踏み出す勇気




 熊野へ向かうときは、初夏の眩しい日差しと風が一行を迎えてくれていたのに、今や山は錦秋に包まれていた。結局、熊野水軍を説得することは叶わず、熊野は源氏側へ味方するという確証は得られなかった。ヒノエは個人的に望美たちと行動を共にしてくれるということにはなったものの、それはあくまで「ヒノエ」という個人の問題であり、そこに熊野の協力は期待できない。それでも十分ではあると思いつつも、今ひとつ望美の中には迷いがあった。将臣も吉野についた早々に別れてしまった。
 山の紅葉を愛でつつ京へ向けて歩く一行は、どこかのんびりしたように見えていたけれど九郎にせよ弁慶にせよ、景時にせよ源氏軍に身を置く者は次のことを既に考え初めていただろう。
「そろそろ休憩にしようよ。ここなら見晴らしもいいし紅葉も綺麗で絶好の休憩場所って感じじゃない?」
いつもの通り、景時の声で休憩が決まる。九郎は先を急ぎたい一心で、朔は兄がいつも休憩を言い出すのが少し恥ずかしい気がして、あまりいい顔はしないが、実際には皆疲れ始めている頃ではあるし、確かに見晴らしの良い辺りだったので異論は出なかった。大きめの岩や木の根元など、思い思いの場所に腰を降ろして一息つく。
 望美も見晴らしの良い場所に腰を降ろして、赤く染まった山々を眺めるともなく眺めながら、熊野を出てからずっと考えていることに再び頭を巡らせた。
 結局、源氏は熊野水軍を味方につけることは叶わなかった。これがどういうことか望美にはわからない。景時や弁慶は、味方にはならなかったけれど中立を約束させただけで十分な成果だ、と言う。しかし、本当にそれだけでいいのかが望美にはわからないのだ。
(……このまま先へ進んで大丈夫なの?……)
 無意識に胸元に手をやればそこには逆鱗がある。炎に包まれる京邸、あんな光景を二度と見たくなくてこの世界へ戻ってきた。これまでのところは、以前とは違うように未来は変わってきていると思う。しかし、本当にこのままで大丈夫なのかは、望美にもわからない。
(……もう一度、遡ってやり直したら、熊野を説得できたりするかもしれないの?)
どこから? もっと源氏の優位を決定づければいいのか? それなら三草山でもっと完璧な勝利を得れば良いのか? 繰り返してゆけば、いつかはそうなりえるのか? だが、もう一度やり直したら今度は上手くいく、というその保証も、もちろんない。そして、何よりも今、一緒にいる皆の記憶もなくなってしまうのだ。
(……私の我が儘かもしれないけれど)
 もし、もう一度戻るとしたら三草山からやり直すことになるかもしれない。そうしたら、それ以降、これまでの出来事は望美は覚えていたとしても、皆は何も知らないことになる。そして、その出来事は次でもまたもう一度起こるとは限らないのだ。
 例えば、三草山の前夜、景時と京邸の庭で一緒に月を眺めたこと。例えば、朔と二人、温泉で語り合ったこと。例えば、勝浦の海岸で、景時の発明の花火を皆で見上げたこと。その花火を見上げていた景時の笑顔。その後、二人で語り合ったこと。それら全てがなかったことになってしまうのだ。自分が覚えていても、景時も朔も何も知らない、皆も何も覚えていない……起こってすらいない出来事となるのだ。それらの出来事は、望美にとって大切なもので、自分だけが覚えていればそれでいいと思えるものではなかった。幻にしてしまっていいとは思えなかった。だから、皆の中にも思い出として残っている出来事を幻に変えてしまう、それが正しいとは思えなくて踏み出せなかったのだ。もう一度、やり直したら次はもっと違う道が拓けるかもしれない、と思いながらも。
「望美ちゃんの髪に紅葉、めっけ」
 ぼんやりとそんな考え事をしていた望美の傍にいつの間にか景時がやってきて、望美の髪から紅葉をつまみ上げた。
「景時さん」
見上げて笑いかける。景時は手にした紅葉を望美に差し出しながら問いかけた。
「どうかした? 今日はもう疲れちゃった? 随分と毎日歩き通しだものね」
