紅い川 1




 自分はどうやら、何をやっても上手くいかないらしいと気付いたのは、いつのころだったか覚えていない。気がついたときには、父は景時を見ては溜息をついていたような気がする。
 狩りに連れて行かれて、弓を射てみよと言われても、それができなかった。獲物から随分と離れた場所へ飛んでいった矢を見て、父は息子を武士としては大成せぬと諦めたようだった。景時が見当違いな方向へ放った矢に驚いて獲物は早々に逃げていき、その日の狩りに収穫はなかった。景時がわざと外したことを、父は気付いていたのかもしれない。
『お前のように弱い人間が息子とは父は無念だ』
そう呟いていた。景時のそれは優しさではなく、心根の弱さだと。
 武士たらんとする気概もなく、刀にも弓にも馴染まず、気がつけば庭の隅にて一心に何やら虫を眺めていたり、納戸の奥で古い書を読みふけっていたり、役にも立たない奇妙な道具を作ることに夢中になっている景時を父はどうすべきかずっと思い悩んでいたことだろう。
 一家の行く末はまた、梶原の家だけの問題ではない。領地を治める立場として自らの郎党たち全ての行く末を担うものだからだ。
 武芸が期待できぬなら、その森羅万象に興味を注ぎ怪しげな道具を作る息子には陰陽道が向いているのではないかと、武芸に匹敵する力を得るためには、そちらの方が良いのではないかと考えたのはそれでも親心だったのかもしれない。
 幼いうちに京へと修行へ出されてしまう自分を、しかし景時は『親から見捨てられた』ように感じた。武家の一族としてものの役に立たぬ人間だからなのだと思った。
 京での暮らしはけして楽しいものではなかった。
 京の人間は元々から坂東の田舎者には冷たかったし、ひ弱な子どもを守ってくれる者はいなかった。いくら厳しくとも梶原の庄にいる限りはそれでも自分は梶原家の人間として守られていたのだと思ったのは陰陽道の修行を始めて間もない頃だ。
 師匠は厳しい人ではあったけれど、それでも弟子には公平な人であった。しかし、兄弟子の中には景時を田舎武者の子と蔑む者もいた。
 それに対して発奮し相手とやり合う気概が在れば、父も景時を褒めたかもしれない。しかし、景時はそんな兄弟子からの誹りも聞こえない振り、意味がわからない振りでへらへらと笑ってやりすごした。
 いちいち反抗して痛い目を見るのは馬鹿馬鹿しい、自分が田舎者ぶりを体現してお調子者ぶっていれば、それで兄弟子が満足するならそれで誰も痛い目を見ることもない。どうせ、自分は父からも疎まれた出来損ないの人間だ。そんな想いが何処かにあった。
 陰陽道の修行は毎日が勉強ばかりではあったけれど、同時に多くの未知の世界の扉を開いてもくれた。
 辛い勉強も兄弟子からの仕打ちも、師に許されて舶来の珍しい品が集まった部屋に入ることを許された時には全て忘れられた。その仕組みを調べ、時にはこっそりと分解して元に戻したこともある。
 一度、そうした珍しい品を目にしてしまうと、ずっとそれらのことを考え続けるために、その後の勉強に身が入らず怒られることも多々あった。
 いつまでたっても見習いに甘んじている景時に、師匠は何も言わなかったが、一度だけ兄弟子たちに向かって『景時という器には水をいくら注いでも溢れることがない』と言ったという。兄弟子たちは、その言葉を景時という器は出来損ないで穴が開いて居る故にいくら知識という水を注いだところでそれらを溜めることができぬのだ、と笑った。
 そういうものかもしれない、とその兄弟子の言葉さえも笑ってやりすごす景時に、やはり師匠は何も言わなかった。
 景時が京で陰陽道の修行を行っていたころ、既に平氏一族の栄華は並びないものとなっていた。武家でありながら公家のように雅やかであると言われた平家の公達たちは都でも評判で羨望の眼差しで見つめられていた。勿論、景時とは何ら重なるところのない遠い世界の人々の話である。
 景時が京へ送られると入れ違いくらいに、伊豆に源氏の御曹司が流されたという。それまでこの華やかな都に住まっていた人なら、田舎の何もない東の地で随分と退屈もするだろうし、心細い思いもするだろうと、幼いながらに同情したものだ。
 どこか遠い世界の煌びやかな平家の公達よりも、不幸な囚われの若君の方が、彼が住まうところが自分の故郷に近い土地だったせいか、親しみを感じることができた。
 父の病のために家へ戻ったとき、既に病床の父には死相が漂っていた。慌ただしく景時は家督を相続し、梶原家を背負ってたつことになる。
 陰陽師としても大成できなかったことを、病床の父に語ることはできなかった。何一つ、モノにすることができないと、父をこれ以上幻滅させられなかったのだ。
 知っていたのか知らなかったのか、ただ父は亡くなる前に『一族だけは何に代えてもも守るように』と景時に言い聞かせた。いきなり一族を肩に背負って立つことになった景時だが、頃は平氏全盛で平氏に従っていれば今の暮らしが良くなることもないかもしれないが、悪くもならないだろうと些か楽観していたのは本当だ。
 京から離れた坂東の地での暮らしは、京の雅とは縁のない素朴なもので、平家の公達たちに比べれば貧しく質素な生活を送っていた。けして平家の専横や都からの命令、政治に満足などしてはいなかったが、逆らう術もなかったのだ。
 そして景時は質素な暮らしであれ、平穏に過ごせるのならばそれで十分満足だった。



