■虹の花■ A'さま
雨が降り続いていた。
窓硝子を滑り落ちる雨粒を見つめながら、シーヴァスは軽いため息をついた。
戦闘依頼を引き受けはしたものの、もう、幾日もこうして足止めされている。
片田舎の小さな街は数日の滞在ならば悪くはなかったかもしれないが、遊び慣れた貴公子の長逗留に向くところではなかった。
「この時期はいつもこうでしてなあ」
宿の主はのんびりとした口調でそう言った。
「この長雨がやむと、虹が咲くのですが」
「───虹が咲く?」
主は頷き、ティーカップに熱い茶をそそいでシーヴァスに差し出すと、ポットにティーコゼをかぶせた。
「はい、それはそれは見事に咲きますよ」
「ほう・・・」
おかしな言い方をするものだ、と思いながらもシーヴァスはティーカップにブランデーを垂らした。見事なゴールデンリングが浮かび上がる。
芳香が立ち上るのを自分の鼻で確認すると、宿の主は一礼して出ていった。
少なくとも彼の入れる紅茶は、シーヴァスを満足させる程度には美味である。
それは気の滅入るような滞在の、せめてもの慰めと言えた。
ふわりと優しい気配がした。
天使が来たのだ。
「こんにちは、シーヴァス」
抑揚に富んだ優しい声とともに、彼の天使があらわれた。
彼女の訪れはいつも突然だ。
シーヴァスはカップをおいた。
「どうした、何か用か?」
内心では彼女を歓迎していたものの、そうとは気取られぬように、平静さを装いながら、彼は天使に椅子を勧めた。
陽の光を幾日も見ていなかったせいか、彼女の髪は一際鮮やかに輝いているように感じられた。それはさながら雲間からさす光のように。
天使はすすめられるままにシーヴァスの向かいに腰を下ろした。
「同行しに来たんです」
長い髪を揺らして、彼女はほほえんだ。
「同行・・・といっても、この雨では身動きがとれないんだが」
天使は窓の外に目を転じて言った。
「・・・確かにひどい降りですね」
部屋には雨音が響いている。
シーヴァスは東方の作法だ、といってソーサーに茶を注ぎ、天使に差し出した。
彼女は嬉しそうに礼を言い、優雅な仕草でそれを飲んだ。
ソーサーを持つ指先と、彼女の白い喉の動きを、彼は見つめていた。
彼女は美しかった。
その息づかいとぬくもりと、無垢な魂なるが故の愛らしさと。そしてそれとは何ら相反することなく、静謐の内に存在する神秘の輝きと。
それらは完全であり、完全であるために、決してこの世界には有り得ぬものとなっていた。
彼は時折、食い入るように彼女を見つめることがあった。
息を詰めて。まるで、かすかな気配にも飛び去ってしまう、珍しい蝶を見るときのように。
このときもまた、そうだった。
「・・・私の顔、何かついていますか?」
居心地の悪さを覚えてか、彼女はおずおずと言った。
「───いや」
目を伏せて、彼は冷めかけた紅茶を飲んだ。
ブランデーの香りが鼻の奥を刺激する。
天使は小首を傾げてそんな彼を見つめていたが、目があうとほほえんで言った。
「明日は晴れるといいですね」
シーヴァスは頷いた。
翌日、雨はやみはしなかったものの小降りになった。
シーヴァスは出発した。
ふたりは目的地へ向かって、街道を進んでいた。
雨雲は遠ざかりつつあった。
雨の最後の一滴が緑の木の葉を濡らし、やがて、光がさしはじめる。
どんよりとした灰色の雲が流れ、空はゆっくりと澄んだ青さを取り戻していった。街道沿いの木立からは湿った緑の香りが漂い、久しく聞くことのなかった鳥たちの囀りが湿気の多い大気の向こうから響いてくる。
しじまをぬって聞こえてくるそれは、とても高い声。
だが、耳を貫くというよりは、はるかに重たい揺らぎを伴っている。
夢の奥から響いてくるようなそれは、しかし、力強い羽ばたきによってその存在を明確にした。
「山鳩ですね」
楽しそうにくるくると瞳を動かしながら、天使は言った。
心地よい雨上がりの空気にふれて、天使は嬉しそうにはしゃいでいた。
こんなときの彼女は小さな子どものようだ。目にうつるもの全てに関心を向け、些細なことに驚き、それを逐一彼に告げる。
彼と彼女を隔てるものは影をひそめ、束の間、シーヴァスは天使を極普通の少女として見ることができる。
が、それはあくまでも幻。
胸の内で、彼は自分にそう言い聞かせる。
どれほど美しく、目に鮮やかに見えようとも、決して近づくことはかなわない、まるで、───そう、虹のようなものなのだ。
一体、誰が天使を得ることができる?