 ああ、ぼんやりしていたから気にかけてくれたのだ、と望美はその優しさを嬉しく思う。差し出された紅葉を受け取って見つめる。もし、時間を遡れば、手の中にこの、景時が手渡してくれた紅葉は残るかもしれないけれど、景時は自分に紅葉を差し出してくれたことなど覚えていない。今与えてもらっている優しさも、なかったことになってしまう。それは、とても、寂しいことだと望美は感じた。
「……疲れた、わけじゃないんです。ただ、熊野の旅はこれで良かったのかなあ、って」
「どうして? 望美ちゃんは十分良くやってくれたし、ヒノエくんだって仲間になってくれたじゃない」
景時はそう言いながら、望美の隣に少し離れて腰を降ろした。優しく自分を見つめてくれるその瞳に少し頬が熱くなる。この人を守りたい。この気持ちを大切にしたい。今、歩んでいる道は、そのためにも正しい道だと言えるだろうか。
「だって、熊野水軍を源氏の味方にできなかったし……それってこれからどういう風に影響してくるんだろうって」
「そんなの! 中立でいてくれるってだけで十分なんだよ。
 頼朝様だって、運が良ければと思っていたはずさ。中立を取りつけたなら十分満足な結果だよ。
 それにさ、こうなった以上はくよくよしても仕方ない、次に出来ることをやるしかないよ。
 だって、熊野でも精一杯やれることはやったでしょ?
 その結果がこれってことは、どうやってもきっとこうなるってことじゃないかなあ」
「どんなに頑張っても、結果は変えられないってことですか?!」
 望美が顔を上げて何処か切羽詰まったようにそう言い放ったので、景時は驚いたような表情になる。望美は慌てて顔を伏せた。どんなに頑張っても最終的な結果は変えられないということなのかと思ってしまったのだ。
「そうじゃないよ。上手く言えないけどさ、熊野水軍を源氏側にって説得はできなかったけど
 中立の約束ができたってことは、あとは自分たち次第でいい結果も出せるってこと、でさ。
 そんなに悲観するほど悪い結果じゃないっていうことだよ。
 なんだって、そりゃあ一番いい結果が出せれば言うことないけどさ、
 高望みしだしたら限度がないでしょ? ここまででいい、っていう線をさ、ちゃんと持たないと。
 交渉事って案外こういうこと良くあるんだよ。欲を出したら全部失っちゃうことって多いんだ。
 だから、ここまでの条件なら成功、っていうように、欲張りすぎずに引き際を見極めることも大事なんだよ」
……欲を出したら全てを失うことにもなる
その言葉に望美は顔を上げた。
……高望みをしたら限度がない
それはまさしく今の望美に当てはまるような気がした。もし、今また逆鱗を使ってやり直したとして、何処までやれば自分は満足できるだろう。もしそれで熊野水軍を味方につけることができたとして、では次に何かあったらまた自分はそれもやり直すのだろうか。それは際限がなく、終わりのないことではないのだろうか。逆鱗は全てをかなえてくれる魔法の道具ではない。何度時間を遡ることができても、その中で自分が成し遂げることができることは、限られたことでしかない。できれば、使うことがないほうがきっといいのだ。自分ひとりがあるはずのない思い出を抱えて生きるのは、きっと寂しいことなのだから。
 今、必要なのは過去に戻るための一歩ではなくて、見えない未来を恐れずに進むための一歩だと望美は決意した。それでいいのだ、と。
「……景時さん、ありがとうございます!」
 すっきりした気分で望美はそう言った。景時は、急に元気になった望美の顔を不思議そうに見つめる。しかし、さっきまでの、どこか思いつめた表情とは変わった望美の様子に、安心したように笑顔になった。
「や、やだなあ〜、オレ、そんな望美ちゃんに御礼言われるようなこと、何もしてないのに」
照れたように殊更軽い調子でそういう景時に、望美は首を横に振った。
「景時さんは、いつも私に勇気をくれます。一歩を踏み出す勇気を」
 今度こそ、景時は驚いたような顔になった。言葉をなくしたような景時に望美は恥ずかしそうに笑顔を向ける。
「だから、やっぱり、ありがとうございます」
「……う、うん」
そんな望美の笑顔に景時は目を奪われて、ただ頷くしかできなかった。
「これ、大事にしますね。押し花みたいに紙に挟んでおいたら長持ちするかな」