 都で以仁王が平家打倒の兵を挙げ、宇治川で敗死したという知らせが届いたのは初夏の頃だった。平家追討の令旨が出たとも聞いたが、平家の勢いを止めることはやはりできないのだな、と思ったものだ。なので、伊豆で源氏の御曹司である源頼朝が挙兵したという知らせは、景時を驚かせた。
 一番に思ったのは、面倒なことになったということで。そしてその次に思ったのは、御曹司も可哀相に、ということだった。どうせ平家に勝てる者などいない。流人の暮らしであれ、静かに暮らしていたならば、命を失うこともないだろうに、何故、覇を求めて立ち上がろうとするのか、と。
 自分には真似することもできない生き方だと思った。
 あまり気がすすまなくはあったが、平氏一党に下った頼朝追討の命令には景時も従わざるを得なかった。伊豆の北条氏や伊東の三浦氏は頼朝についたという。北条の姫君が頼朝と婚儀を挙げたというから北条氏は頼朝と心中の決意なのだろう。
 正直に言えば、平家が勝つにしても源氏が勝つにしても、景時にはどちらでも構わないことだったのだ。ただ平穏な暮らしが守られるのであれば、支配者が誰であれ構わない。
 だが、戦うことは避けられないということも、ここに至って景時にもわかっていた。郎党たちが集まったところで、景時は初めて彼らに指令を下す。
「なんだか面倒くさいことになっちゃったけど、ちゃっちゃと終わらせてしまおうか!
 ま、戦力はオレたちの方がかなり多いみたいだからね、気楽に行こう」
本気なのかどうかわからないような、暢気な景時の言葉に郎党たちも一瞬顔を見合わせる。景時はその反応に苦笑する。どんなときも厳かで『武士』らしかった父と比べて彼らは戸惑っているのだろう。
 本当のところ、景時はこの戦いに出ることに全くもって乗り気ではない。源氏の御曹司に同情に似た思いを未だに抱いていることもその原因ではあった。出来れば殺されることなく、逃げ延びて欲しいとさえ思うのだ。そして、静かに暮らしていけばいいではないか、と。

