■永遠の一瞬■きいこさま
つないだ手の指先が、ふるえている。
胸が、うずいて痛かった。ざわざわと落ちつかなくて、イライラするような、もどかしいような、よくわからない感覚で、体中が波打っている。
(なに、これ)
フレアは、胸をおさえた。
(何なのよ、これっ)
彼が、ふいに顔を覗きこんできたので、息まで止まりそうになる。
「フレア」
いままで聞いたことがないような真剣な声。怖かった。
だから、逃げた。
フレアは、翼をひろげて、空へ逃げた。それが、どんなに卑怯なことか、考えるゆとりもなく・・・
ここは、エスパルダ皇国のゾーナの森。不気味な森は、肥沃な大地につづいて、ラダール瑚へ通じる。この道は、要するにヘブロンへ向かっている。
フレアは、このところ、ずっとレイヴとともに旅をしていた。いまは彼の故郷ヴォーラスに向かうところだ。
「めずらしいな」
黙々と歩いていたレイヴが、ふと足をとめた。フレアも立ちどまった。前方に人影がある。ほっそりとした姿に、とても見覚えがあった。人影がこちらに気づいて近づいてくる。昼間でも薄暗い森のなか、木漏れ日をうけて、彼の金髪がきらきらしていた。
「久しぶりだな。レイヴ」
彼がいった。自分に向けられた言葉ではないのに、また胸が痛くなった。
フレアは、目をそらした。
そう。この道は、ヘブロンへつづいている。
こうして、ふたりが鉢合わせすることもあるだろう。
ふたりとも街道を行ったり来たりの毎日を送ってるわけだし、任務を終えたら故郷に戻るというのも、当然といえば、当然だ。
故国を同じくするふたりは、幼なじみでもある。
「ああ、こんなところで会うとはな」
フレアの連れが、めずらしく気さくな声で、彼に話しかける。この堅物の団長さんは滅多なことでは笑わないので、このときも仏頂面だったのだが、そんなレイヴに優雅に笑いかけて、得意の皮肉な口調で、
「人づかいの荒い誰かさんのおかげだろう」
と、シーヴァスはいった。棘がある。やっぱり胸が痛くなる。フレアは、助けを求めるように、レイヴのうしろにかくれた。
それを見て、シーヴァスの表情が、わずかに歪んだのだが、それに気づいたのは、正面から彼を見ていたレイヴだけで、しかもレイヴはそういうことには、実は、かなり疎かった。
「あの、レイヴ」
うしろの天使が、ささやくようにいった。
「すみませんが、用事を思いだしました」
両手を合わせて、ぺこっと頭を下げると、背中の翼をひろげている。光が彼女のまわりに薄くまとわりついている。
「また、あとで来ますから」
一刻も早く、この場から離れたい一心で、フレアは飛びあがった。
シーヴァスは、そんな彼女を、射るような目で睨みつけていた。
「・・・どうした?」
彼女が消えて、しばらくしてから、レイヴはいった。シーヴァスのきつい瞳が、そのままレイヴを見た。レイヴは、もちろん動じない。
「喧嘩でもしたのか」
天使と喧嘩する人間などいるとは思えないが、あるいはシーヴァスなら、と思っている。べつに理由はない。
シーヴァスは、何もいわずにレイヴをじっと見て、この物事に動じない、仏頂面の友に根負けしたように、肩をすくめてみせた。
「そう見えたなら、そうなんだろう。が、あっちが勝手に避けてるだけなんだからな。空に逃げればいいと思って・・・」
と、何もない空間を宿敵でも見るような目で睨みつけると、突然、レイヴのほうへ体ごと向きなおって、真剣な面もちでいった。
「フレアは、ずっと君と同行していたのか」
「・・・そうだが」
「いつも、あんなふうなのか」
「質問の意味がわからん。明確にいえ」
「・・・」