望美はさきほど景時から手渡された紅葉を景時に見せてそう言った。はっと気を取り戻したような景時が懐から懐紙を取り出して望美に差し出す。
「ああ、えっと、そしたら、これ。そんな大切にしてくれるなんて、ちょっと感激しちゃうな」
 望美がその懐紙を受け取るとき、景時と手が触れ合う。びくりと震えたのは景時の方だった。一瞬、望美も動きが止まって景時をじっと見つめる。それから受け取った紙に紅葉を包むと、それをそっと大切そうに懐に仕舞いこんだ。景時はそれをただじっと見つめていた。
「そろそろ出発するぞ」
九郎の声がかかる。望美はその声にぱっと立ち上がると、
「行きましょうか、景時さん」
と声をかけてごく自然に景時の手をとった。促されるように景時も立ち上がり歩き出す。
「いつもと逆みたいですね」
そう望美が呟いて、景時が訝しげに望美を見つめる。
「ほら、いつも今まで、景時さんが手を引いてくれるばかりだったから、今、逆だなーって」
「あっ、あ、ご、ごめんっ」
自分が望美と手を繋いでいることにやっと気付いたように、景時は慌てて自らの手を望美の手から引き抜いた。頭の横に両手を上げて、降参したように望美を見る。望美はそんな景時を見上げて、可笑しそうに笑った。
「……別にいいのに。……っていうか、せっかくだったのになあ」
そして、それだけ言うとぱたぱたと景時の傍から駆け出していった。その背中を見送って景時は、望美と触れ合っていた手をもう一方の手でぎゅっと握り締めた。
 まるで触れ合うことが自然なように、繋がりあっていた手と手。それだけで胸が震える。しかし、それを認めるわけにはいかない。


「兄上、ほら、行きませんと」
後ろから朔に声をかけられ、景時は気付いたように歩き出す。九郎を先頭に一行は歩き出しており、先に駆けて行った望美は白龍と話しながら歩いている。その様子をちらりと見やって、景時は傍らの朔に視線を移した。こんなときに朔が自分から景時に語りかけてくるのは珍しいのだ。
「随分とご機嫌だね、朔?」
「うふふ……そうですわね」
 楽しげに朔が笑う。それを見て景時も目を細めた。最近、こんな風に笑う朔を良く見る。きっと望美のおかげなのだと思う。
「兄上も。……望美と仲がよろしいですわね?」
意味ありげにそう言って朔が景時を見上げる。
「……朔?」
並んで歩きながら景時は逆に朔に問いかけるように呼びかける。
「あら、私、別に責めているわけではありませんのよ? むしろ喜んでいるんですから。
 兄上のような方にも、望美みたいなしっかりした方がついてくれれば安心ですもの」
「朔!」
思った以上に強い声に、朔は景時を見上げた。照れくさくて話を止められたのかと思ったのに、景時の表情は苦しそうなもので、朔はそれ以上何も言えずに口をつぐむ。
「……朔、間違ってもそんなこと、言っちゃいけないよ」
静かに景時がそう言う。どう見ても思いあっているように見える仲むつまじい様子なのに、何故兄がそんなことを言うのか朔には理解できない。
「どうしてですの? 兄上だって、望美のこと……」
「朔、だから……ほら、望美ちゃんは大切な神子さまなんだし……」
「私だって、黒龍の神子でした。でも兄上は黒龍とのこと、何もおっしゃらなかったではありませんの」
「いや、だって、望美ちゃんはこの世界の人間じゃないし……」
「黒龍だってそうでした。それどころか、人ですらなかったです」
「…………」
黙ってしまった兄を朔は苛立ち半分に見上げる。望美を想っていないはずはないのだ。なのに、何故、躊躇うのかが朔にはわからない。何故、こんな思いつめたような表情で暗い顔をするのかがわからないのだ。望美に思いを伝え、応えてもらう自信がないのだろうか? いつも思う、優しい兄ではあるけれど今一歩の勇気に欠けるじれったさ。こんなときでさえ、そうなのかと思うと朔は溜息をついた。
「……朔、とにかく、めったなことを言うもんじゃ……」
「……兄上には、ほとほと呆れました」
言葉を続けようとした景時を遮るように、朔は言った。先ほどまでの嬉しげな表情はなりを潜め、怒ったような顔になっていた。
