利になっていたかもしれないが、勝てたかどうかはわからないだろう。むしろ、今となっては無傷の軍勢が残っていることの方がありがたい。
「いや、俺が功を逸ったばかりに……景時のせいではない」
九郎はこの苦境が随分と痛手だったらしく、常の強気な言葉が口をついて出てこない。景時は冷静に味方の船団を見渡した。事態は一刻を争う。今は新しい軍勢の登場に平家も様子を見ているが、じきにまた攻撃が始まるだろう。次の一手を十分に考える猶予はなかった。不思議なほどに冷静な自分に、景時は自分でも驚く。逆艪は早速、その役割を果たしてくれるだろう。九郎が率いていた兵たちも逆艪のついた船になんとか全員が乗り込めるはずだ。逆艪のついた船ならばそう時間をかけずに沖へと出ることができる。……ほんの少し、平家を足止めすることができれば。
すぐに心は決まった。鎌倉から戻ってからずっと時期を待っていた。とうとう来たか、というか、やっと来たか、というか、不思議な感慨が胸の中に広がった。
(……うん、オレなんかが死ぬにしては、あんまりにも上出来すぎるんじゃないかな?)
裏切り者の死に場所としては、あまりにも恵まれすぎている気がする。味方が逃げるための時間を稼ぐなんて。それともあるいは、これまで命を奪ってきた人たちの分、せめて死ぬときくらいは誰かの命を救えということかもしれない。それも皮肉な話だけれど。
何もかもが、そうと決まっていたことであるかのように景時にはすっきりとして見えた。例えば自分がどうしても逆艪が必要だと感じたことや、九郎が珍しく功を焦って戦を始めたことや。まるでこのために決められていたかのようで、とても納得できた。そして、こんな死に場所を用意してくれた何者か……神か、あるいは運命か……に感謝したい気にさえなった。
「……オレね、この戦は捨てるべきなんじゃないかと思うんだ――」
景時は、確かな意志をもって口を開いた。それは軍奉行としての冷静な判断にのっとってのものであると同時に、景時自身が決めた、幕引きの始まりでもあった。
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