 兵を挙げたものの三浦からの援軍が遅れたため、頼朝軍は敗走し石橋山へと逃げ込んだという。その探索を命ぜられ、景時は山へ入った。木々が空を阻み、下草が足を取る。知らず溜息が出るのに従者が不審げな顔を向けた。それに気付いた景時は、しまったな、という表情で肩を竦めた。
「嫌になるよね、頼朝殿を討伐しても、オレたちは平家一門から報いられるわけでもないしさ。
 それに、頼朝殿は義家殿の末裔で、オレたちの主筋の御曹司でもある……気がすすまないな」
「……そう思う者は多いでしょう。だから北条だって頼朝殿についたんです。
 平家などもはや武家の一門にあらず、と申す者も多いではありませんか。我らのことなど考えてもおりますまい」
口にはせずとも平家への反発を抱く者は頼朝に同情しているのだろう。誰もが進んで彼を追っているわけではないのだと気付いた景時は、尚更に自分たちに課せられている任務の虚しさに息を吐く。
 この山の木々に紛れて、彼が見つからなければいいのに。景時たちの責任だとは誰も言わないだろう。平家に深く傾倒している大庭氏の一党も山に入っているのだから。
 下草の多い山道は足場も悪く、山中へ逃げ込んだ頼朝一行も苦労しているであろうと思わせた。ぬかるんだ土は足を滑らせそうになり、最初から重い足取りを更にゆっくりにさせた。
 敗走する頼朝の一行は幾人かずつに別れたらしい。それに合わせて景時たちも追っ手を分ける。
「相手は手追いで人数も少ないとはいえ、十分気をつけてくれよ。
 こんなことで死ぬんじゃ堪らないからね」
相変わらずの軽い口調でそう言い置いて景時は自分は更に山の上を目指す。
 耳を澄ませば葉擦れの音が人の気配を伝えてきそうだが、それは味方のものが大半にも思えた。追われる側は細心の注意をもって気配を消そうとするだろう。追う側はそんな彼らの気持ちを追いつめるように殊更に音を出すかもしれない。
 そんなことを考える景時の耳に人の声が聞こえた。聞き慣れない声、大庭氏の雑兵たちかと耳を澄ませる。
「あっちへ逃げたぞ、追え!」
「頼朝一人だ、追いつめろ」
どうやら当たりらしい。共に居る従者と雑兵に景時は声をかける。
「どうやら、大庭氏が頼朝殿を見つけたようだ。残りの皆を呼んできてくれ
 オレは様子を見に先へ進む」
「景時様、しかし、お一人では……」
「大丈夫だ、大庭氏は味方だし、頼朝殿はどうやら一人らしいから」

その時、景時は自分が何故そんな気になったのか上手く説明できなかった。
 ただ、この期に及んでも自分はなお源氏の御曹司に同情をしているらしいとはわかった。声を頼りに景時は更に山へ分け入る。
 地面のぬかるみが更にひどくなり、景時は歩きにくい道なき道を歩んで行った。さっきまであれほどに聞こえていた雑兵たちの声が聞こえなくなっているのが気になったが、先を急ぐ。そのうち、あまりに酷い足元のぬかるみに、地面に視線を落とした景時は自分の目を疑った。
「……!!」

