宙に身を留めたオルフェアの全身から放たれる瘴気は、先刻までのものとは比べるべくもない。
「今までに剣を交えたどの魔物よりも、格は上か」
額ににじむ汗をわずかに感じながら、シーヴァスは剣を握り直した。
より邪悪な存在へと変貌を遂げた魔性に相対すべく、それぞれ身構えるのを待ち受けていたかのように、魔性は奇怪な叫びを上げると姿を消した。
「!転移した!?」
ローザの声が届いた直後、一飛びに懐に飛び込んだかの如く、ナーサディアの目の前に現れた魔性の髪が振り上げられた。
「…ああっ!」
咄嗟に上げた両腕を、薙いだ無数の棘が無残に切り裂く。
反射的に身を引いた彼女の脇に立っていたシーヴァスとベイルの剣が、一瞬の遅滞もなく、魔性めがけて左右から同時に振り下ろされた。
だが、二本の軌跡は空しく宙に弧を描いたのみであった。
手応えのなさに即座に気付いた二人の剣士が、素早く刀身を戻した時、天使の声が響いた。
「上です、シーヴァス!避けて…!」
警告と同時に迫り来る気配を察して、シーヴァスは顔も上げずに、ただ大きく後方に飛び下がった。
風を切る轟音を伴って飛来した魔性の、突き出された鉤爪が一閃し、地面を抉り溝を穿つ。
乱れ散る髪をかろうじてかわすと、体勢が崩れたその一瞬を逃さず、再びシーヴァスは剣を振るった。
『!があああああっ!!』
「ふん…どうやら、痛みは人と同じく感じるようだな」
狙い通り、左腕を付け根から切り落としたシーヴァスは不敵に笑んだ。
血ではなく、黒い粘質のものを傷口からしたたらせながら、魔性は憤怒に顔を歪ませると、獣のように地についていた手足を発条に宙へと舞い上がった。が、
「…逃れられると思うか!」
狙いすまして待機していたローザの拳が横合いから奮われ、懐へと吸い込まれて行く。
『ぐわ…っ!』
渾身の一撃をまともに食らったオルフェアの身体が、見事に吹き飛ばされた。
「はー、お前さんもすげえな」
「あれだけの目に遭わされたのですから、相応の報いを与えてやっただけのことです」
「なるほどな、いい心がけだ。しっかし、妖精ってのはみんな見かけによらねえんだな」
地面に叩きつけられた魔性を追いながら、妙に感心したようにそう言った見知らぬ剣士に、ローザが苦笑を返した時、
『妖精如きがふざけた真似を…許さぬ!』
迫る敵を大人しく待ち受けるはずもなく、オルフェアは素早く跳ね起きるなり、残った右の腕を差し上げた。
途端、視界を覆うほどに広がった髪が、矢の如き速度で急速に迫り来る。
避けられぬと悟り、顔を蒼褪めさせたローザの身体を、無造作に剣士が掴んだ。
「何を…!?」
するのかと問う前に腕が引かれ、胸元に抱え込まれる。
そうしながら、剣士は身を低くすると、即座に地面を蹴った。
「っ…!」
全てを避けることは到底叶わず、倒れ込んでゆく彼の身体の、腕を、足を棘が貫き、切り裂いてゆくのを、ローザはなすすべもなく見つめていた。
「ベイル!」
血を流し、倒れ伏したベイルの姿に、サリューナが治癒の呪を放つべく印を切り始める。
だが、彼の下から這い出してきたローザが鋭く叫んだ。
「…天使様は他の呪を!私が治癒の呪を唱えますから!」
そう告げるなり呪を紡ぎ始めたローザに、ためらうことなく頷くと、天使は異なる響きの声を、歌うように唱え出す。
判断の迅速さに、随分戦い慣れたものだと思いながら、シーヴァスは眼前に浮かび上がった光の方陣を認めた。先刻も見た透明の呪である。
「!?サリューナ!」
呪を放つと同時に、力尽きたように膝を折って天使がくずおれる。
助け起こそうと差し伸ばした手に、しかしサリューナははっきりと首を振った。
「これが最後です、シーヴァス!」
天使の声に打たれたシーヴァスは、無言のままに頷くと踵を返した。
魔性を目指し駆け行く前方から、またもやうなりを上げて髪が繰り出される。
辿りつくまでに呪の効力が持つか、とシーヴァスが身を低くした時、
「はああああっ!」
高い声が上がり、背後から脇をかすめるように放たれたナーサディアの一撃が、烈風を呼び起こし、それを吹き散らす。
剥き出しとなったオルフェアの、異形へと変貌してさえなお女性めいた姿を見据えたシーヴァスは、一息の内に懐へと飛び込んだ。
すべては、瞬きの間のことだった。
