■1日だけの散歩■ エルスさま
いつもいつも変わらず晴れている空は、マイアの目にはいまいましいものにしか映らなかった。
きびきびした言動と凛々しい口調のせいで、いつでも怒っているような印象を回りに与えてしまうこの絶世の美女は、この日は本当に心の底から怒りを覚えていた。何に対してかと言うと、彼女が導き守護する者――勇者の一人、シーヴァス・フォルクガングにであった。
シーヴァスは、ヘブロン王国指折りの大貴族の現当主、社交界で果たさなければならない努めはたくさんあるのだし、両家の令嬢方との交際もそのうちに入るだろう。けれど、マイアには納得できない。
(なんだってあいつはっ、あんな、あんなっっっ!!)
昨夜の夜会に出かけたシーヴァスに、彼女はついていったのだ。別に、どうしようと言う明確な意図はなく、ただ単に、彼の仕事兼生活に興味があって……平たくいえば彼を見ていたくてこっそりと姿を消してあとを追いかけたのだった。
すぐに彼女は後悔した。人々の談笑が届かないバルコニーで、どこかの姫君と楽しげに語り合っている彼の姿を見てしまったから。
あんな笑顔を、彼女は知らない。彼女の前では彼はあんな顔を見せない。身体中が熱くなって、気がつけば彼女は太陽が昇りかけた白い空の中を無我夢中で飛んでいた。
重たい疲労を感じてベテル宮を目指している彼女は、未だに晴れない胸中の靄をもてあましていた。
(なんだろうな、この気持ちは……)
なぜ自分は、こんなにもシーヴァスに憤りを感じるのだろう。なぜ、こんな悔しいような悲しいような気持ちになるのだろう。
自覚しないうちに、彼女の唇からは切ないため息が漏れていた。
「それは嫉妬だな」
天界を訪れたついでに久しぶりに再会した友人は、マイアの中の感情にあっさり名前をつけてくれた。
「嫉妬……だと?」
「そうだ。まあ別に、悪いものではないから気にするな」
この黒髪の天使は、マイアの数少ない友人の一人で、アルスアカデミアでの同窓生だ。さらに、マイアが気軽に話のできるもっと稀少な異性でもある。何しろマイアの気性はなまじな男には強烈すぎて、相手がつとまらないのだ。
それはさておき、マイアは憮然として彼を上目遣いににらんだ。
「嫉妬のはずがないだろう。なぜこの私が嫉妬など」
「嫉妬しない者なんていないさ。むしろしないほうが異常だぜ?」
「そんな女々しい感情、私が抱くわけがないだろう。私は――」
――誰よりも強い存在になると、心に決めているのだから。そのためには、不必要なものは一切切り捨てたのだから。
たとえば、恋する心。
(認めるものか。なぜ私が、あいつに嫉妬などしなければならない。必要ないのに)
弱い感情は、ずっとこのまま凍てつかせていくつもりだった。それをシーヴァスは、溶かそうとする。
「マイア」
考えに耽っていた彼女を、友人の声が引き戻す。顔を上げると、彼の手には一枚のコインがあった。
「賭けをしよう。敗者は勝者の出す条件に従うこと」
「何を、いきなり……?」
「君が勝てば、俺は君の条件を飲む他に、俺の最も大切なものをあきらめる。どうだ?」
まだ彼の急な提案に戸惑っていた彼女だが、その言葉を聞いて驚愕した。彼が大切にしているものが何か、どれだけ愛しく思っているか、彼女は熟知している。それをあきらめる覚悟でいるなど、信じられないことだった。
「……わかった。お前の考えはわからないが、そこまでの覚悟を決めているのなら私も受けて立とう。私は裏を選ぶ」
強気な微笑みを浮かべた青年は、親指でコインを高くはじいた――。
数十分後。
「世話の焼ける」
二枚のコインを掌でもてあそびながら、彼は難しい顔で去っていった空色の翼の乙女のことを思い浮かべていた。
マイアは本当にのせやすい。勇気のいる決断を何よりも尊ぶ彼女なら、ああ言えばきっとかけに応じると思っていたが。
(本当に、計算どおりにはこんだよなぁ)
後は、この手の定番、いかさまによる偽の勝利を得て、彼女に条件を提示した。生真面目な彼女は、今ごろ補佐の妖精に手伝わせて、約束を守ろうとがんばっていることだろう。
「さて、俺は空の上から見届けさせてもらうか」
おそらく天界でも一、二を争う野次馬根性の持ち主である彼は、それはそれは嬉しそうに翼を広げたのであった。
マイアのほうから呼び出しを受けて、シーヴァスは表には出さないもののとても喜んでいた。
豪奢なくせのある金髪の、アイスブルーの瞳の乙女は、シーヴァスにとって重要な存在になりつつある。彼女の孤独と弱さ、優しさを知ってから、ますます思いは募っていった。冴え冴えとした冷たい印象の美貌が、微笑むときは甘く柔らかいものになるその瞬間が彼は好きで、その笑顔を見たくていろいろ贈り物をしてきたが、いっこうに効果がないので焦り始めていたときだった。
