■澄んだ空の色■ きいこさま
空を映す瞳が、まっすぐ自分を見つめている。それを見つめかえしてその唇にそっと口づけると、かすかに震えて離れようとする。引き寄せて、深く口づけた。
認めてしまえば気持ちというものは、ずいぶん楽になるものだなと、シーヴァスは思った。苛立っていた心も、今はもうさほどでもなく、天使ではなく、ひとりの女性として彼女を愛していると思うほど、心があたたかくなる気がした。
世界が終末に近づきつつあることすら気にならないほどに。
「……っ」
フレアの手が、シーヴァスの胸を軽くたたいた。抗議する手を封じて抱きしめようとして、ふいに強く押しのけられる。翼をひろげた天使が、軽く睨むようにシーヴァスを見ていた。
「もう、やめてください…っ」
その瞳が潤んでいるようで、シーヴァスは苦笑した。その苦笑した表情から目をそらして、フレアは空へ飛びたった。何もいわずに「また来ます」とも告げずに、逃げるように。
「……淀んでるみたい」
ペテル宮からリメール海を見おろして、フレアは小さくつぶやいた。
「みたいじゃなく淀んでいますよ。堕天使ラスエルは、どうなってます?」
妖精ローザが、フレアのとなりで同じように見おろしながらいった。淀んで、渦のように歪みを生じているリメール海が見えた。
「グリフィンにお願いしたんだけど、移動にすごく時間がかかってるの」
「シーヴァス様に依頼なさったら如何ですか」
水晶版をのぞいて、シーヴァスがいる位置からなら移動にさほど時間がかからないことを確認している。フレアは、それを見ながら、軽く首をふった。
ローザの表情が厳しくゆがんだ。
「……冷静に判断なさってください。
世界が消滅したら、すべてが終わってしまうのですよ」
溜め息とともにつぶやいて、
「恋のやみって、ご存知ですか」
と、ローザは腰に手をあてていった。
「やまいではなくて、闇です。恋する想いにとらわれて、ものの分別がつかなくなった状態をいいます。いまのフレア様です」
「え、恋…!?」
びっくりした顔をしてローザを見上げる。その表情に、ローザは脱力して、払うように手をふった。
「わかりました。もう好きになさってください」
「ローザ……」
「では、せめて、堕天使イウヴァートは、シーヴァス様に……。
差しでたことを申し上げてすみませんけど」
「うん。はい、そうだね。うん」
フレアは、こくこく頷いて、席をたった。
もうすぐ刻限。インフォスを救うための任について、ずいぶん月日が流れたんだなと、フレアは胸に手をあてて思った。時をくり返す世界で、勇者たちと10年もの月日を共有してきたことを、あらためて思う。それが、もうすぐ終わることを。
シーヴァスは剣の手入れをし、暗い空を見上げた。空気の淀みを肌で感じる。なんともいえない感覚だった。勇者として天使の傍にいるせいか、堕天使たちの存在を知っているせいか、それはわからないが。
「時が近いようだな」
その「時」のことを考えると、やはり心がさわいだ。苛立ちがなくなった代わりに胸に浮かんでいるのは、一抹の寂しさ。やがて天界に帰っていくであろう天使のことを思い、つい考えることは……
「……ばかばかしい」
考えを打ち消すように首を左右にふると、腰をあげて、もういちど空を見上げた。そこに白いかげが見えないものかと探している。それも、また日常になっているのが、悔しいところだったが。
「フレア…」
声にしてつぶやいてみる。その姿を見なくなって何日経つだろうか。思い返そうとして、ふと思考がとまった。天使と、どれほどの時を過ごしたろうか。とても長かった気がするのに、それを思い出すことができなかった。いつからか、出逢いのときは憶えていても、その顔も表情もすべてを憶えていても、時間の流れだけは靄でもかかっているように、はっきりとはしていない。
「…………」
突然、何か、ふいをつかれたように心がざわめいた。背筋に寒気が走るような不快感に、剣を手から滑り落としそうになって持ちなおした。その目端に白い影が映る。はっとして顔をあげた。
「シーヴァス」
「……しばらく来なかったな。怠慢じゃないのか」