振り下ろした上段からの一撃が、防ごうと上げられた腕を断ち切る。
剣を持つ手をひねり、横薙ぎに繰り出した刀身が、奇妙に細い胴を切り裂く。
すかさず腕を引き、切っ先を魔性の胸元へと向けると、
「…魔性の名にふさわしく、深淵へと帰すがいい…!」
狙い違わず突き出した刃が、胸板を深々と貫いた。
刀身の半ばまでが身体に吸い込まれると、びくりと魔性は身をのけぞらせる。
『ひ……人如きに…矮小な人間如きに…我が…我がああああああっ!!』
断末魔の叫びが轟くと同時に、振り上げられた腕が、足が指先から塵と化してゆく。
変化は見る間に胴へと達すると、砂のように、一瞬ざらりと音を立てて崩れ落ちたかと見えたが、地に落ちる前に風に全てが吹き払われ、消えて行った。
「終わったか…」
魔性の身体が跡形もなく消え去ったのを見届けたシーヴァスは、纏いついたものを払うように剣を振ると、それにさえ何も名残が残っていないことに気付いた。
剣を鞘におさめ、周囲に目をやると、空気を淀ませていた瘴気が流れ、次第に晴れてゆく。
光を取り戻した森に、未だ黒々とした姿を横たわらせている巨木の残骸が、ひどく憐れに映った。
その光景に誘われるように近付くと、足下に倒れたものを見下ろして、低く呟きを漏らす。
「こんなことにならなければ、可憐な花を艶やかに咲き誇らせていたことだろうにな…」
「まだ…望みはあるかもしれません」
「サリューナ…」
投げ掛けられた言葉にシーヴァスが振り向くと、その傍らに妖精ローザを、そしてレザンとアゼリアを伴った天使が、静かな青の瞳を巨木へと向けていた。
目を伏せると、祈るように指を組み、動かされる唇からは流麗な響きが流れ出してゆく。
戦いの時のように、美しい中にも鋭さを感じさせるそれではなく、全てを癒すが如きの声音に、シーヴァスはただ耳を傾けていた。
それを追うように三人の妖精の紡ぐ声が乗せられ、次第に高まっていったかと思うと、不意に光が弾けた。
零れ落ちる光の粒子を受けた幹が、根が、漆黒から元の木肌へと緩やかに色を変えて行く。
やがて声は途切れ、放たれた光が消えてゆくと、ふわりとアゼリアが羽根をひらめかせた。
迷うことなく舞い下りた先には、倒れ伏した巨木の根から伸びた一枝があった。
小さな両の手が、慈しむように瑞々しい青葉を包むと、
「この樹は朽ちてしまうけれど…強い生命を宿したこの小さな芽が、いつかまた、この森に花を降らせてくれるわ…」
願いと、祈りを込めたアゼリアの言葉に、傍らに立つ天使が微笑み、微かに頷いた時、
「…サリューナ様ぁ〜っ!!」
静寂を切り裂いて、相変わらず間延びはしているが、焦りを帯びた声が轟いた。
反射的に警戒して身構えたシーヴァスが振り向くや否や、頬をかすめんばかりの勢いで、それは天使の元へと突進していった。
「あっ…フロリンダ!」
風を切って飛来した妖精フロリンダは、驚いたことに、声を上げた天使にぶつかる寸前で宙に留まると、そのまま力尽きたように落ちて行った。
「きゃっ、フロリン!どうしたの、しっかりして…!」
すんでのところで小さな身体を受け止めたサリューナは、慌てていつもの着ぐるみを纏っている妖精を抱え上げた。
茶色の瞳が、天使の青の瞳に合わせられると、見る間に潤んでゆく。
「…サリューナ様ぁ…ローザちゃん…ローザちゃんはぁ…?」
「…私ならここよ」
「!ローザちゃん〜!」
天使の背後から姿を見せたローザを認めるなり、フロリンダは跳ね起きると、一飛びでその胸に飛び込んだ。
「…ふえええええんっ、ローザちゃん、無事だったんだぁ〜!よかったぁ〜!!」
それだけを言うと、あとはひたすらにしがみついて泣きじゃくっている。
照れたような、少し複雑な表情を見せながら、ローザは軽く同僚の頭を叩くと、
「…任務中のあなたには知らせないつもりだったけど、
届いてしまったようね…ごめんなさい、不覚をとって」
「謝ることなんてないよぉ…フロリン、すぐにでも来たかったけど、
丁度グリフィン様、敵のところに着いたところだったから〜…
それにそれに、全然ローザちゃんの力、見つけられなくて〜…
でもでも、ほんとうによかったぁ…」
そう言って、また瞳を潤ませているフロリンダを宥めているローザの姿を見ながら、隣に立ったベイルが破顔した。
