「早く熊野に着かないかなあ?」
朔は、もう何度目かになる望美の言葉に思わず笑みを零した。熊野行きが決まったときから、望美は随分と積極的に旅の準備を進めて、出立が待ちきれない様子だった。いざ旅に出てからも、何処かはしゃいだ様子なのに、本人にはその自覚がないらしい。
今回の旅は身分を隠しての旅で、望美と朔、そして白龍以外は八葉の面々だけである。その八葉も未だ全員が揃ったわけではない。しかし、軍を引き連れての戦のための旅ではないことが、きっと望美の心を浮き立たせているのだろうと朔は考えていた。朔自身も、そんな望美を見ていると心が浮き立ってくるような気がした。長く続く戦は、無意識の間にも人々の心を荒ませていく。それは京の町に住む人々もそうだし、源氏軍の者たちもそうだ。朔自身も、京の町では、自邸にいたとしても常に何処かで気を張っていたのだと思う。もちろん、この旅路もけして安全なものではない。軍を束ねる大将たちが実は揃って京を離れているということが平家に漏れれば、熊野へ行っている間に肝心の京を平家に取り戻されるかもしれない。あるいは、隠している身分が明らかになってしまえば、少人数の旅路の間に襲われることがあるかもしれない。けして、気を緩めて良い旅ではなかった。それでも、心やすい人々と一緒の旅は、つい気持ちがほぐれてしまうのは否めない。
それは誰しも同じことらしく、いつも鹿爪らしい顔をしている九郎でさえも、表情が綻んでいる。景時に言わせれば、本来の九郎は明るく無邪気な方であり、何時も難しい顔をしているのは兄・頼朝からの任に応えようと人一倍に思っているからだということらしい。兄への尊敬と、強い責任感、大将としての重責が彼をそうしているのだ、と言う兄に、朔はつい、兄にもその何分の一かで良いのでそうした責任感と将としての自覚があれば、と溜息をついてしまうのだった。もちろん、景時はそんな朔の思いを表情から察して苦笑してみせたけれど、それで朔が納得できるはずもない。今も、この旅路において、一番あれこれと零しているのは景時だった。
(熊野行きの話を望美に告げた時は、兄上も随分と楽しみにしていたようなのに……
実際に歩いてみると面倒くさいなんて思っていらっしゃるのかしら、情けないったら……)
ついつい、溜息がこぼれてしまう。それに気付いた望美が朔に声をかけた。
「どうしたの? 朔、疲れちゃった?」
そう言う望美は足も軽やかだ。鎌倉から京まで旅してきた朔と異なり、熊野までのような長い旅は望美は初めてのはずで、まだ旅も始まったばかりで疲れを知らないのだろう。無邪気なその様子に朔は笑いかけた。
「いいえ、大丈夫よ。望美はどう? 熊野は遠いから無理せずに疲れたら言うのよ?」
一行の中で女性である朔と望美、そして少年である白龍を真ん中に、前を九郎、景時、弁慶、後ろを譲、リズヴァーン、敦盛が歩いていた。一応は、足の弱い者を間にして配慮しているつもりなのだろうが、九郎の足はそうとも思えず、先を急いでいた。今はまだ良いものの、この調子で熊野まで行けば、疲れが後になるほど溜まるのではないか、特に旅慣れない望美のことを朔は心配したのである。しかし、望美はというと全く平気な様子で、楽しくて仕方ないとでも言うように軽く駆け足になって朔を振り向いてみせた。
「平気平気! もう、すっごく楽しいし楽しみだし」
「遊びじゃないんだぞ! あんまりはしゃぐんじゃない!」
途端に前を歩く九郎が振り向いてそう声を挙げる。
「まあまあ、九郎ってば〜いいじゃない、楽しいよ、お天気も良くってさ、皆で一緒でさ〜」
「そうですよ、九郎、旅には余裕も必要ですよ」
景時と弁慶がそんな風にとりなしたが、望美はそのまま前を向いてしまった九郎に向かってあかんべーとばかりに舌を出してみせた。
「望美ったら……!」
小さい声で朔が窘めると、望美は決まり悪そうに笑ってみせる。こっそり後ろを伺っていたらしい景時が小さく振り向いてそんな望美を見て微笑むのが朔に見えた。
景時が望美を気に入っているのは朔も良くわかっていた。というよりも、九郎も弁慶も、八葉と呼ばれる者たち全て、そして源氏軍の者たちも「白龍の神子」「源氏の神子」と呼ばれる望美を形は様々であれ気に入っているだろう。その剣の腕は九郎も認めるところであり、同じくリズヴァーンを師とする兄弟子として、兄のような気分になっているように感じる。弁慶もまた白龍の神子という存在に興味があるようだ。元の世界で幼なじみだったという譲は、望美を護ろうと精一杯奮闘しているように見えるし、リズヴァーンにせよ、敦盛にせよ神子への敬意と信頼を強く感じる。
そして、朔の兄の景時もまた、望美をとても気に入っているようだった。八葉の主としての神子に敬意を持っている、というわけではないようだと感じるのは朔の気のせいではないだろう。そうした想いがまるきりない、とは言わないがもっと単純に、ただ気に入っているように見える。元々他人には良い顔をする性質で特に女子どもには嫌な顔を見せることが少ない兄のこと、朔と同じ年頃の望美をもう一人の妹のように感じているのだろうかと思っていた。しかし、かける言葉は同じように聞こえても、その表情は朔に対するものと望美に対するものと違う気がするのだ。