地面を濡らしていたのは雨水ではなかった。景時の靴を染めるそれは、紅く細く、幾筋にも流れていく川。……血だった。御曹司は最早討たれてしまったのか。
 気付いてしまえば辺りに漂う生臭い匂いまでが気になりだして、景時は木立を縫って駆け出した。その先に何があるかなど考えもしなかった。そして、胸の悪くなるような血の臭いが濃くなり、木々が途切れたその先で景時は、見た。
 血にまみれ地面に放り出された幾多の雑兵たちの屍を。そして、それらを喰らう、禍々しいモノと、その前に立つ一人の男。それは、見てはならないものだと一瞬に景時は悟った。なのに、足が動かなかった。
 多分、今逃げ出したところで、逃げ切ることなどできないだろう。動くことさえ出来ないのに、頭のどこかで冷静な自分がそんなことを考えている。
 アレが源氏の御曹司なのだ、と景時は瞬時に悟った。そして、自分が彼を随分と誤解していたことも。彼は哀れな流人でも、父祖の無念を晴らすために勝ち目のない戦を始めた健気な御曹司でもなかった。
 絶対的な存在、というものがあるとすれば、この場の頼朝がそうだっただろう。冷ややかな笑みを浮かべたまま、多くの屍を見下ろしていた頼朝が、顔を上げて景時を見る。射抜くほどに強いその視線に、景時は声さえも失ったかのようにただ、その場に立ちつくした。
 震えることさえ忘れたように景時はただ呆然と突っ立っている。頼朝も怖ろしかったが、その背後の禍々しい存在が何よりも肌が粟立つほどに怖ろしかった。その様子に気付いたのか、頼朝が随分と可笑しげに口を歪めて笑い、景時に向かって語りかける。
「……ほう、見えるのか」
何が、とは言わずに、また、景時からの返答さえも期待する様子もなく、ただそう言った頼朝は値踏みするかのように景時をじっと見つめる。
 その間にも彼の背後のモノは地にある屍を喰らい続けている。したたり落ちる血は細い赤い川になって流れ続けている。
「名は、なんという」
問われて乾いた口を開くが、舌が上手く回らない。まるで言葉を忘れたかのようだった。
 しかし景時は何とか、屍を喰らうモノから視線を外し、一度口を閉じて喉を潤すように唾を飲み込んだ。それはまるで血の味をしているように思えて、瞬間吐き気がこみ上げる。
 それでもなんとか景時はもう一度、目を開けると問いに答えた。
「……鎌倉権五郎景政が末裔、梶原平三景時」
それを聞いて、頼朝はほう、と頷き景時に歩み寄った。無造作に紅い川を踏みにじるように歩み寄り、その手を景時へ伸ばす。殺されるのだろうか、と無意識に景時は身体を強ばらせた。
 その耳に従者と郎党たちの景時を呼ぶ声が聞こえる。その声は頼朝にも聞こえただろう。そして、背後のモノが血に染まった口で笑ったような気がした。来るな、と叫びたかったが声が出ない。
 口も廻らぬその頭の中では、置いてきた母や、まだ幼い妹の行く末だけが案じられた。こんな出来損ないが家督を継いでさえいなければ、今ここで梶原の男子の血が途絶えることもなかったろうに、それでも妹はしっかり者だから兄よりマシな婿を取って梶原の家を継いでくれるだろうか。
 そんなとりとめもないことをこの状況で考える自分が何処か可笑しかった。頼朝の手が景時の首に伸び、そのまま締められるかあるいは背後のモノに喰らわれるかと思ったとき
「死にたくないか?」
そう尋ねられた。咄嗟に何を尋ねられたかわからず、景時は頼朝の目を見返す。深い漆黒の闇が広がる瞳がじっと自分を見つめていた。
「死にたくはないか?」
再度そう尋ねられて、魅入られたように頷いた。死にたくない。こんなところで、死にたくない。こんな死に方をしたくはない。ただそう本能のように思い、何度も何度も景時は頷いた。
 憐れむような蔑むような目で頼朝は景時を眺め、それから嘲笑するような笑みを唇に浮かべると、景時の喉元から手を離した。
「よかろう、来い、景時」
踵を返す頼朝に、ふらふらと景時はその後を追う。屍を喰らい尽くしたモノは既に姿を消していた。だが、その気配は感じられ、景時の背中を何時までも冷たい汗が流れ続けた。
「景時様ー!」
雑兵たちの呼ぶ声が近づく。彼らは程なくして、自分たちの主が裏切り者となった姿を見るだろう。喰らわれた屍が作り出した紅い川は土にまみれ、泥に混じり、景時はそれを踏みにじり歩いていることにさえ、気付くことはなかった。

[続]






遙か3より、景時話です。
石橋山の頼朝との出会いを捏造してみましたよ。
いろいろツッコミどころも多いとは思いますが、目を瞑ってください〜



■ NEXT ■ 遙かなる時空の中で ■ 銀月館 ■ TOP ■