夜明け前




先に鎌倉へ向かった源氏軍の後を追って、景時と望美は陸路を急いだ。瀬戸内を海路で進んだであろう源氏軍に追いつくことは無理だと思われたし、望美がいることを見つかるわけにはいかない。それでも仲間のことが心配で気ばかりが焦る望美を安心させるように景時は言った。
「オレが戻るまでは九郎たちの処分も決まらないと思うんだよね。
 ほら、オレが軍奉行だったから、オレからの報告がないとね、建前上は」
たとえ結論ありきであっても、御家人たちを納得させるためには形式上だけでも軍議の上で処遇を定めなくてはならない。そのためには景時からの『九郎義経の鎌倉殿への叛意』の報告が必要だ。
「景時さん、ごめんなさい。私がいなかったら多分、もっと早く先へ進めるのに」
こちらの世界に来て旅に慣れたとはいえ、望美の足は景時には及ばない。馬にも乗れない。景時一人であればおそらく馬を駆けてもっと速く鎌倉へ向かうことが可能だろう。
「大丈夫だよ、オレが騎馬が下手なのは頼朝様もご存知だからね〜。
 下手なところを馬の良さで補っているんだよねえ。だから磨墨以外の馬しかいなけりゃ同じだよ」
時に宿場で馬を借りて二人で乗り継ぎながらも景時がそう言う。望美に心配をかけまいとの言葉なのはわかりきっていて、実際には景時もまた、ぎりぎりの計算の上で道を行っているのは望美にもわかった。時折、街道を離れて脇道を急ぐのは道を急ぐためだろう。そのときは歩きにくい道をごめんね、とすまなそうに言うのが望美にはもどかしい。ずっと景時は望美の手をぎゅっと握り締めていたけれど、時折望美を励ますように軽口を叩く以外は、言葉少なくなっているのも望美は気付いていた。鎌倉へ先を急いで、仲間を助けなくてはと思っているけれど、景時も望美も良い考えが浮かばない。それが更に焦りを生んでいるのが良くわかった。
先を急ぐ気持ちから夜も旅を続けたいという望美を景時は窘める。
「駄目だよ、今はいいかもしれないけれど後で疲れが出ると困るでしょ。
 皆を助けるためには、体力を残しておかなくちゃね。だから、休むべきときにはちゃんと休まないと」
本当は景時も逸る気持ちを抑えているだろうに、望美を安心させようとすることを第一に考える言葉と態度に望美は自分も、もっと先を見なければと心を落ち着かせる。今もまだ、景時は望美のことを庇ってくれている。望美は今もまだ景時に護ってもらっている存在だ。それでは駄目だと思ったのだ。仲間を助けるためには、自分も景時を支え、二人で一緒に事に臨まなくてはならない。自分が先に進む足手まといになると考えるのは止めた。出来る限りをお互いに尽くすだけだ。そして、二人なら、きっと仲間を助けることも成し遂げることができる。

宿で部屋に通された後、褥を並べて眠りにつく。間に几帳を立てようかと景時が言うのを、望美が嫌がった。景時と隔てられるのが嫌だったのだ。景時が困るかと少し考えたが、景時は何も言わずに望美の願うままにしてくれた。明くる日に備えて、早々に灯火を消し褥に入るが、望美はなかなか寝付けなかった。この先のこと、仲間のことを思うと緊張ばかりが募っていく。景時には気付かれまいと小さく寝返りを繰り返したりしていたのだが、眠っていたと思われた景時が声をかけてきた。
「……望美ちゃん、眠れない?」
「……ごめんなさい、起こしてしまいましたか」
「いや、オレもなんだか寝付けなくてさ」
望美は少し安心したように、景時の方を向いた。暗くて景時を象る影しかわからなかったけれど、それで十分だった。すっと景時の腕が望美に向かって伸ばされる。
「手、つなごうか。ちょっとは落ち着くかも」
どきり、と望美の鼓動が高鳴る。おずおずとではあったけれど望美も手を伸ばし、そっと景時の手に重ねた。温かい温もりが伝わってきて、緊張が解けていくのを感じる。
「……オレの初めての旅は陰陽師の修行のために京へ行くときでさ……」
徐に景時がそう話し始めて、望美は景時の顔のあるあたりを見つめた。影ばかりでその表情は見えないけれど、声音はしごく静かなものだった。
「自分が武士としては父の眼鏡に適わなかったってことと、知ってる人もいない京へ行くことの怖れとか