求める以前に、彼は諦めていた。諦めることには慣れている。おそらく彼は、人が望みうるものの全てを一身に集めてはいる。が、それはどこまでも他者の望みでしかない。
彼自身が本当に望むものは、全て、彼の手から滑り落ちていった。
おそらくは、彼女も。
ふいに、天使が言った。
「あの、ですね、シーヴァス?虹は出ないんですか?」
蜘蛛の巣にかかった雨粒をそっとはじき落とし、そのゆれる様に瞳を輝かせて、彼女はシーヴァスを見上げた。
「虹か・・・」
「私、インフォスではまだ一度も虹を見たことがないんです。雨上がりには見られるのでしょう?」
「そういつも見られるというものでは・・・」
言いながら、宿の主人の言葉を思い出す。
「そういえば、ここでは長雨の後には虹が咲くと聞いたが」
天使は瞬きをして不思議そうに言った。
「・・・・虹って咲くものなんですか?」
その表情に彼は口元をほころばせた。
「普通、そうは言わんな」
「この土地の言い回しなんでしょうか?でも、虹、なんですよね?」
「そう言っていた」
天使の満面にこぼれるような笑みが浮かぶ。
「ずっと見たかったんです、見られるならとっても嬉しいです」
そうして、彼女は翼を震わせた。
が、いつまでたっても空に虹はかからなかった。
雨がやんですぐに姿を見せなかった段階で、諦めるよう言うべきだったのかもしれない。
がっかりした様子の天使を見るに耐えかねて、シーヴァスは休憩しようと言った。
シーヴァスの気遣いを察してか、天使は努めて笑顔を見せ、頷いた。
そうして彼女が休憩場所に選んだのは、一本の大木がそびえる丘の上だった。
「きっと、見晴らしがいいですよ」
確かにそこは見晴らしがよく、あたりを一望することができた。
天使は、それを確認するように大木の周りをぐるりとまわり、ふいに歓声をあげた。
「シーヴァス・・・、虹です。虹が咲いています」
雨がやんでから、もう、ずいぶん時間が経っている。
虹などかかりようがないはずだが。
どういうことかと訝しみながら彼女のそばへ行き、彼は納得した。
そこには一面に虹の花───アイリスが咲いていたのだ。
「ああ、シーヴァス、なんて、なんて・・・・綺麗なんでしょう」
天使の白い肌にはほのかに赤みが差していた。
彼女は群れ咲く花々の中に舞い降り、柔らかな花弁にそっと手をさしのべた。
天使の動きにあわせて、花はその花しべをかすかに震わせる。
シーヴァスはしばらくの間、何も言えずに、ただただその光景に見入っていた。
が。次第に彼は、笑いがこみ上げてくるのを感じた。
幻のはずの虹も、確かにこうして咲くのだ。
───何をためらう必要がある?
彼は迷いのない足取りで、彼女のもとへ近づいていった。
彼の思いを伝えるために。
後年。フォルクガングの館には数多くの虹の花が植えられた。
花の時期、館の主とその妻は連れだって咲き競う花々の間を散歩する。が、彼らが見つめているのは花よりも互いの瞳であることの方が多かった。そこには優しさがあり、愛があり、およそ、人の子の持ちうる美しい思いの全てが花開いていたからだ。
幻は幻ではなく確かなものと形を変え、館の主は初めて、望むものを手に入れたのだった。
Fin.