明確にいえたら苦労はない。レイヴのそばにいたフレアは、シーヴァスの知っている彼女より、数倍もかわいく見えた。きれいだった。そして魅力的だった。いくら堅物とはいえ、ちょっとは心が動かされたりとか、したかもしれない。なんてことを、ふと思ってしまったのだ。
ふたりの姿を見つけたときも、フレアがレイヴのうしろに隠れたときも、胸の奥にわき起こってきた感情の波に、シーヴァスはうろたえていた。
いまも妙な焦りを感じている。
「わからないなら、いい」
歯切れ悪く、言葉がつまる。これでは変に思われる。見れば、レイヴは眉をしかめて何やら考えこんでいるふうだ。
「わからなくていいんだ、レイヴ。少し気が立っていただけだ」
しかし、レイヴは、その言葉に反応して、じっとシーヴァスを見た。この目には、さすがのシーヴァスも太刀打ちできない。若いながら騎士団を統率しているだけあって、何もかも見透かすような強い眼力をしている。
「・・・なるほど」
レイヴは、めずらしく笑を浮かべて、そのまま黙りこんだ。この友人は、無口なのだ。果てしなく。そこで黙り込まれると、先につづける言葉に困るではないか。やむなく、ふたりで見つめ合う恰好になって、いつものようにシーヴァスが、先に言葉をつないだ。
「ひとつ気になっていることがあるんだが、訊いてもいいか」
「なんだ」
「フレアのこと、どう思っている」
また沈黙がおとずれる。レイヴは真面目に考えてから、口をひらいた。
「誠実でやさしい天使だと思っている」
「それだけ、か?」
「ああ」
と、頷きかけて、唐突に顔をあげると、今度は、まじまじとシーヴァスをながめて、ぽんと手をたたいた。
「ああ、なるほど。そういうことなんだな」
今ごろ気づいたのか。さっきの「なるほど」は、いったい何だったんだ。
「そういうことなら、失礼しよう」
唐突に騎士の礼をとって背を向けようとするのを、シーヴァスがとめた。
肩をつかまれて、レイヴが不愉快そうに振り返った。
「逢い引きの邪魔をするつもりはない」
「だれが逢い引きだ。避けられてるといったろう」
それに今さっき見ただろうに、シーヴァスが来たとたん逃げていった天使のことを・・・。思い出すと、顔がゆがむ。
「これでも私は女性の扱いには慣れてるんだが、あの天使だけはどうもよくわからない。からかったら怒るし、真剣になったら逃げる」
言葉が、考えるより先に口からこぼれ出た。相手がレイヴだからだ。
レイヴは、シーヴァスの手から逃れるように身をひくと、すこし面白そうに、この皮肉屋の友人を見た。貴族社会でいつしか身につけたであろう傲慢な態度も、いまは、ない。まるで昔の彼に戻ったようでもある。
レイヴは、内心おどろきながらいった。
「・・・弱音だな」
「ちがう」
「いや、そう聞こえた」
言い切って、レイヴは、肩の荷物を持ちなおした。
「だが、俺にいっても、どうにもならん。そういうことはフレアにいったほうがいい。それに、避けられてるとかいってたが、さっきのフレアは、俺の目には、照れているように見えた」
そういってシーヴァスのうしろを見やって、意味ありげに首をかしげた。
つられたようにうしろを振り返って、シーヴァスは、生い茂る木々のなかに白い翼を見つけた。思わず呆然としてしまう。
「いつから、あそこに・・?」
「話の最初からだな」
だから「逢い引きの邪魔をするつもりはない」といったのだ。空に消えたフレアが、まるで隠れるようにして木々の上に舞い降りてきたのを、レイヴは、ちゃんと見ていたのだ。
「健闘を祈る」
ひとことだけ言い残して背を向けたレイヴを、呆然としたまま見送って、シーヴァスは、生い茂る木々を見上げた。
彼女は、枝のうえにいる。思ったより、とても近い位置にいる。
いままでの会話を聞いていた証拠に、真っ赤な顔をして・・・