「ま、散々な目にはあったが、これで大団円ってとこだな」
「そういうことね。だけどあなたたち」
腕を組んだナーサディアは、立ち並ぶ剣士二人を見渡すと、柳眉を寄せた。
「傷は癒えているっていっても、腕も足も服が破れてひどいものよ?ま、私だって無事じゃ済まなかったけど」
見れば、彼女が腕に巻きつけていた布が姿を消している。オルフェアの一撃を受けた折に切り裂かれたのだろう。
ナーサディアの言葉に、あらためて自身を見下ろしたシーヴァスは顔を顰めた。
街に帰れぬほどではないが、いったい何事があったのか、と周囲に思わせるには充分過ぎるほどである。
「…やはり、お前は災厄の使者だな」
悪友を睨みつけながら、不機嫌を露わにそう言ったシーヴァスに、サリューナは目を丸くし、当のベイルは呵呵と笑った。
数日後、シーヴァスの書斎を、妖精ローザを伴って、天使サリューナが訪れていた。
だが、ローザは例によって暇つぶしに来ていたベイルに、礼を告げるべく庭へと出てゆき、天使はといえば、以前助けた小鳥に賑やかな歓迎の意を表されて、嬉しげに微笑んでいる。
シーヴァスは、一向に天使の肩先を離れようとしない小鳥をすっと掬い上げると、
「?シーヴァス?」
「いつまでも、君ばかりに彼女と話をさせている訳にはいかないのでね」
当の少女には聞こえぬように、そう囁きかけて窓に近付くなり、掌を広げて外に放ってしまった。
翼を慌てたように羽ばたかせた小鳥は、すぐにくるりと円を描いて舞い戻ると、少し怒ってでもいるかのようにシーヴァスの頭上でさえずっていたが、やがて諦めたように何処かへと飛び去っていった。
それを見送っていたサリューナが、シーヴァスを見上げてふわりと微笑んだ。
「あの子は、すっかりあなたに懐いてしまいましたね」
「傷が癒えるまで世話をした人間を忘れるほど、恩知らずではないということだろうさ」
「まあ」
目を見張って、小さく笑い声を上げた天使に、あらためてシーヴァスは尋ねた。
「それで?あの事件の顛末を知らせにきたのではないのか?」
「はい…それでは、レザンとアゼリアのことなのですけれど…
彼らふたりは、あのサリアの森の守護につくことになったんです」
あの後、妖精たちを伴って天界へと赴いたサリューナは、大天使ガブリエルに事の次第を包み隠さず報告した。
さすがに慈愛に満ちた大天使の面も曇りを帯びたが、それは彼らを咎めたためではなかったという。魔物達を、身をもって守るべく動いた妖精たちを咎められるはずもなかった。
事態を把握したガブリエルは、魔性オルフェアの忌むべき策謀に巻き込まれた魔物、ボルンガ達をサリアの森の深奥に住まわせることとし、また人との軋轢を回避すべく、力ある妖精、つまりレザンとアゼリアを守護役に任じ、結界を敷くこととしたのだという。
この処置には、妖精界を統べる女王、ティタニアの口添えもあってのことであった。
天使の話を聞き終えたシーヴァスは、得たりと頷いた。
「理に適った措置だな。これ以上の混乱はこちらも望んではいない…
時を置かず、噂も消えてしまうだろうが…」
「?何か、気がかりなことがおありですか?」
「そうだな、ひとつだけ尋くが…」
言葉を切ったシーヴァスを、わずかに心配そうな表情を見せて、天使が見上げてくる。
手を伸ばして、滑らかに流れる青銀の髪を掬い上げると、低く尋ねた。
「君は…一度掟を破っただろう?咎められることはなかったのか?」
天界における罰則がどれほどのものかは知らないが、地上を守るべくしてやったことだ。
彼女だけを咎めるというのならば理不尽だ、とシーヴァスは考えていたのだ。
一瞬大きく目を見開いた天使は、次の瞬間、やわらかな笑みを見せると、
「はい、罰を言い渡されてしまいました…今日一日は、ゆっくりと休息を取るようにと」
ほとんど力が残っていないにも関わらず、事態が収束するまでは、と忙しく立ち働いていたサリューナを見かねたガブリエルが、早々に措置を決めたのもそのためであったという。
「ですから、お二方には、随分叱られてしまいましたけれど…」
「そうか…それなら、決まりだな」
「?何がですか?」
不思議そうに見上げている天使の細い手をシーヴァスは取り上げると、唇を吊り上げた。
「今日は休日なのだろう?ならば、私に付き合いたまえ…サリアが終わる前に」