■雨■ エルスさま
まさか、降水確率十パーセントで雨が降るとは思わなかった。
マイアは、折り畳み傘も家においてきてしまった自分のうかつさを呪いながら、近くの喫茶店まで駆け込んだ。小ぢんまりして落ちついた店内は混んでいて、彼女と同じ動機と目的を持つ客がほとんどらしかった。
店員に紅茶を注文し、彼女は銀の帳に包まれた世界を窓越しに眺める。
(ついていないな。こんな日に雨とは)
職場で散々ナーサディアやフィアナにからかわれて、それでも定時には外に出ていた。今日が、やっと来たのだから。
(だが、妙なものだな。この私が、こんなことをしているなんて。彼女が知ったら何と言うかな)
豪奢な金の巻き毛を指に絡ませながら、彼女は遠いところにいる友人を思う。友人は、彼女よりもやや淡い色の髪と、深い蒼の瞳を持っている。顔立ちは似ていないが、色彩のせいでよく姉妹と間違えられた。
優しい女性だった。微笑むと周りの空気が変わり、何かを話すと誰もが楽の音のごとき美声に聞きほれた。実際、彼女は最高の歌姫だったのだ。
(あの声に私は憧れ、同時に嫉妬した)
何もかも、彼女とマイアは正反対だった。恋や愛に対する考え方に、それが顕著に表れていた。彼女は自らのすべてをかけて愛することができるが、マイアは――。
「あ……」
かなり店内が混雑してきた。雨宿りのためにこれ以上ここに留まるのが憚られ、マイアは素早く会計をすませて再び外に出た。雨は止む様子もなく、彼女の服も髪も肌も、少しずつ濡れていく。
今日は特別な日。それなのに、どうしてこううまくいかないのか。彼女は苛立ちを押し隠し、早足でどんどん進んだ。
『うまくいかないときに、いらだってもしかたがないわ。
そういうときは、笑うことにしているの』
そう言ったとき、あの麗しい乙女はどんな表情をしていただろうか。そして自分は、どう答えただろうか。
「リリト」
自分は、彼女のように考えることはできない。何もかも、自分とは違いすぎる。誰かを愛するときも、彼女のようにひたむきにはなれない。
バスを乗り継ぎ、目的地のマンションに着いたのはよかったが、時間が早すぎたようでいくらインターフォンを押しても反応がなかった。しかたなく、扉に背を預けて待っていることにして、マイアはハンカチで濡れた髪や服を拭き始めた。
いいかげん、自分は不器用で要領が悪くてあきれ果てる。万事においてうまくこなせる自身はあるし実力もあるはずなのに、こういうことに関してはまったくだめだった。
「だいたい、どうして出迎えようなんて思ったんだろうな」
彼女は苦笑して、青銀の目を伏せた。
昨日、海外に出張していたシーヴァスから、早めに帰れることになったという電話がきて。嬉しかったけれど、それを彼に悟られないようにわざとそっけなく返事をして。オフィスでは大急ぎで仕事を全部終わらせて、定時で抜けられるようにして、マンションまで訪ねていって驚かせようと思ったのに。
「うまくいかないよ、リリト……」
彼女のように振る舞えたら、彼女のようであったら。昔からずっとそう思ってきて、それが叶わなくて苦しかった。彼女に愛されて、幸せにならない男など存在しないだろう。けれどこの自分は、気持ちだけが空回りしてしまう。伝わっているのかどうか、いつも不安になってしまう。
(だめだな)
彼に会ってから、彼が好きだと言ってくれたときから、一人になると弱気になってしまう。マイアは首を振り、少し前に彼がくれた言葉を思い出した。
『私が惹かれたのは、たくさんのヴェールの向こう側にいた君自身だ。
どれだけ君が厳重に自分を隠しても、私はきっと見つけ出せる』
気障な台詞だと今でも思うけれど、マイアにとっては何よりの宝物なのだ。弱さを恐れていたあのときの自分に、大きな力を与えてくれた。弱くともそれが自分であれば何ら恥じることはないのだと、彼が教えてくれた。
「……マイア!?」
スーツケースを手に、茫然と立ち尽くすシーヴァスの姿を認め、彼女は自然に微笑んでいた。
(まだわからないけれど、リリト)
ゆっくりと、静かに彼の傍まで歩いていき、彼女は笑顔のまま口を開いた。
「おかえり、シーヴァス」
――これが自分のやり方なのだと、誇らしく心の中で叫びながら。