「あれこれ理由をつけてらっしゃるけれど、
 望美に対してそういう気持ちがないから、とはおっしゃいませんのね」
ぴしゃりとそういう朔に、景時はぐっと言葉を詰まらせる。痛いところを突かれたとでもいうような景時に、朔は
「兄上のいくじなし!」
そう言うと足を速めて景時より先へ歩き出した。溜息をつく景時を一度だけ振り向いて
「私は、どうなったって望美の味方ですから!」
と言い捨てると、そのまま望美の元まで歩いて行ってしまった。
 思わずもう一度深い溜息をついて立ち止まってしまった景時に、後ろから歩いてきた仲間がぶつかる。
「うわ、と……と、ごめん! ごめんね〜」
 振り向いて見ると、譲だった。随分と年下の同じく白虎の加護を受ける八葉は真面目なしっかり者で、景時にとっても頼もしい仲間だった。譲はそれが癖の眼鏡を中指で押し上げると、気にもとめていないように景時の横を通り過ぎようとした。そして擦違いざまに言う。
「……俺も朔の言うとおりだと思いますね」
 一瞬呆気にとられたように黙った景時だが、そのまますたすたと歩いていく譲の後に続くように自分も歩き出す。そして情けない様子で声をあげて笑った。
「は、ははは〜譲くんってば、冗談でしょ〜」
「俺だったら!」
吐き捨てるように譲は景時を振り向かずに言う。
「俺だったら迷ったりしません」
「……あ〜〜……うん。譲くんなら、そうだろうね」
「……それって、バカにしてるんですか」
「ああ、いや、そうじゃないよ、ごめん。そんなつもりじゃないんだ」
 はは、と情けなく景時は笑う。真っ直ぐなこの少年なら迷うことはないだろう。真っ直ぐに迷うことなく彼の思いは望美に向かっている。それは羨ましいくらいに。
「……オレなんかより、譲くんの方が、ずっと望美ちゃんに……」
「それが、バカにしてるって言うんです」
譲が立ち止まって景時を振り向く。
「俺だって、力ずくで好きな人を振り向かせることができるなら、そうしますよ。
 言われなくたって、そうする。自分の方を見るようにしてみせる。
 でも、俺だって、人の心は自分の思いどおりにはならないってことはわかるくらいには大人なんです」
 悔しげな苦しげな譲の表情に、景時も寂しげな顔になる。
「……うん、そうだね。ごめん、譲くんに、失礼なこと言って、ごめんね」
 自分が、譲に『望美ちゃんには君の方がふさわしい』などということは不遜なことに間違いない。彼の気持ちも、望美の気持ちもわかっていて、そう言うことは傲慢なことだ。そして、と思う。そして、自分だって、望美が自分以外の誰かを追いかけているのを見るのは、やはり辛いと思ってしまうだろう。望美が自分に向けてくれる想いを受け止める勇気も持ち合わせていないくせに。
 譲は溜息をついて、再び背をむけて歩き出す。景時も再び歩き出す。言葉を掛け合うこともなくしばらく黙ったまま歩き続け、しばらくして譲が口を開いた。
「……あなたが、もっと、嫌な人間だったら、と思いますよ。
 俺が嫌ったり、憎んだり、
 先輩を任せておけない、と思えるような人だったらいいのに、って」
顔を上げて景時は譲の背中を見つめる。大人びたしっかり者の少年の背は、実際は寂しげで年相応に見えた。
(……本当は、オレ、嫌な人間なんだよ。
 君にだって、望美ちゃんにだって軽蔑されるような人間なんだ)
 心の中ではそう思っても、それを口にする勇気はない。自分のしてきたことを知られることが怖い。見放されることが怖い。
(……勇気、か)
 切り捨てる勇気も、手に入れる勇気も持ち合わせていない。踏み出すべき一歩がわからず、ずっと立ち止まっている。

 それでもいつか、自分でさえも、歩き出す日がくるのだろうか。
 それは一体、どこへ至る一歩なのだろうか。





前半は望美、後半は景時で。
望美は景時から一歩を踏み出す勇気を貰うけれど
景時は望美を想えば想うほどに一歩を踏み出せなくなるのかなあと。
ずっと譲を出したかったのですが、出せなくて。
今回、やっと登場させられました。
さて熊野は今回で終了です、次は生田だー!



□ TOP □ 銀月館 □ 遙かなる時空の中で □