考えるより先に口から出た言葉は憎まれ口で、我ながらと苦笑する。そんなことをずっと考えていたわけでもないのに。
「すみません。つい……」
その先の言い訳をいわない。フレアは困ったように息をついて、シーヴァスの手元を見つめた。剣を見ているようでいて、その実、何も見ていない。なにかを思いつめたような瞳の色に、シーヴァスは気づかなかった。
「何か用があって来たのだろう?」
険のある言葉つきで、先を促すようにいう。フレアはうつむいた。
「……事件なんです。
アドラメイクを操っていた堕天使イウヴァートが……」
その正体をついに現したと妖精ローザから報告を受けてから、すでに数週間は経っていた。その間にも空気は淀み、各地に堕天使が次々と現れてきていた。彼らが、このインフォスという世界の時をとめ、混乱と破滅の世界へと導いている者たち。かつては天界にいた、源を同じくする天使たち。
「私が行こう」
フレアの思考を断ち切るように、剣を握りしめて腰をあげると、遠くの空を見上げた。そこに黒い煙があがっていた。
「あれが…?」
「あ、あれは違います。堕天使ラスエルです」
「いったい何人いるんだ」
「3人です。まだいるかもしれません。
それぞれ勇者さんに向かってもらっています」
「そのラスエルも、私が行こう。近くだろう?」
「……いえ。もう他の勇者さんに依頼しましたから」
そういう問題か?いいかけた言葉が空転する。天使の空色の瞳と視線が合ってその瞳を見てしまったから。思いつめたような色をたたえている。
「フレア」
「……はい?」
どこか、ぼんやりとした表情で。
「何を考えている」
「……イウヴァートを頼みます。妖精をつけますので」
「君は?」
思わず問いかけ、その腕をつかんでいた。
「わ、わたしは……」
動揺したように身をひいて、逃げるようにシーヴァスの手を払った。
「わたしは、他の勇者さんが気にかかるので…」
いうなり翼をひろげて飛び立とうとした天使を、シーヴァスは強引に引き戻していた。腕のなかに抱きしめ、顎をとらえて、その唇をふさいだ。何かを確かめるように長く口づけて、抵抗しようとしない天使を離し、その空色の瞳に自分が映っていることを確認しながら、
「もういちど聞く。何を考えている?」
まっすぐ見つめて、囁くように問いかけた。フレアは視線をそらした。そんなふうに暗い瞳で、視線を避けるような彼女ではなかったのに。
「……イウヴァートを頼みます」
それだけいって空へ飛び立っていく。引きとめようとしたシーヴァスは、その素早さに苦笑しながら、天使を見送った。
「すべてが終わって天界へ戻ることになっても、突然いなくならないでほしい」
と、いつだったか、シーヴァスは天使にいったことがあった。何かの折りに、ふとした拍子に、よくぞ本音がいえたものだ。黙って消えないでくれ、と。それで、もし、あの天使が「帰ることになった」と告げに来たら、どうするつもりなのか。その刻は、刻一刻と近づいてきている。
出逢いのときから今までの、漠然とした、奇妙に「時」の感覚のずれた記憶だけが、残されるのか。それとも、忘れてしまうのか。
忘れる?そう考えたとたん覚えのある不快感がたちのぼった。
「シーヴァス様……」
そのとき黙々と歩くシーヴァスの傍で、やはり黙りこんだまま同行していた妖精ローザが、意を決したようにいった。
「フレア様は、堕天使ラスエルの討伐について、何と仰ってましたか」
問いかけてから言葉が足りないことにすぐ気づいたのか、恥じたような表情をして、言葉をつけくわえた。
「シーヴァス様に依頼しなかったことについて、ですけど」
「もう他の勇者に頼んだとかいっていたが?」
質問の真意がつかめずに問い返すと、ローザは軽く笑った。
「その前に依頼しようと思えば出来た筈なんですけど…」
小さくつぶやくと、溜め息をつくように羽根を揺らした。そして、それ以上は何もいわずにシーヴァスの傍を飛びまわっている。シーヴァスも、どういう意味なのかと問いつめようとはしなかった。ただ、
「いいのか?」
ふいに足をとめて、ローザに向かって微笑んだ。
「現場が近いようだが……」
指さす先にどす黒く渦巻く空があった。ローザはそれを見てからシーヴァスを仰いで、真剣な表情でうなずいた。
