紅い川 3




 梶原邸の庭に、笑い声がさざめく。
 鈴の音のように軽やかな朔の声とそれに寄り添うような低く涼やかな黒龍の声。彼がこの邸に留まるようになって、ひと月にも満たぬというのにそれはもう何年も続く自然な光景のように見えた。
 それは邸に留まる客人と世話をする少女というようなものではなく、幼いながらも朔の黒龍を見つめる視線は恋情を強く秘めたものであり、それを見返す黒龍の瞳もまた、恋人を優しく見つめるものだった。
 景時はもちろん、それに気付いてはいたけれどあまりに幸せそうな朔の様子に、何を言う気にもなれなかった。黒龍を京の貴人だと信じている母は、仲睦まじい二人を微笑ましく眺めながらも、心配もしていた。京へ戻るときには、黒龍は朔を捨てていくのではないか、と。
 ひと時の東暮らしでの遊びではないのかと。景時はそんな母を安心させるように、『大丈夫だよ、黒龍はそのような人ではないよ』と言い、二人を邪魔せぬようにと邸の者にも言い含めていた。
 もうひとつ、景時が邸の者に言い聞かせたのは、黒龍のことを口外せぬようにということだった。どうせ見張られているとはいうものの、都からの貴人が梶原邸に滞在しているということなどは、大っぴらにならないほうが良い。
 黒龍が朔を連れて京へ上るというのであれば、そのときまで。



 しかし、人の口には戸は立てられぬというのは常の世のことで、梶原邸に珍しい客人がいるらしいという噂は何時の間にか人の知るところとなっていた。
 それを景時が聞かされたのはなんだかんだと言って、断りきれずに広常の邸に将棋を指しに訪れていたときのことだった。思い切りの良い広常に対して景時は考える時間が長い。そうかと思うと思いついた奇手を迷うことなく打ってみせ、それが広常には面白いらしい。
「梶原殿は時々思ってもみない手を打たれるな」
「いえ、勝てないとわかっているから奇抜な手を打とうとするだけで……どうせ負けてしまうのですがね」
「いやいや、相手に手を読ませぬということは才あるということでしょうぞ」
その日も景時の負け将棋を肴にしながら広常は杯を重ねていた。なんだって自分は彼とこんな風に話をしているのだろうと景時は内心不思議に思いながら、話を合わせていた。
 人柄で多くの人々の尊敬を集める広常。見る者に畏怖を抱かせる頼朝とは異なり、大らかで豪胆な広常はまさしく東国武士を体現したような人物だった。隠さねばならない秘密を持つ景時は、そんな広常に近づきたくないという気持ちも強かったが、同時に惹かれるものもあった。
 京へ幼い頃に修行に出され、その後病床で死に瀕する姿を見るまで、近しく接することもなかった父。景時に失望の溜息をついていた父が、もし広常のようであったならと、そのように心の奥底で感じていたのかもしれない。
「そういえば、梶原殿の邸に珍しい客人がお出でだとか」
そう言葉を続けた広常に景時は言葉を失った。どう誤魔化せば良いかわからない。広常の耳に入っているとすれば、いずれ頼朝の耳にも入ろう。
 頼朝に隠れて京からの落ち人を匿っていたとなれば、たとえそのつもりがなくともどのような謗りを受けるかわからない。
「…………」
押し黙ってしまった景時に、広常は別に責めているつもりはない、と笑った。
「梶原殿に二心はないことは、私はよくわかっているつもりだ。頼朝様に背こうというような人物ではない。
 むしろ、その貴人を気の毒に思われてのことであろうが、頼朝様のお耳には入れておかれたほうがよろしかろう。
 何ならこの広常から頼朝様に口添えしても良い、頼朝様もいくら京からの落ち人とはいえ
 詮議にかけよとはおっしゃいますまい」
広常が景時のことを心配してそう言ってくれるのが良くわかった。景時は深く頭を垂れる。
「頼朝様は厳しく、時に冷酷なお方だ。必要とあらばどのような身内であれ切り捨てられるであろう。
 それが頼朝様の強さであり……弱さの現われでもあると私は思う。
 頼朝様には、野心を持たぬ人間がいるということは信じられぬのであろう。
 梶原殿や九郎殿のような者がいるということが信じられぬし、そういう人間が妬ましくいらっしゃるのだろう」
「しかし、梶原殿を傍に置かれるということは頼朝様も、もしかしたらそういう人間を信じたいと思っておられるのかもしれぬ」
そうじゃない、と景時は思う。そうじゃない、そんな立派な人間では自分はない。ただ頼朝は自分の秘密を知る景時を傍において見張ると共に、縛り付けておきたいと思っているのだ。
 有用な使い方を探しているに違いないのだ。不用となればいつでも殺せるのだと、いつも頼朝の目は語っているではないか。
「私では駄目なのだ、梶原殿。いくら年を取ろうとも、時として武士の血が騒ぐ。頼朝様のお姿を見ていると余計に、な。
 もし、私がもっと若くあれば、あるいは、などと……」
「……! 広常殿!!」
景時は慌てて広常の言葉を遮った。そのような言葉は間違っても口にしてはならない。たとえそれが自分の邸であっても。あまりの景時の剣幕に、一瞬驚いた広常は、しかし大きく声を挙げて笑った。
「冗談ぞ、梶原殿。そのようなこと、今更為そうとは思わぬ。頼朝様には到底私は及ばぬ。
 東国の武士の夢は、頼朝様がかなえてくださるだろう。それにお力添えできるのであればそれで十分だ」
自分は広常からこれ以上何も聞いてはならないと、景時はただそれだけを思った。取るものも取り合えず走るように広常の邸を出た。
 背中に視線を感じる。見ている。嫌な、禍々しい気配。いつも常に傍にある、その視線を、勿論、景時は今も、そして先ほども感じていた。あれは冗談だ、本気ではない。そうだ、わかっているだろう? 冗談なんだ。背後に潜むその目に見えぬ存在に景時は語りかけた。だから、これ以上人を喰らわないでくれ。