 なんだかもう、この世の終わりが近づいてくるような気分になっていたなあ」
望美の緊張をほぐすためにそんな話をしてくれているのだと感じて、望美はそっと景時の手を握り返すと大人しく話を聞いていた。
「初めて訪れた京の都はさ、東国と違っててびっくりしたよ。安倍家のお師匠の邸は大きかったしね、知ってる人もいなくて。
 東国の田舎者って陰口叩かれたりしてさあ、だからって暗い顔してても余計に扱いが悪くなるだけだし
 気にしないようにしてね、笑ってやりすごしてたなー。でもオレ失敗ばっかだったから仕方なかったかもね」
「そんなことないですよ、そういうのって許せないです、私」
つい、勢いよくそう言ってしまう望美に、景時が少し驚いたように言葉を止めて、それから小さく「ありがとう」と言った。
「……でもまあ、修行がつらくって良くさぼったりしたし、自業自得なんだけどね〜
 よく怒られたよ、師匠にさあ。「穴の空いた器のようだ」なんて言われちゃったりして。
 教えても教えてもすぐにこぼれるってことだよねえ」
「……限界がないってことなんじゃないんですか。
 穴の空いた器かと思うくらい、どれだけ教えてもいっぱいにならない、
 限界がこない、ってことですよ」
「……そんな風に考えてくれるの、望美ちゃんくらいだよ」
「絶対そうです、だって景時さん、すごい術がかけられるじゃないですか」
「だといいんだけどねえ〜」
少し面白そうに景時が笑う声がして、望美はなんだか少しほっとした。それからしばらくしてしみじみと景時が言う。
「……でもさ、今となってはオレ陰陽術を学んでおいて良かったよ。
 それにねえ、師匠のところでいろんな珍しいものを見せてもらったのも、
 きっと発明に役立ってるんだろうと思うし……ってこれは朔が聞いたら顔を顰めそうだけどね」
そんなことを話しているうちに、やがて望美も気持ちがほぐれてきて、そんな望美の手が眠気で温まるのを察して景時も話を止め、望美はゆっくり眠りに落ちていった。
 明くる日もその次の日もまたその次の日も。そんな調子で景時が様々に望美の知らない過去のことを話してくれて、最初は望美は自分の気を紛らわすために景時がそんな話をしてくれているのかと思っていたのだが、やがて、そうではないと思うようになってきた。景時は、望美に聞いて欲しいのだと感じたのだ。まるでもう一度自分の人生をたどっているかのように淡々と語り続ける景時のそれが、どこか懺悔のようだと思ったのは、京での話を終えて東国に戻ってきた話を景時がしたときからだった。
「父上が病気でもう亡くなるというときになって、呼び戻されて。
 それまでも師匠から休みはもらってたりしたんだけど、陰陽術もたいして上達してなかったから
 あわす顔がなくてこっちに戻ってきたこと、なかったんだよね。
 結局、陰陽術も中途半端なままで。父上を前にしてオレはどれだけ親不孝なんだろうって。
 何一つ、父上の望みを果たすことができなかった。武士として立つこともなく、陰陽術も修められず」
「……どうしてですか。源氏の軍奉行なんて、立派じゃないですか」
「実力で手にしたものならね」
そんな言葉すらも景時は淡々と話した。
「……何一つ父上の願いを果たせなかったオレだけれど、梶原の家だけは守り通さなくてはと思ったよ。せめて、それくらいは、って。
 だから、頼朝様が伊豆で兵をお挙げになって平家が追討の命を出したとき、
 平家側についたのは当然のことだったんだ。強い方に付く、それが家を守ることだから」
頼朝の名前を聞いて望美の方がびくりと震える。その人物が景時にとって持つ意味は支配者でしかないと思っていたからだ。だからその後に続く景時の言葉は望美には少し意外だった。
「オレはね、でも、頼朝様に同情してた。長く流浪の身で、父の無念を晴らすべく兵を挙げたとしても
 平家の勢いの前には負けることがわかりきっているのに、ってね」
景時が頼朝をそんな風に思っていたことは意外だった。景時の表情を見たくて一生懸命に目を凝らすけれど、やはり影になって望美からは何も見えない。
「石橋山に頼朝様を追ったときも、だから本当は逃げ延びて欲しいと思っていた。