「わかりました。フレア様を呼んで参ります」
空を映す瞳が暗く淀んでいる。フレアは、ぼんやりと地上を見おろしていた。何か考えなければならないことがある。このままではいけない、と。そう思ったとき、
「天使様っ!シーヴァス様が目標の敵と接触しました」
ペテル宮に飛んで知らせにきたローザが、
「イウヴァートとの戦いです。急行なさいますか」
と、フレアのすぐ目の前で叫ぶようにしていった。
「…っ!」
その瞬間、夢から覚めたように、フレアのなかで何かが音をたてた。考えこんでいる場合じゃないと、翼をひろげて飛んだ。ひとこともいわないまま、地上の、シーヴァスのもとへ……
その戦いは呆気なかった。天使が急行するまでもなく呆気なく、堕天使イウヴァートは、シーヴァスの剣にたおれた。それは、シーヴァスが強くなったという証だったのかもしれないが、シーヴァスのもとへ舞い降りたフレアは、ただ彼を見つめていた。剣をふるって敵に向かう彼を。
その表情は青ざめていて、その身体は震えていた。
「フレア様…?」
戦いを終えたあと、堕天使イウヴァートの成れの果てを見つめたまま動こうとしないフレアに、妖精ローザが、そっと声をかけた。フレアは、はっとしたように顔をあげた。
「……あの、ね。ローザ。わたし……」
「天使様?」
微笑んで、ローザは、こどものように頼りなげな天使の頬に手をあてた。
「もう何も申し上げませんから、フレア様の好きになさってください」
同じ言葉でも、その声音が違う。呆れた口調ではなく、宥めるように「後悔のないように」という言葉は呑みこんで、
「先にペテル宮に戻ってますので」
と、ローザは空高く飛んでいき、その姿を消していく。それを見送りながら、フレアは少し首をかしげた。ようやく我に返ったようにシーヴァスを見た。
「フレア…」
妖精とのやりとりをどう見ていたのか、シーヴァスが天使の傍にきて、天使の視界からイウヴァートの姿を隠す位置に立ちふさがる。そんなシーヴァスを不思議そうに見上げて、フレアは、そっと息をついた。
何をどう考えていたわけでもなかった。ただ、このままではいけないと。漠然とした気配に押されている。それは刻が近づいてるからかもしれなかったが。
「シーヴァス。ひとつだけいっておきたいことがあるんですけど」
息をつくように、けれど、はっきりとした口調でいった。何だ?というふうに表情を揺らしたシーヴァスをまっすぐに見て、
「わたし、シーヴァスのことが好きです」
そう、いった。確かにそういったのだが、どうも喧嘩ごしになっているので、ムードも何もあったものではない。
「いろいろと考えていたんですけど。アドラメイクとの戦いのときに、
シーヴァスがわたしを信じてくれなかったことが、
とても悔しくて…哀しくて……」
アドラメイクの最後の言葉に動揺したシーヴァス。行方不明になり、勇者として今までのようには戦えないと、そういったシーヴァスのことを、フレアはずっと考えていた。道具と考えたことなど一度もなかった。なのにシーヴァスは、それを信じてはくれなかった。
「わたしはシーヴァスにとって何なんだろうって。
いつも…だけど、どういう意味で…とか。
けど、そうではなく、わたしがシーヴァスのことをどう考えているんだろうって……、
そのほうが、ずっと大切なことじゃないかと……」
「……待ってくれ、フレア」
「シーヴァスが傷つくのを見るのが、いやなんです。
もう戦ってほしくないと思ってしまうんです。だめですか?」
「そして私の代わりに他の勇者を行かせるのか?」
……依頼しようと思えば出来た筈なんですけど、と。ローザがいっていたのは、このことか。シーヴァスは苦笑した。いや、それ以前にすっかり動揺していたのだが、そんな様子は見せまいとしている。
「ずいぶん勝手だな。他の勇者はどうなっても構わないと?」
動揺を気取られたくないので、言い方もきつくなる。フレアは不意をつかれたように、うつむいた。
「……そういう意味では……」
「なら、頼む……」
ふいに言葉がこぼれた。頼む、と。シーヴァスは淀んだ空を見上げた。
「残された時間は、あとどれくらいだ?