 邸に戻ると朔が神妙な顔をして景時を迎えた。その顔を見ただけで景時は朔が何を決意したのか知る。そのときが来たのだろう、と。
「兄上、お願いしたいことが……」
ああ、最近はお願いされてばかりだな、と景時はくすり、と笑う。しっかり者の妹は兄に物を頼むことは稀だった。自分で出来ることは自分で行い、景時に助けを求めることも稀だった。
 それは兄を気遣う気持ちの表れでもあり、景時はいつも朔に頼りなくも不甲斐ない兄で済まないと感じていたのだ。それが、朔からこのようにお願いを頼まれることがあるというのなら、何を置いてもそれを実現させてやりたいと景時は思っていた。
「……黒龍と、行くのだね?」
驚いたように朔が顔を上げる。
「お兄ちゃんをあんまり見損なうんじゃないよ、ちゃんとわかっているさ」
軽く片目をつぶって笑ってみせる。朔は泣きそうな顔になって景時に抱きついてきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、兄上」
「大丈夫だよ、母上にはオレから話をしよう。すぐにというわけではないんだろう?
 それにお前が京へ上るというのなら、頼朝様にもお話しておかないといけないな。
 京に住まう知り合いに嫁ぐことが決まったとお伝えしよう。
 大丈夫、お許しくださるさ。
 オレが京で修行していたときに知り合った相手とでも言えば信じてくださるんじゃないかな」
そんなことは半ばも信じていなかったけれど、なんとしてでも頼朝に承諾してもらう術を考えようと景時は思っていた。万が一の時は密かに朔と黒龍を逃がすようにすればいい。
 鎌倉を出れば、あのものの力も及ばないかもしれない。それにまがりなりにも黒龍は龍神だ、朔を守ってくれるだろう。
「早速、明日にでも頼朝様にお目通りをお願いすることにするよ。朔は邸で待っていなさい。
 ま、兄上にどーんと任せておきなさい」
神妙な顔つきだった朔が笑顔になる。
「ありがとう、兄上」
 兄らしいこともこれまで何一つしてやったとは思えない。門出を迎えようとする朔に最初で最後の兄らしい行いをしてやりたいと思った。
 ちゃんと守ってやることもできなかったけれど、これからは黒龍が朔を守ってくれるだろう。そのほうがきっと安心だ、と。