もちろん、本当の兄妹ではないのだから当然といえば当然かもしれない。しかし、景時が望美を見つめるその表情を、朔は何処か誰かに見たような気がするのだった。そう、あんな表情で自分を見つめてくれていた存在が、かつてあったと。
九郎にはしゃぎすぎを窘められた望美は大人しく歩いているようでいて、何やらその足は相変わらず軽い。真面目に歩いているようでいて、俯き加減のその顔が何かを追っているのに気付いた朔は、やがて望美が何をしているのかわかって、思わず笑みを零した。
望美は前を歩く3人……九郎、景時、弁慶の影をまるで影踏みのように追い掛けて歩いているのだ。戦に出たときにはあんなにも凛として力強く前を見つめる望美のこんな風に時折見せる幼さが朔にはとても好ましいものに思えた。そして、それを失って欲しくないと思っていた。自分は、辛い恋の終わりと共に、大人になることを余儀なくされて、もうそんな風に無邪気に何かを楽しむということが出来ないような気がしているから。
そんな風に、自分の叶えられなかった望みを彼女に託すことは、本当は間違っているのかもしれないと思いもするが、しかし、一人の友人として望美には幸せになって欲しいと願う気持ちは真実でもある。
望美の影踏み遊びは、白龍も巻き込み、二人は楽しげにえいえい、と前を歩く3人の影の上を歩いていた。その様子を朔も眺めていて、そして、ふと気付いた。
――望美がずっと同じ影を踏んでいることに。
白龍は3人の影を順々に楽しげに踏み歩く。望美はまるで影ではなくてその人を見つめているかのように、ずっと同じ人の影の後を付いていっていた。そして、その影の主を見たとき、朔の中で、ああ、そうなのだ、と何か霧が晴れるように明らかになるものがあった。
望美が追いかける影の主、それは景時だった。
楽しげに、望美はその影を追いかけている。そして、景時はそれを知っているのか、時々まるで望美の足元から影が逃げるかのように、九郎と弁慶の間を行き来してみせていた。とても自然に、二人と話をしながら歩いているその様子は、望美が景時の影を追いかけているのとはまるで無関係のようにも見えたけれど、朔にはそう思えなかった。
景時と望美と、二人だけで確かに、遊んでいるのだとわかったのだ。そして、それは無邪気な子どもっぽい遊びでありながらも、二人の繋がりを感じさせるに十分なものなのだと朔には感じられた。追いかける望美には……無邪気に自分の行動で明らかにしてみせている望美には、まだその自覚がないのかもしれない。そんな望美に応えている景時だって、同じように何も自覚していないのかもしれない。けれど、確かに二人の間には他とは違う空気があるのだと朔にはわかった。
そして、それを感じた朔はただ、良かった、と思ったのだ。望美がこちらの世界で誰かに支えて欲しいと願い、誰かに恋をすることがあったならそれを自分は応援すると言った。その相手が誰であれ、望美の味方でいようと思った。そのときは、その相手について特に誰をと思ったわけではない。
けれど、今こうして自分の兄と望美を見ていると、良かった、と思えるのだ。自分が良く知っている兄を望美が想ってくれることが素直に嬉しいと感じられた。
頼りないと感じずにはいられない兄ではあったけれど、それでも朔にとっては優しい兄であることには間違いがない。そして、頼りないと感じずにいられなくとも、実際に梶原の家を守っているのは確かに景時なのだった。本来、気が優しくて武士であることに引け目を感じている兄にとって、当主としての役割は大変に重いと感じられるものであろう。面倒なことからは逃げ出すと本人でさえも、冗談のように常日頃言って憚らないのに、本当はいつもぎりぎりのところで逃げ出せずにいる兄の嘘が時々、朔にはもどかしい。
自分が兄の枷のひとつであるのは間違いがないのも、そう感じる原因のひとつだろう。自分はどうあっても、兄にとっては『守るべきもの』にしか成り得ない。だからこそ、ぎりぎりのところにいる兄を支えてくれる誰かがいてくれればと、思うことも多かったのだ。もし、それが望美であってくれるなら、これ以上に嬉しいことは朔にはなかった。
とはいえ、望美の様子を見た感じでは、お互いにまだ何かがあるとは言えないようで、朔としては見守る以外には何もできない。それほどにまだ幼い、恋と呼ぶのさえまだ早いような、そんなささやかなものに思える。それでも、どうかこの二人の行く末が幸せなものであってくれればと思わずにはいられない。
景時も望美も本来であれば、戦など似合う者ではないであろうに、まだまだこれから死地に赴くことが続くのだろう。それを思うと、自分の恋のような辛いものには成って欲しくないと本当に強く願わずにはいられないのだ。芽生えたばかりのものが、このまま育って幸せな花を咲かせてくれるように、と。
「望美、楽しい?」
なんとなく、そんな風に尋ねてしまう。影を追っていた望美はぱっと顔を上げると、笑顔で答えた。
「もちろん! みんな一緒で、お天気良くて! 楽しいよ。熊野で頑張らなくちゃね!
