■剣の天使 1■ エルスさま
ヘブロン王国には、不定期で御前試合というものが開かれる。
出場者は、たいてい騎士団の精鋭たちばかり。よって、事実上騎士団の実力披露という形になる。
貴族たちの中でも冗談交じりに出場を勧めあったりするが、あくまでも冗談であり社交辞令である。彼、シーヴァス・フォルクガングもそんな挨拶を何度も誰かと交わしてきた貴族の一人だった。
だが、時にはそんなただの挨拶が突拍子もない事件につながるもので……。
件の御前試合が、来月に開催されるというある日の夜、シーヴァスはとある貴族の夜会に出席していた。
集まった人々の話題は、もっぱら御前試合のことだった……と言うより、他にこれといった事件がなく、話の種に事欠いていたのだというのが正しい。
「やはり、レイヴ・ヴィンセルラス殿が優勝でしょうな」
「お若いのに、すばらしい実力をお持ちですもの、当然ですわ」
「我が国の誇りですな」
古い友人のことが噂されているのを聞きとめ、シーヴァスは口元に持っていきかけたグラスを止めた。
「もしもまた戦が起こったとしても、あの方がいるのであれば安心ですな」
「まったく」
(……ふん)
レイヴの名を一躍高めることとなった先の戦で、彼が負った深い心の痛手のことを知っているシーヴァスは、不快げに琥珀の目を細めた。
「おお、ときにシーヴァス卿は、ヴィンセルラス団長と旧知の仲だとか」
「え?」
話を振られることを予想していなかったシーヴァスは、少し面食らった。いつのまにか、彼の周りを数人の貴族の男女が囲んでいた。
「確かにそうですが……それが何か?」
一瞬前の不機嫌をおくびにも出さず、彼は国中の姫君たちを捕らえて離さない笑顔で、にこやかに近くの男に尋ねた。
「これは私が小耳に挟んだ噂なのですが、団長殿が、最近魔物退治のために世界中を旅しているというのは、真なのですか?」
レイヴが魔物を退治したという話はシーヴァスも知っていたが、正義感の強いレイヴの性格からすれば不思議ではないと思っていた。しかし、世界中を旅して魔物を退治しているというのは初耳だった。
「いえ、詳しいことは私も知りませんが。この国の辺境に現れた魔物を退けたという話は聞いたことがあります」
「うむ。では、あのことはご存知ないのですな?」
「あのこと?」
またずいぶんともったいぶった話し方をするな、と少しいらいらしながら、シーヴァスは目で続きを促す。
小太りの話し手は、えへんと一つ咳払いをしてから、潜めた声で信じられないことを告げた。
「……団長殿は、おかしな力を行使して魔物を倒したのです」
「おかしな力?」
「左様。不可思議な光が彼の身体を包み込むと、なんと彼は常人の倍以上の早さで動き、
あれよあれよという間に魔物を一刀両断!
いやはや、本当に面妖な出来事であった!」
口ぶりから察するに、この貴族はその場にいあわせたらしい。だからと言って、信用できるような話でないことも事実だ。
「作り話がお上手でいらっしゃること! さあ、そろそろもう一曲踊りましょう」
「楽しいお話でしたよ」
集まっていた人々は笑いながら散っていき、シーヴァスもこれを塩に引き上げることにした。もともと、こういう集まりが好きなわけではない。
「なんと、信じていただけないのですか。嘆かわしい……」
未だに何かを言い続ける声を背後に聞き流し、彼は広間の出口で上着を受け取った。
馬車の中でぼんやりと窓の外を見るシーヴァスは、ぼんやりとレイヴのことを考えていた。
(不可思議な光……)
それについてはまったく信じていないが、レイヴがなぜか魔物退治をするようになったのは真実だ。騎士団長という忙しい身の上でありながら、彼を戦いに駆り立てるのはいったいなんなのだろうか。
(レイヴのことだ。恐らくあのことを気にかけて……)
「うわあっ!?」
御者の悲鳴とともに、がくんと馬車が揺れた。
「なにがあった!」
大声で前にいる御者に呼びかけてみるが、相当な混乱に陥っているらしく、答えは返ってこない。
舌打ちしながら、彼は剣の留め金をはずし、用心深く外に出た。
片足を地面につけるのと、それはほとんど同時に起こった。
「……!?」
剣を持つ手を、風が撫でた。その刹那、彼の剣は消失していたのだ。
「いい剣だな」
後方から、そんな声が聞こえた。
はじかれたように振り向いた彼の視線の先に佇んでいたのは、彼の剣を片手で持ち、全身を黒で覆った細身の人物だった。声音から、それが若い男だと彼は見当をつけた。
「……私の剣だ。返してもらおう」
怒気を孕んだ彼の言葉とは対照的に、答える相手の青年はいたって楽しそうだ。
「もちろん返すさ。ただし、今じゃない」
「なに?」
「来月、国王の前で武術の試合があるんだろう? 俺もそれに出るから、俺に勝ってみろ。それが条件だ」
「ふざけるな!」
「ふざけてない。ま、無理強いはしないさ」
「待て!」
いいたいことだけ言って踵を返した青年を、彼は急いで追いかけようとした。
「な……!?」
目の前で起こったことを、彼はしばらく信じられなかった。黒ずくめの青年の全身を、淡い緑の光が包み込んだかと思うと、青年の姿は虚空へと消えていったのだ。
そう、まさに夜会で聞いた話の通りに。
「……いったい、なんだったのだ……?」
茫然とした呟きが、夜風に流されていった。