「景時、何か頼みがあると聞いたが」
頼朝の前で景時は平伏していた。背中に冷たい汗が流れる。傍において重用されているとはいえ、未だに景時は頼朝の顔を真っ直ぐに見ることができずにいた。見たくないものを見てしまいそうだったから。
「はっ……実は、妹の朔のことなのですが……」
知られているだろうと思いつつも、景時はそう切り出した。
「そういえば、お前には少し年の離れた妹がいたな。息災か」
笑いを含んだ声に聞こえたのは間違いではないかもしれない。それでも景時は何も気付かぬように会話を続けた。
「は、おかげさまで鎌倉にて息災にしております。
 本日は、朔のことで頼朝様にお許しいただきたいことが……」
「ふむ……余の許しとな。……妹のこと以外に余に言わねばならぬことがあるのではないか、景時」
景時が更に平伏する。やはり、頼朝はとっくに知っていたのだ。どうすれば言い逃れできるのかと景時は考えた。頼朝はそんな景時を気にする様子もないのか、
「景時以外の者はしばらく下がれ」
と言う声がして、景時は自分以外の者たちが下がっていく布擦れの音を聞いた。よもやこの場でどうかされてしまうかとさえ思い、強く目を閉じる。
「景時、顔を上げよ」
ゆっくりと景時は頭を上げる。目を開けたそこに何が見えるかと怖れながら。しかし、恐る恐る目を開いてみればそこには頼朝の姿しか見えはしなかった。
「そなた、余を驚かせようと思ったのであろうが既に噂は耳に届いておる。
 平氏追討のために京の情報を入手せんと、京に詳しい貴人を家に招いておるそうではないか」
何を言っているのかと景時は呆然とした顔で頼朝を思わず見返した。その目はやはり冷たい色をしていて、その言葉が心にもないものであると物語っている。景時はどう言葉を返せばいいのかわからなかった。
「さすが、準備が良い」
「いえっ……いえ、頼朝様、彼はそのような人物ではなく……」
景時は思い切って言ってみた。
「朔の許婚なのでございます。この度は、頼朝様に朔の婚儀のお許しをいただきたく……
 幼少の頃よりの仲で、この度婚儀を挙げた後、二人で京へ上りたいと……」
どうせ頼朝には分かっていることなのだ、もっともらしい嘘を並べてもいいではないか。頼朝も仕掛けてきた茶番なのだから。
 何より、どうやら頼朝は朔と黒龍について何か処分を考えているということもなさそうだということが景時を安心させた。
「ほう、そなたの妹には許婚がいたのか」
「私が京にて陰陽師の修行をしていた頃に世話になった屋敷で知己になった男で……」
すらすらと嘘が出てくるのが自分でもおかしいくらいだった。なんという茶番だろう。それでもそれが必要なのだ。形だけであれ、それが正しい筋道で決められたと見せかけるために。
「よかろう、余からも婚儀の折には何か送ろう。政子に選ばせて絹でも届けようぞ」
「もったいなきお言葉にございます」
ほっとして景時は頭を下げた。すぐにそれを後悔することになるとも知らず。
「京には、面白い話が伝えられているそうだな」
訝しく思って景時はもう一度頭を上げる。
「京に危機が訪れるとき、龍神が神子を選び、京の穢れを祓い五行の気を整えるという。
 京にいたお前なら詳しく知っているであろう? 今度是非、その話を聞かせよ」
笑みを含んだ頼朝の顔に景時は愕然とした。
「鎌倉の者が、源氏が、京の命運を握っているとは、愉快なことではないか?」
それ故に朔を止めぬのか、と。果たして自分は頼朝にこれを告げてよかったのだろうか、黙ったまま二人を逃がした方が良かったのではないか。
 だが、その景時の思いも続けられた頼朝の言葉に断ち切られた。
「それよりも景時。謀反の噂があると聞くが知っているか?」
「頼朝様? 私はそのような……」
「そうだな。お前は忠実に余に仕えてくれるであろう。謀反を企むものが妹の婚儀を願いには来るまい。
 だが、この鎌倉にはいるのだ、不遜にも余に成り代わりたいと望む者が」
「景時。お前も、知っているはずだ」
その冷たい声に景時は身体の全てが冷えていくのを感じた。吐き気がこみ上げる。だから、言ってはいけないと。聞かれているのだと。そう思ったのに。
「景時。その者を討て。余に仇なす虞のある者は生かすわけにはいかぬ。
災いは芽の内に摘み取らねばならぬ」
「頼朝様っ……広常殿はそのような……」
「景時。余は、討て、と申した」
有無を言わさず頼朝はねじ伏せるようにそう言った。景時の言葉など頼朝には虫の鳴き声ほども耳に届かぬもののようだった。
「京への道中、無事であると良いとお前も思うであろう」
誰の、とも何の、とも頼朝は言わなかった。言わなくてもそれはあまりにも明白なものであり、景時はただ、黙ってもう一度平伏した。その手は震え噛み締めた唇は血が滲んでいた。



