■花降る森の怪異・おまけ■ さやぎさま
勇者シーヴァスにあらためて感謝の言葉を伝えたローザは、もうひとりの恩人、ベイル・
ローウェルを探して、フォルクガング邸の広大な庭をさまよっていた。
シーヴァスの私室に面した中庭から始めて、前庭、裏庭をあらかた探したつもりだったが、何故か一向に見つからないのである。
「どこへ行かれるとも言われなかったということだけれど…力を探れば分かるかしら」
勇者として見出したわけではなかったが、それにふさわしい力を秘めた人物である。
ローザは短く呪を紡ぐと、力を周囲に向けて放った。
微風に乗って、枝葉を揺らしながら流れていったそれは、やがてある一点で反応を返してきた。
「こちらね…あら、ここは…」
切り出した石を密に積み上げてつくられた壁の向こう、高い位置に据えられた窓から望むやや薄暗い内部からは、馬のいななきが漏れてきている。
館の西端に位置するその建物は、厩であった。
間を置かず蹄が土を叩く音が響き、それに引かれるようにローザは羽根をひらめかせた。
巡らされた壁を回ると、青毛の馬を引いて厩から出てきた青年の姿が認められる。
声を掛けようとローザが唇を開きかけた時、短い黒髪が揺れ、何気ない動きで顔があげられた。
吊り上がり気味の黒瞳を細めたベイルは、特に驚いた様子もなく笑みを向けてきた。
「よう。来るかと思ってたぜ」
「ベイル様…何故、そう思われたのですか?」
虚をつかれたせいか、挨拶の言葉も忘れて眉を上げたローザに、青年は軽く馬の背を叩きながら応じてきた。
「お前さん、生真面目そうだからな。大方、俺に助けてもらったって、
わざわざ礼のひとつも言いに来たってとこだろ?」
「…おっしゃる通りです。ベイル様、先日は有難うございました」
端然と礼をほどこしながら、ローザは変わった人だ、とあらためて評価を下していた。
シーヴァスも一筋縄ではいかぬところがあるが、この人物にはさらに癖があるように思える。
「気にすんな。咄嗟にああ動いちまったってだけのことだからな」
「いえ、私の油断もあってのことですから」
即答したローザに、ベイルはわずかに目を見開くと、珍しく苦笑めいたものを見せた。
その表情がわずかに翳りを帯びているように思えて、ローザは何故か戸惑いを覚えてた。
「…ほんっとに真面目だねえ、お前さん。ローザだったか?」
「そうですが…何か?」
「ああしたのは、俺の勝手な考えもあってのことだ。
目の前で女に怪我されるっていうのは、結構たまらねえからな」
「…そういうものなのですか?」
「まあ、お嬢さんやお前さんは術だかで怪我は治せるんだろうが、
普通の人間はそうはいかねえだろ?」
軽い調子で続けた青年の指先が、無意識にか腰に下げた長刀の柄に触れる。
そうしてみて初めて、自身の動きに気付いたように視線を落とすと、手を動かして、黒い鞘を軽く叩いた。
「剣の腕だけで、全部を守り切れるってわけでもねえからなあ」
半ば瞼を伏せながらそう言った青年の唇には、微かな笑みさえ浮かんでいた。
ローザはどう言葉を掛ければよいものかと迷っていたが、彼が答えを望んでいるわけではないらしいことだけは察せられた。
やがて沈黙を払うかのように、二人の周囲をさわりと音を立てて涼風が行き過ぎる。
なびいた髪を押さえたローザの瞳が、ベイルの唇の動きを捉えていたが、声は発せられていないのか、風に流されたのか、彼女の耳にまでは届くことはなかった。
「ベイル様、今、何と…?」
「ん?ああ…大したこっちゃねえさ」
顔を上げたベイルは無造作に髪をかきあげると、そう言って笑んでみせた。
紡がれた呟きは聞き取れなかったが、ローザは確信していた。
短く放たれたそれは、祈りの言葉。
唐突に、誰に、何に対してのものか、という問いが脳裏をかすめる。
だが、問い質す理由は自分にはない…
その当たり前といえる事実に突き当たったローザは、胸中に広がるさざめきに似た思いに囚われてゆくのを感じていた。
それを振り払うように、ことさらに姿勢を正すと、一息に言葉を放つ。