「盗み聞きが得意なんだな」
憎まれ口を叩きながら彼女に近づくと、その翼が、揺れた。
「逃げるのか」
びくっとして動かなくなる。
「そのままでいなさい」
叱りつけるようにいって、シーヴァスは、フレアがとまっている木に足をかけた。結構な大木で、枝振りもしっかりしている。
「シーヴァス、あぶないです。わたしが降りていきますから」
焦った声が上から降ってくる。
「だめです。そんな恰好で、無理しちゃ」
「なにが無理だって?」
いつのまにかフレアのすぐそばまで登ってきて、その枝に手をのばして、フレアのとなりに腰かけている。
「こどものときから木登りは得意だ」
ほんとに得意そうにそういうと、フレアを見上げた。フレアは、翼をひろげて枝のうえに軽やかに立っている。
「・・・ほんとに君は「人」ではないんだな」
その姿を見ながら、シーヴァスはいった。そして、気を取り直したように皮肉な笑を頬に浮かべた。
「さっきの会話、ぜんぶ聞いていたんだろう?」
「すみません、シーヴァス。聞くつもりはなかったんですが・・・」
「で、感想は?」
「怒らないでください、シーヴァス。わたしのことを、そんなふうに考えていたなんて気づかなくて、あの、ごめんなさい」
なぜか天使は半泣き状態になっている。
「フレア?」
「わたしは人ではないし、シーヴァスの知っているお嬢様方のように楽しいお話もできません。で、でも、わたしは・・・、だから、どうか、わたしのことを、そんなふうに嫌わ・・な・・」
「・・・え?」
「嫌わないでください・・・」
何だって?シーヴァスは一瞬なにをいわれたのかわからなかった。だってそうだろう。まったく同じことを見聞きしていながら(あの鈍感なレイヴでさえ気づいたことだというのに)この天使は、いったい何をどう聞いてたんだ?ーーーわからない。
「私が君を嫌っていると、本気でそう思っているのか?」
気が抜けたついでに、怒りや苛立ちに似た感覚が胸にのぼってくる。
「君は天使だし、天使と何を話していいのかわからないのは、私のほうだ。
と、さっきも話していたんだが」
「わかりません」
「なにが」
「シーヴァスのこと、わたし、全然わかりません」
まるで喧嘩を売っているようだ。シーヴァスは困った顔をして、フレアに手をのばした。簡単に手が届く。やわらかい指をつかんで引き寄せた。
「だめです!」
翼をひろげて抵抗している。
「て、手を離してください。痛くなるんです」
「そんなに強く握ってないだろう」
「指じゃなくて、ここが痛くなるんです」
すでに痛くてたまらない。胸の奥のほうが、ずきずきしていた。そのくせ体中の神経が、その指先に集中していて、ふるえがのぼってくる。
あのときと同じ。
「フレア?」
ふいに顔を覗きこまれる。フレアは、叱られたこどものように目をつむって、首をすくめた。その首筋まで真っ赤になっている。
ふるえが、シーヴァスの手に伝わってくる。
「こういうときに空へ逃げるのは、卑怯なことなんだよ。フレア」
逃げようとするフレアの手を強くつかまえた。
「私は天界には行けないからな」
そして、引き寄せた。翼から力が抜けて、そのままシーヴァスの胸にころがってくる。まるで空気のように軽い。人とは違う。
天使は「人」と同じ位置に降りてくるが、人は「天使」と同じ場所には行けない。人は、天界には行けない。
天使は、いずれ天界へ帰っていく。そんなことは、わかっていた。
「シーヴァス?」
急に黙りこんだ彼を、彼の腕の中から見上げた。フレアのきれいな髪が、シーヴァスの肩口で揺れた。
「・・・フレア」
はい?といって首をかしげたフレアの顎に手をかけて、そっと、その唇に口づけた。軽く触れるだけのキス。一瞬のことで、何だかよくわからないとでもいうように、フレアは目を、きょとんとさせている。