戦いはあと少しで終わるのだろう。なら最後まで戦わせてほしい」
最後の刻が近づいている、と。あと少しだと思っているからか。いま言わないと、この天使は、ひょっとしたら、もう自分のもとには来ないかもしれないと、そんなことを考えていたからか、シーヴァスは自分でも驚くほど素直な言葉を口にしていた。フレアは、とたんに、むっとした顔になった。
「……いやです」
せっかく素直にいってやっているというのに。
「頑固だな」
シーヴァスは溜め息をついて笑った。
「私は君のために戦いたいといっている」
金色の髪に指をからませて、
「君は私にとって必要だ。戦いが終わっても私の傍にいてほしい……」
それだけのことを一息で言葉にした。緊張していた。どれほどの貴婦人に愛を囁こうと、緊張したことなど、これまで、ただの一度もない。
「シーヴァス?」
慌てた声が返ってきた。
「な、何いってるんですか。わたしは…」
「天界に戻ります、か?」
至近距離で見つめて微笑んだ。フレアが真っ赤になって首を左右に振るのを見ていた。反射的な仕草に「いいえ」という意味がこもっているかどうかもわからなかったが、次に天使の口から出てきた言葉は、
「わたしのほうが先に好きになったんです」
で、やはり喧嘩ごしにしか聞こえない。うろたえたように顔をふせるから、その頬をつつんで上向かせた。
「……そう思いたいなら、そう思っていればいいが。私のほうが君に対する想いは強い筈だ」
妙にきっぱりシーヴァスまで喧嘩ごしになっている。
「いいえ。わたしのほうが強いです。だから、あなたの傍にいます」
…いたいです。と、声が小さくなった。思わず抱きしめると、逃げることなく寄りかかってくる。心地よい重みに、シーヴァスは微笑んだ。
「今日は逃げないのか?」
「……そんな、いつも逃げていたわけじゃ…」
シーヴァスの胸に顔をうずめたまま、抗議の声をあげている。意識したら口づけを受けることが怖くなったのだと、シーヴァスの気持ちがわからないまま、こうして抱きしめられることも……
あと何度こうして会えるのかと、そればかり考えてしまっていたから。
「終わりが来なければいい、と、考える自分が、いやでした……」
「そうか…」
呟いたとたん笑い声になった。
「な、に、笑ってるんですか…っ」
真っ赤になるフレアに、吹きだすように笑った。こういうときに茶化してしまうのもシーヴァスの悪い癖だったが「また、からかったんですか」と本気で怒った声をあげたフレアに手をのばして引き寄せて、抱きしめた。
「愛してる…」
耳元にささやいて、口づける。
「私も同じことを考えていた。終わりが来なければいいと」
終わりがはじまりになればいい、と。抱きしめて口づけて、その腰に手をまわして、何も考えずに、気持ちのままに、ゆっくりと押し倒そうとしたとき、
「天使様ぁ!グリフィン様がとっても強い敵に遭っちゃったみたいです〜」
妖精フロリンダが、ふたりの間に割り込むようにして飛んできた。びくっと飛び撥ねるようにシーヴァスから離れたフレアは、
「グリフィン?あ、ラスエルねっ?」
と、慌てた声をあげた。フロリンダが、シーヴァスと天使を交互に見やって首をかしげている。フレアの言葉に、シーヴァスが先に反応した。
「ラスエルだと?私が行こう」
「……だめです。もうグリフィンに頼んであるんです。
って、この間もいいましたけど、だめです。ここから遠いですし…」
きっぱり断って、フロリンダに向きなおっている。
「あのぅ、天使様ぁ、グリフィン様を援護してくださいませんか?」
「うん。もちろん行くから」
「瞬間移動はできないのか?」
「できません。すみません、飛びます」
それは照れを隠す為で、翼をひろげて、空へ舞い上がろうとして、フレアはふいにシーヴァスの肩につかまった。
「あの、すみません。また今度……」
シーヴァスを見つめる瞳は、いつもの明るい色をたたえていた。シーヴァスが見とれた瞬間、天使はその唇に素早く口づけて離れると、ぱたたっと逃げるように飛んでいく。
「あ、天使様ぁ!」
そのあとを小さな着ぐるみの妖精が追っていく。
暗く淀んだ空。もうすぐ、と「刻」を告げている。その暗い空の下で、シーヴァスは微笑んでいた。天使のいう「また今度」というのは、また今度会おうということなのか、また今度つづきをしよう、ということなのか、いったいどちらだろうかと、よからぬことを考えている。
世界が終末に近づきつつあることすら気にならないほどに……