 いや、オレだけじゃない、きっと他の御家人たちも、今頼朝様の下にいる者たちは皆似たようなことを考えていたと思う」
「……どうして、ですか」
怨霊を生み出す平家が正しいとは思わない。けれど頼朝もまた苛烈な主君で、兵たちに慕われる相手ではないと望美には思える。九郎は肉親である兄への想いが強いのだろうとは理解できたけれど、景時は、ただ恐怖心から彼に従っていたのではないのかと、そう思っていた。
「……東国はね、ずっと貧しかった。オレの家はもともと平家だって言うけれど、それだって生きて行くためなんだよ。
 東国ではね、どれだけ土地を持って米を育てても殆どを京に納めなくちゃいけないんだ。
 それを少しでも減らすためには、平家と結びつくのが一番だった。
 でも、本当はもうずっと、皆、京の支配から逃れたかった。京からきた役人に嘲りを受けて頭を下げるのに皆嫌気がさしていたんだよ」
「……だから、景時さんは、頼朝さんを助けたんですか?」
「違う、それは違うよ。オレは本当に、頼朝さまを助けたりなんかしていない。する必要もなかった。
 オレは頼朝さまに逃げてほしかったけれど、でも、だからって、人が死ぬのを見たかったわけじゃない……」
ぎゅっと望美の手を握る景時の手に力がこもった。
「……紅い、川が流れていた。土の上を紅い川が流れてた。
 その先でオレが見たのは、見たのは……」
「景時さんっ……」
淡々とした声が、その実、感情を抑えているものなのだと気付いたのはそのときだった。抑えなければ思い出すのも苦しいことがあるのだと望美はわかったのだ。それでも景時は、望美に本当のことをすべて話してしまいたいのだと感じて、ぎゅっと彼の手を握って望美はそれを聞いていた。彼が、何を目にし、何に恐怖し、何を後悔してきたのか。
「……オレは、きっと、そのとき、言っちゃいけなかったんだ。
 生きていたい、と言っちゃいけなかったんだ」
彼が見た紅い川……人の血で出来た紅い川。彼が見たものがどれほどに残酷な光景だったか、望美には想像もできない。けれど、そんなものを目の前にして、残酷な死を目の前にして、誰が同じ運命を受け入れられるというのだろう。生きていたいと願うことは、そんなに罪なことなのか。違うと望美は思う。
「……生きていたいと言ってくれたから、私は、景時さんと会えたんです。
 景時さんは、そこで生きていたいと言ったから、お父さんから受け継いだ家も、家族も、護れたんでしょう?」
それが景時にとって、逃れることのできない苦しみの始まりだったとしても。後悔と懺悔の日々の始まりだったとしても。死ぬことで逃れて欲しくはない、生きて囚われの鎖から放たれて欲しい。
「……ごめんね、望美ちゃん」
その夜、景時はそう言った。景時自身もきっと、自分が何のためにそんな話をしているのか心が定まらなかったに違いない。
「……謝らないでください、景時さん。
 私、景時さんのことを、もっと知りたい。……そう言っても、いいですよね?」
「……オレのことを、信じられなく、なるかもしれないよ」
「なりません。景時さんは、だって、ずっと、私のことを護ってくれたじゃないですか」
「……でも、オレは、オレを大切にしてくれた人だって、裏切ってきた、酷い人間なんだ」
そう呟いた景時の、それが何のことを指すのかわかったのは、旅も終わりに近づいて鎌倉を目の前にした夜だった。
景時が頼朝の命令で暗殺を行ってきたということを、望美はもう知っていたけれど、それがどれほど残酷なことだったのかを知ったのはそのときが初めてだった。
その人の名前を微かに望美は聞いたことがあった。あれはまだ景時と出会って間もない頃、戦場でのことだった。源氏の兵たちが景時の噂をしていて、その中に出てきた名前が『上総介』だった。
「その人は大らかで豪胆で、東国に武士の都が出来ることを強く願っている人だった。
 頼朝様を助けたと言われているオレを、随分と歳も離れた若造だというのにそれでも良くしてくれた人だったよ。
 ……そんな風に扱われるのは、オレの実力故じゃないとわかっていて居心地が悪かったのに
 でも、オレは本当はどこか嬉しかった。オレは、その人を嫌いじゃなかった」