「あ、ああ、あの・・?」
テンポ遅れでうろたえて逃げだそうとする天使をつかまえて抱きしめた。大切なものを包みこむように、やさしく。
その手のぬくもりに、フレアも抵抗するのをやめて、力を抜いた。
「そう。それでいい。このまま、しばらく」
あと少しで、この苛立ちもおさまるから。と、それは言葉にしなかった。
わけもなく苛立っている。いや、本当は理由がある。
想いが通じないこと、たとえ想いが通じても「別れ」の予感があること、自分だけの力ではどうすることもできないこと。こんなに苦しい感情が自分にもあったのだということ。
「・・・シーヴァス」
腕のなかで身じろいで、フレアが顔をあげた。
「なにか辛いことでもあったんですか?」
心配そうに覗きこんでくるフレアに笑いかけて、その唇にもういちど口づけると、思い切ったように、その体をはなした。
はじめて気づいたが、この天使は、どこか抜けている。
キスされて、またもやうろたえながらも、先刻のように逃げださないのはシーヴァスにいわれた「卑怯」という言葉のせいで、嫌わないでと口走ってしまったのは気が動転していたからで、フレアはフレアなりに必死だったのだが、どこか、ずれている。
あるいは天使には「自惚れ」という感情がないのかもしれない。フレアはまさか彼が自分のために苦しんでいるとは思いもしなかった。
「辛くはないな。いま、君と、こうしているからね」
試しにいってみる。と、フレアは、とたんに、むくれた顔をした。
「・・・また、からかってますね?」
これは日頃のおこないが悪すぎるのだろう。シーヴァスもさすがに自覚する。この天使を手に入れるためには、まず身辺整理をしなくては・・・
「からかうのは、君が、かわいいからだよ」
こういうことをいうから信用されないのだが。
「ありがとうございます」
フレアは、むくれた顔のままそういうと、翼をひろげて飛び立とうとして思いなおしたようにシーヴァスを見た。
「あの、帰ってもいいですか」
「どうぞ?」
からかい顔のシーヴァスを見ながら、ふわっと体を浮かせて、微笑んだ。
いつものことながら、その姿は、夢のようにきれいだった。
キスの余韻に顔がにやけてしまうのは仕方がないとして、シーヴァスは、浮かれた気分のまま枝から飛びおりて、すこし汚れてしまったマントを払いながら、もういちど空を見上げ、フレアが消えていくのを見つめてから、軽く肩をすくめて歩きだそうとして、ようやく気づいた。
すぐそばの大木に背をあてて、偉そうに腕組みをして、斜めにシーヴァスを見上げている彼がいる。相変わらずの仏頂面だ。
「・・・行ったんじゃなかったのか」
「荷物番だ」
仏頂面のまま足下を指さして、あきれたように息をついた。
「この辺は物騒だからな。戻ってみたら、これだ」
親切な男だ。その足下にはシーヴァスの荷物がある。
「それは悪かったな。ありがとう」
上機嫌なので、お礼の言葉もすべりがいい。そんなシーヴァスを面白そうに眺めながら、レイヴは歩きだした。シーヴァスも、その足下の荷物を軽く持ちあげて、レイヴのあとを追うようにして歩きだした。
「ヴォーラスまで付き合おう」
上機嫌のままシーヴァスがいうと、
「べつに構わんが」
レイヴは、あきれ果てた口調で、ぼそっとつぶやいた。
「そのにやけた顔、何とかならんのか」
そして、フレアは考える。
(で、結局、これって何なのかしら)
胸のざわめきがとまらない。けれど、痛みに近い感覚はなくなった。それだけでも、かなり楽になったといえば楽になった。
(ま、いいか。べつに病気じゃなさそうだし)
ざわざわする胸が、いまは少しだけ心地よかった。