「…お引き止めして申し訳ありませんでした、ベイル様。
何処かへお出かけになられるところだったのでしょう?」
「ああ、まあな。だが、俺ひとりで出掛けるわけじゃないぜ?」
「は…?」
「ほら、後ろ見てみな」
上げられた手が示している先を振り向いて見たローザは、思わず眉を上げた。
鮮やかな緑に包まれた庭園を縫うようにつけられた小道を、金の髪の青年が歩みを進めてくるのが見える。
その傍らに、寄り添うようにして立っているのは青銀の髪の少女であった。
人目につくのを考えてのことか、翼を消し、人と何ら変わりのない姿をとっている。
青年の唇が動き、何事かを問いかけると、彼を見上げた少女は柔らかに微笑んで言葉を返している。
余人が見れば、その睦まじい様子に笑みを誘われるような情景、としか映らないだろう。
だが、それを違うものとして捉えなければならないことが、ローザの心を掻き乱していた。
「気になるか?」
不意に掛けられた声に、ローザははっとして顔を向けた。
いつの間にか間近に近付いてきていたベイルが、腕を組んで二人の様子を見やっている。
「…ええ、あのお二人は…」
頷いたローザは、その視線を追うように向き直ると、言葉を続けた。
「あまりにも近しい存在になり過ぎています…それが、心配です」
「…あいつは、そのうちお嬢さんの翼をもぎとっちまうだろうよ」
「!ベイル様!?」
静かに放たれた台詞に、ローザは愕然としていた。
薄々は感じていた彼の天使への想いを、こともなげに投げ付けられたのだから。
陽光の眩しさを受けてのことか、ベイルはわずかに顔を顰めながら言った。
「天使だろうと何だろうと構いはしねえさ…本当に欲しいと思っちまったんならな。
ましてや…望みがあるってんなら、なおさらのこった」
「それは…」
「今は、このままで満足だろうが…」
否定も出来ず、言葉を失くしたローザに視線を合わせると、唇の端を軽く上げてみせる。
「何かきっかけになるようなことでもありゃあ、どう出るか分からねえぜ?」
「…煽るおつもりなのですか」
「まさか。俺のちょっかいなんざ必要ねえさ」
思わず表情を険しくしたローザに、あくまで罪のない様子でさらりと応じると、こちらに気付いたらしい二人に向けて、ひらひらと手を振って見せている。
「お嬢さんがお嬢さんである以上、あいつを止めることなんざ出来はしねえよ」
「…分かっています」
いや、分かっていたつもりだった、と言う方が正しいだろう。
二人の想いを感じ取りながらも、あえて目をそらせていたことにあらためて気付かされて、ローザはきつく拳を握り締めていた。
「お前さんはどうしたい?」
ベイルの言葉に、何を、と問い返す必要もなかった。
答えなど、とうに出ているのだから。
「…私は」
「…ローザ!ベイル!」
自身の名を呼ぶ高く澄んだ声に、ローザは気付かぬうちにうつむけていた顔を上げた。
光を弾いて煌きを撒く青銀の髪を揺らせて、天使が小走りに駆け寄ってくる。
苦笑混じりの表情を浮かべながら、金の髪の青年はわずかに遅れてそれに続いて来ていた。
「よかった…二人とも一緒にいたんですね」
そう言って、ふわりと微笑んで見上げてきた青の瞳には、曇りひとつ見られない。
この方の心を引き裂くようなことだけは、したくはない…
「…ローザ?どうしたの?」
「天使様…」
心配そうに声を掛けて来る天使の様子に、ローザはそれ以上何も言えなかった。
気付いたシーヴァスが、黒髪の青年を軽く睨み付けると、
「彼女を困らせるようなことを言ったのではないだろうな、ベイル」
「人聞きの悪いことを言ってくれるねえ…別にどうってことはねえ話をしてただけさ」
肩をすくめて、あっさりとそう応じると、からかうような笑みを向ける。
「それより、どうせ森に行くんだろ?
感謝しろよ、折角鞍まで着けて、準備万端整えてやっといたんだからな」
「私は頼んではいないぞ?」
眉を顰めてそう言いながらも、シーヴァスは厩の中へと姿を消した。
その背中を、穏やかな色を浮かべた天使の瞳が自然と追ってゆくのを、ローザはただ見つめていた。