朔は? 楽しくない?」
少し心配そうな顔でそう問い返してくる。朔は首を横に振った。
「いいえ、そんなことないわ。
……そうね、ええ、楽しいわ。それに、これからのことも、とても楽しみ」
自分を確かめるように少しだけ考えて、朔はそう答えた。不安はないとは言えないけれど、何故か、望美ならきっと大丈夫だと信じることができた。だから、そう言えた。思いを込めてそう微笑んだ朔に、望美は何も知らぬままに、けれど嬉しげに頷く。
「きっとね、いいことあるよ! みんなで頑張ればね!」
そうやって二人顔を見合わせ歩いていると先を歩いていた景時が立ち止まって待っていた。仲良く並ぶ二人の間に入って二人の顔を覗き込むようにして景時が言う。
「ねー、疲れちゃわないかい?
もう、朝からどれだけ歩いたかなあ〜、ほーんと、熊野って遠いよねー」
脳天気な兄の言葉に、せっかくの朔の気分が台無しになってしまう。しかし、そんなことにはとんと気付かない景時が更に言葉を続ける。
「九郎ったらさー、休みなしで昼まで歩くって言うんだよ〜
やっぱり一度くらいは休憩入れるべきだよねえ?」
やれやれ、というように首を振る景時に、前から九郎が声を挙げる。
「景時! 朔や望美や白龍を味方につけようなんて情けないぞ!」
「もう、兄上ったら……私や望美だってまだ大丈夫ですわよ!
男の兄上が何を情けないことおっしゃってるんですか!
本当に恥ずかしいったら……」
ついつい、朔も声を荒げてしまうのに、景時は少しばかり不満げに肩を竦める。
「えー、ほんとに? 望美ちゃんも? 大丈夫なの〜? 白龍も?」
望美も白龍も笑いながら頷く。
「お昼くらいまでなら、まだ大丈夫ですよ」
「ほら! 兄上ったら、この中で兄上が一番だらしないなんて、情けないですわよ!」
「何言ってんの、オレは先々を心配して言ってるんだよ」
「どうかしら」
「は〜〜〜、朔は厳しいねえ〜、ねえ、望美ちゃん?」
助けを求めるように望美にそう言う景時に、朔は
「もう! 望美に助けを求めるなんて……」
と、つい小言が口を出てしまう。こんなに情けない様を見せてしまう兄を、本当に望美は気にかけていてくれるのだろうか、あるいは愛想を尽かしてしまうなんてこともあるのではないかというような心配が湧き上がってきて、つい、必要以上に厳しく声を挙げてしまったのだ。
妹の小言に景時は
「はいはい〜昼までじゃあもう一頑張り、二頑張り、さくさくっと歩くとしようかね」
と相変わらず軽い調子で言うと、再び九郎たちの元へと戻って行った。その後ろ姿を見て、朔は小さく「本当にもう……」と何度も呟く。そんな朔に向かって、望美が笑いながら言う。
「朔ったら……景時さん、心配して来てくれたのに」
意外な望美の言葉に、朔は驚いて、望美の顔を見つめた。そんな朔を、それこそ意外そうに望美が見つめ返す。
「私や朔や白龍が疲れてるんじゃないかって、心配して来てくれたんだよ?
足手まといだって思わないように、自分が疲れちゃった〜って振りしてさ。
景時さんって、そういうことが出来る人なんだって、朔ならわかってるでしょ?」
ああ、望美はそうだった、と思わず微笑みが零れる。情けなく見える兄のその奥をちゃんと見てくれているのだと、嬉しかった。きっと、望美なら。
「ありがとう、望美。私の対が、あなたで、本当に良かったわ」
朔のその言葉に、望美はちょっと驚いたように目を瞬かせ、それからにこり、と笑って答えた。
「うん、私も! 私も、朔が黒龍の神子でいてくれて、とても嬉しいよ。
朔に会えて、こちらの世界の皆に会えて、良かったって思ってる。
――この世界に来て良かった、って」
それぞれの言葉の奥の深い想いを、微かに察しながらも深くは知らず、それでも二人は互いに微笑みあって並んで、どちらからともなく手を繋いで歩き始めたのだった。
END
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