いつものように手を繋ぎながら、望美はいつもと違って景時の手が震えるのを抑えるように強く握られているのを感じていた。いつものように静かに淡々と語りながら、いつもよりずっと声が掠れそうになるのを堪えているようだった。
「……そんな人を、オレは殺したんだ。オレが、殺した」
それが、初めての暗殺だったのだという。自分に良くしてくれた人を、東国に武士の都をと語り合った人を、心を許したいと思った人を、殺せと命じられたのだという。そうやって、頼朝という人は景時を支配していったのだと望美は思った。彼から大切なものを奪っていった。そして朔や母親という唯一の拠り所だけは残しておいた。せめてそれだけはと彼が願うものだけは残しておいた。それ以外の大切なものはどんどん彼の手で壊させた。奪われていくうちに、唯一残る手の中のものを護りたいと思う気持ちはどんどん強くなる。それを利用して、より多くのものを彼に奪わせた。
ずっと握り締めていた望美の手を景時が不意に振り解く。そのまま身体を起こし、立てた膝の上に顔を埋め、背を丸めて蹲る。
「景時さんっ」
思わず望美も起き上がり、夜着も気にせずに景時ににじり寄りその背を抱きしめた。小さくその背が震えていた。
「もう、いいです。辛かったら、何も言わなくてもいいです」
彼の全てを知りたい、彼が何に傷ついてきたのかを知りたい、そしてその心をどれほどの時間がかかったとしても癒したい。けれど、それはもしかしたらとても傲慢な考えで、癒えることなどは有り得なくて、ただその傷を認めて痛みと共に生きることしかできないのかもしれない。
「オレはもう刀を持ちたくない。今もずっと覚えているんだ、握り締めた柄を上総介殿の血が濡らしていって
 強く握るオレの手が滑るんだ。深く刺した刃を抜こうとしても手が滑って力がはいらなくて
 骨を削るように刃がひっかかって上手く抜けなくて……
 上総介殿は、刀を抜いてオレを切る振りをした。なのに、オレは振り上げられた刀に、死にたくなくて……」
躊躇う景時に向かって上総介は刀を振り上げた。その刃を避けるために夢中で景時は刀を振り下ろした。
「景時さん、景時さんっ」
望美には、その人が何故景時に向かって刀を振り下ろさなかったのか、わかる気がした。屋島で遠ざかっていく背中を見送った、あのときの景時を思い出したのだ。
「……一緒に、鎌倉に武士の都が作られるのを見たい、って話したんでしょう?
 その人は、見て欲しかったんです、景時さんに。
 東国から始まる新しい時代を、景時さんに見て欲しかったんです」
景時を抱きしめる望美の腕を景時が強い力で握った。けれど、望美はそれを痛いと振りほどくこともせず、彼の髪に頬を埋めるように顔を寄せる。生き抜くことがこんなにも難しい時代にあって、それでも誰もが生きていたいと願い、大切な人に生きて欲しいと願う。たとえ何を犠牲にしてもと強く思う。その思いを抱くことに望美と景時と違いがあるだろうか、或いは他の誰かとさえ違いはあるだろうか。
「その人は、景時さんに、生きて欲しかったんです。死にたくないと、思って欲しかったんです」
その言葉を聞いた景時が不意に望美を抱きしめる。その勢いにバランスが崩れて、望美も景時も褥に倒れこむ。夜着が乱れて素肌の熱さを感じながらも、そこに艶めいた色は何もなかった。望美の肩に顔を埋め抱きしめてくる景時の身体の重さを抱きとめて、望美はその背に精一杯腕を回した。
「……ごめんね、望美ちゃん、でも、もう少しだけ、このままで、いて」
その人を、思い出しているんですか。そう尋ねたくて、けれど止めた。多分、望美が考えている通りなのだろうと思ったから。

夜明け前の闇が最も深いのだとしたら、きっと、もうすぐ、夜明けがやってくる。




鎌倉への旅の途中。
艶っぽい展開があってもいいなあ〜とか思ったりもしましたが
望美が景時をより深く知る旅路だったんじゃないかとも思ったり。
だからこそ、鎌倉に着いた後も信じあえる二人だったのだ、ってな感じで。


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