■KISS■ 玉菜さま
「こんにちはシーヴァス。しばらくご一緒しますね」
草原を歩くシーヴァスは空からの声に顔を上げた。
インフォスの崩壊まで後二年あまり。数ヶ月前、地上に、彼のそばに残ることを約束した天使だったがその後他の勇者が相次いで戦闘に突入したため、なかなか同行することができなかった。
「ごめんなさい。他の勇者が危険なんです。もう少し落ち着いたら、きっと…」
約束を交わしたとき、もう少し旅に同行して欲しいと頼んだのだが、彼女は申し訳なさそうにそう告げ、下を向いた。彼女の役目の重さ、そしてインフォスの現状を知るシーヴァスはそれ以上強く求めることはできなかった。
「もう大丈夫なのか?」
優しく笑いかけ手を差し伸べる。手をとった天使は翼をしまって大地に降り立った。
「はい、おかげさまで。シーヴァスはいかがでした?」
「私は別に…。いや、君に逢えない寂しさで胸が張り裂けそうだった」
「…私はまじめに聞いているんですが…」
「私も大真面目だが?」
赤くなる様子が可愛くて、ついいつもの調子で言葉を紡ぐ。だが冗談めかした言葉に本当の思いが隠されている。
「私の知らないところで、君が他の誰かと共に居る。その現実が悔しかったな」
「もう、そんなことばっかり…。さ、早く出発しましょう」
「ああ、そうしよう」
頬を染めて、恥ずかしさと嬉しさがない交ぜになった微笑を浮かべた天使に促され、次の目的地への旅を再開した。
道中はほとんどモンスターにも遭わずのんびりしたものになった。他愛も無い会話を続けるうちにシーヴァスは天使の奇妙な行動に気がついた。自分の唇に手を触れたり、こちらの口元を見つめふと考え込んだりしているのだ。
「口がどうかしたのか?」
「え?」
「さっきから気になっているようだが?」
「あ、あの、えっと」
「ん?」
「え〜っと…。ちょっとお聞きしても良いですか?」
「なんだ?」
足を止めて、なにやら言いにくそうにしている天使の顔を覗きこむ。
「キスって…、唇を重ねることですよね…?」
「あ?ああ」
いきなりな問いに柄にも無く戸惑ってしまう。誘っているわけではなさそうだ。
「それにどうして上手とか下手とかがあるんです?」
「な、い、一体、何を…」
戸惑いながらも聞き返すと真面目な顔で説明を始めた。
「ナーサディアが…」
その名の勇者は知っている。天使が持ってきたチケットで彼女の公演を見たのが最初。美しい女性にいつもそうするように甘い言葉で口説いてみたが「悪いわねぇ、私、本気の男しか相手にしないの」とけらけら笑ってかわされた。酒盛りをして色恋抜きでかなり親しくなり、その後も何度か、出会う機会があると一緒に飲んだりしている。
「ナーサディアが言ったんです。この世界ではキスが上手いほうが良いと。それですごいテクニックを教えてくれるから練習しようって言われて…」
「お、おい!」
まさかという思いに声が大きくなる。彼女ならやりかねない。
「もちろんお断りしました!私、シーヴァス以外の方とは…!」
「ん?私以外とは?」
シーヴァスの勢いにつられて思わず口にした言葉は途中で飲み込んだとはいえしっかり相手に聞かれてしまった。
「えっと、あの…」
「私以外の者とは、何だ?」
「……」
嬉しそうに促す。
「はっきり言って欲しいものだな」
「私……以外の方とは、…したく、ありませんもの…」
ぼそぼそと口の中で呟く。何と言ったか判っているが、聞こえない振りをしてその口元に耳を寄せる。
「よく聞こえなかった。もう一回」
「あ、貴方、以外の方とは、キス…したく、ありませ…ん、もの…」
とぎれとぎれにの言葉はようやく聞き取れるほど。
「殺し文句だな、それは」
満面の笑みを浮かべ天使を腕の中に閉じ込める。
「それで?」
「え、何がですか?」
「ナーサディアに言われて、それで?」
頭に血が上り今まで何を話していたのかすっかり失念していた天使は、その言葉とシーヴァスの腕から開放されたことでようやく落ち着きを取り戻した。
「そうでした。それで、唇を重ねるだけなのにどうして上手だとか下手だとかテクニックだとかがあるのかと思いまして。教えてもらいたかったんですけどナーサディアには聞けなかったので、それで貴方に…」