待ち合わせに指定されたのは、ヨーストの公園だった。ちょっとした広さがあって、小さい子供を連れた家族や恋人たちがよく訪れる。マイアがここを指定した理由は知らないが、この場所の雰囲気がシーヴァスをさらに浮かれさせていた。
「……待たせた」
平均的な女性よりいくぶん低い、マイアの声が耳にはいってきたとき、シーヴァスはなるべく内面が出ないように気をつけて振りかえった。
そして、絶句した。
「…………………………マイア?」
彼女は空色の双翼を隠し、人の姿をしていた。それ事態は別にめずらしくはない。彼の思考回路も呼吸も止めてしまったのは、彼女の姿だった。
春らしい淡い色合いのオーガンジーをふんだんに使ったドレスを身に着け、高い位置で結った髪に白い薔薇の蕾を飾っている。耳朶には真珠のイヤリング、右手の中指にはエメラルドの指輪が光っていた。
春の女神のようだ、と思わず口にしそうになって、彼は口を押さえた。彼女はこの手の大仰で詩的な賛辞を好まない。
「君はやはり、とても美しい人だな」
だからこう言わざるを得なかったのだが、これだけではとても誉めたりなかった。けれどどれだけ言葉をつくしたって言い尽くせないような気もしたから、彼は口をづぐんだ。
「……おかしくないだろうか」
「おかしいなどと、この世界の誰だって口が裂けても言いはしないさ。ところで、今日の用件は?」
並んで立ってるのも変なので、シーヴァスはマイアに手を差し出して、そっと彼女がつかまってくるのを待ってからゆっくり歩き出した。
「……今日一日、私と街を歩いてほしい」
非常に小さな声で、彼女は言った。そしてシーヴァスは。
「――!?」
十五分くらい、自分の耳と脳と現実を疑った。
マイアの好むものを、長い時間をかけた観察によって知り尽くしていたシーヴァスは、彼女をエスコートして公園の中の森を散策することを選んだ。彼女は、森の中の空気や生き物たちを、この上なく愛している。
「訊いてもいいかな、マイア?」
しばらく黙って歩いていたシーヴァスは、気になってしかたがなかった質問をしてみることにした。
「そのドレスは、どこで手に入れたんだい?」
「……見たてはナーサディア。仕立ててくれたのは妖精たちだ。やはりおかしくないか? 来る前に鏡で見たのだが、どうも似合っているという気がしない」
「そんなことはない。今日の君のように美しい女性は、今まで一度も見たことがない」
――あの姫君よりも?
よほどそうきり返してやりたかったが、マイアは唇を噛むだけにとどめておいた。こんな気持ちのいいところで険悪な雰囲気になどなりたくないし、せっかく隣にシーヴァスがいて、手を取ってくれているのだから。
(……彼の言う通りなのかもしれないな)
あの夜感じたのは、嫉妬。おそらくそれは正しいのだ。星の数ほどの相手と恋を楽しんできたあの天使の言うことなのだし、試験のためにしかたなく目を通した人間の恋愛感情についての研究書に書かれていた事実とも一致している。けれど、やはり認めたくはない。
「マイア?」
訝しげに名前を呼ばれて、はっと顔を上げたマイアは、木漏れ日に照らされたシーヴァスの表情が曇っているのを見て目をみはった。
「何か、気がかりでも?」
「ああ……いや、たいしたことではない」
ごまかした後、ちょっと考えてから、彼女は小さな声で言い足した。
「……心配してくれて、ありがとう」
心臓がものすごい早さで活動し始めたが、彼女の胸ははほんのりと優しい思いで満たされていく。頬に熱が集まっていく感じも、新鮮で悪くない。
この気持ちを表す名を、彼女はすんなり見つけることができた。『嫉妬』は不快だけれど、この感情を受け入れるのは案外いいものかもしれないと、神妙な顔をしているシーヴァスの傍らで密かに彼女は考えていた。
「ほんっと、手がかかるよな」
雲の合間から、二人の天使が地上を見物していた。正確には、今は翼を隠している同胞を。
「で、でも、マイアさんはこの後どうなさるんでしょうね……? 天使と人間との恋は、悲しい結末を迎えてきた例が圧倒的に多いのに……」
「そうだな」
黒髪の青年は、無理やり一緒に連れてきた弟分に視線を向けた。白翼を忙しく羽ばたかせる気弱な幼い天使は、他人と目を合わせるのが苦手で、おどおどとうつむいてしまったが、彼はかまわずに言葉を続ける。むしろそれは、自身に聞かせていたのかもしれない。
「どこの世界だって、どんな種族の間でだって、悲しい恋はあるさ。それに、数字でいくら物事を計ったって、真実なんて見えやしない」
信じたかった。やはりほとんど実る可能性のない恋に身を焦がしている彼だからこそ。
「ま、しばらく見守っていようぜ。彼女は俺たちの大切な友人なんだから」
「……そうですね」
聖なる存在である彼らのこんなやり取りも、秘められた想いも、切なくなるほど透明な蒼穹の中にとけていく。