 御所を出たその足で景時は広常の屋敷へと向かった。足取りは重い。だが、もう何も考えなかった。不用意な言葉を漏らした広常がいけなかったのだ。
 頼朝という人間をそうと見抜いておきながら、何故自分にその刃が向くと思わなかったのだろう? 頼朝に並びうる力を持つと言われているのはわかっていただろうに。
 頼朝を心弱いと読んでたのであれば、自分こそが今の頼朝のもっとも力強い味方であると同時に、もっとも邪魔な人間であるとわからなかったのか。
 広常の館の門を景時は陰陽術で気配を絶ってくぐった。このようなことに、自分が陰陽術を使うことになろうとは思ってもいなかった。
 父は息子が武家の棟梁のために役立つ術を身につけたと喜ぶだろうか? いや、そんなはずはない、やはり武士たらぬ、裏切り者の犬にしかならなかったと蔑み嘆くだろう。そ
 のような姿を見せることがなかっただけでも救いかもしれない。
 土足のまま広常の屋敷に上がった景時は、そこがいつも広常と将棋を指した間である広常の部屋に向かう。既に刀は抜いていた。
 躊躇う間もなく切らねばきっと自分はそれを成し遂げられない。誰かと一緒でなければ良いと思っていたが、広常は将棋の盤を前に一人考え込んでいた。
「……やはり、将棋は一人で指しても面白うはないな、梶原殿」
戸を開けた気配に気付いたのか、広常が振り向きもせずにそう言った。景時は答えない。
「梶原殿の殺気というのを、初めて感じたような気がいたすな。
 そう剥き出しになさってはすぐに気取られてしまいますぞ」
笑いながらそう言う広常に景時は刀に手をかけ振り下ろさんとしながらその手前で思い切ることができなかった。
「……広常殿」
何を言えばいいというのだろう? 自分が一体広常に何か掛ける言葉を持っているだろうか。せめて裏切り者と、犬と罵ってもらえまいか。だが広常は笑って景時を見やると
「頼朝様のご命令か」
そう言った。今、この刀を振り下ろせば。それで済むではないか。だが震える手は刀を振り下ろすことを拒否していた。
「梶原殿、そなたは私が頼朝様に対して二心あると思われるか? 謀反の心ありと思われるか?」
思わない、思ってもいない。だが、それを言ってどうなるのだろう。自分がここで頷こうと頷くまいと、景時は広常を討たねばならない。そのことに変わりはない。
 そうしたくなくても、そうしなくてはならないことばかりが景時の前にも後にも連なっていた。
 何故自分はこんなにも、求められること全てに苦痛を感じてしまうのだろう。
「梶原殿は食えぬ男だと思うておったが、ただ、正直すぎるだけだったようだな。
 頼朝様がそのおつもりであるのなら、よろしかろう、この広常、お望み通り頼朝様に背いてみようか」
動かぬ景時の刀の下で、広常は傍らに置いた自らの刀を取った。
「梶原殿、一人で来られたことを後悔なさるな」




 血のついた刀と手を景時は濯いだ。山から湧き出す細い水流が見る間に赤く染まる。広常は本当に景時を切るつもりだったのか、わからない。だが、切られると思った。そして死にたくないと思った。
 浅ましくも自分は、死にたくないと思ってしまったのだ。恥ずべき者が、死すべき者が、ここに生き残っている。
 洗っても洗っても紅い水が景時の刀から手元からこぼれおちていく。清らかな水が、景時が触れた瞬間から穢れた血の色に変わっていく。
 人を喰らう化け物が作り出した紅い川をあの日に見た。そして今は自分が人を喰らい生き延びている。
 何故、あの日も、そして今日も、自分は死にたくないと思ってしまったのか。何故、自分はいつも間違ってしまうのか。
「……早く、帰らないと……朔、が心配するよね……」
そう呟いて。なのに血の色が落ちない。この赤く染まった手では朔の頭を撫でてやることはできない。
 何時までも何時までも手を濯ぎ刀を清め続ける景時の足元を、紅い川が流れていった。

[終]






ということで、最終話です。
いろいろ捏造しまくりで申し訳ありません
こういう話を書くには、まだまだ力量不足でいろいろ物足りなかったり掘り下げ不足だったり

反省も一入でございます。でも、読んでいただけましたらとても嬉しいです


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