「尋ねたわけか…」
「はい。教えてくださいますか?」
恋愛感情では無くあくまで知的好奇心からの質問のようだ。無邪気な笑顔に溜め息がこぼれる。無知な振りをして誘いをかける貴婦人が相手なら話しは簡単だが、本当になにもわからず、その気はまったく無いくせに誘いの言葉を口にする天使が相手では。
「参ったな」
「知らないんですか?」
思わず呟いた言葉に天使が反応する。
「知っている」
さすがにむっとして答えるが、天使は気にも止めず瞳を輝かしている。
「では、教えてください」
「……」
言葉で教えるのはたやすいがそれではつまらない。できれば実地で教えたい。だがそうすれば免疫の無い彼女は確実に泣き出してしまうだろう。下手をすれば逃げ出してしまうかもしれない。せっかく久しぶりの二人旅、それだけは絶対に避けなければならない。
「わかった」
しばらくの沈黙の後、やっと口を開いたシーヴァスは天使の頬に手を添えて視線を合わせる。その真剣なまなざしに天使がたじろぐ。
「あ、あの…」
「目を、閉じて」
甘い囁きと琥珀色の瞳に見入られたように瞼を閉じるのと唇が重ねられたのはほぼ同時だった。
「?!」
それはほんの一瞬のことだったが天使が硬直するには十分だった。
頬が真っ赤に染まる。目が見開かれるがなにも見えない。聞こえるものは自分の鼓動だけ。なにか言いたいのだけれど声にならない。
「……か?」
その声もどこか遠くに聞こえる。
「大丈夫か?」
シーヴァスが心配そうに顔をのぞき込んでいることに気付く。
「は…い…」
「すまない。そんなに驚くとは思わなかった」
「いえ…、こちら…こそ…」
「少し休もう」
「あの…ご心配…、無く…」
足元のおぼつかない天使の肩を抱くようにして木陰に入り腰を下ろす。
「落ち着いたか?」
しばらく黙って風に吹かれていたがおもむろにシーヴァスが話しかけた。
「…はい」
軽いため息と共に返事が返る。
「そうか…」
優しく頭を抱き寄せて言葉を続ける。
「まず、あの程度のキスに慣れてくれ」
「……」
「上手いとか下手だとかはその後だ」
「シーヴァス…」
「なんだ?」
「…ごまかしましたね…」
拗ねたように呟く。
「うっ、いや、そんなつもりは無い。ただ、物事には順序があるだろう?」
思いがけず指摘され一瞬ひるんだが、そんなことで引き下がるシ−ヴァスではない。
「順序、ですか?」
「そうだ。物事は、はじめが大事なんだ。土台を作らずに家を建てたら、その家はどうなる?最初にすべきことを怠れば結果は出ない。そうだろう?」
「そうですけど…」
何か釈然としない。その思いが顔に現れてしまったらしい。
「不服そうだな」
「そんなこと…」
「わかった。それほど君が望むのなら、“上手なキス”というものを教えよう。こっちを向き給え」
「え?」
「目を閉じて」
「え?え?」
「断っておくが、さっきのとは比べ物にならないからな」
「え、あの、いえ、結構です!」
「どうして?言い出したのは君だろう?」
「や、やっぱり、物事には、じゅ、順序と言うものが…」
近づいてくる顔から少しでも距離をとろうと後ろに引く。
「…そうか。残念だな」
しばらく至近距離で見詰め合っていたが、先に引いたのはシーヴァスだった。
その視線から逃れられた天使は大きく息を吐く。どうやら呼吸することさえ忘れてしまっていたようだ。
「さて、と」
シーヴァスは立ち上がり手を差し伸べた。
「そろそろ出発しよう。日が暮れるまでに次の町に着きたいからな」
「そうですね」
その手につかまり、立ち上がる。
「すみません。余計な時間を取らせてしまって」
「君と共に過ごせるならどんな時間でも有意義なものだ」
「…もう」
赤くなった顔を隠すように俯いて服のほこりを払う。
「堕天使は、」
「え?」
急に真面目な声で話し出したシーヴァスに、驚いて目を向ける。
「堕天使は必ず倒す。インフォスに平和が、そして…」
優しく笑って天使を抱きしめる。
「私のもとに君が来てくれるように」
「頼りにしています」
その胸に顔をうずめた天使の声は小さいものだったがシーヴァスの耳には届いたらしい。答えるように腕の力が強くなったのだから。