■信じて■ きいこさま
シーヴァス…?
ふと声が聞こえた気がして、シーヴァスは苦笑した。空色の瞳が自分を見ていた。一定以上の間隔をもって自分からは近づこうとしない足元が、宙に浮いている。そう、その足は地についていない。翼がひらひらと揺れている。
自分とは違う存在。
おまえも我と同じコマにすぎん。
魔獣の声がした。頭のなかにずっと響いている、しわがれた、いやな声だ。シーヴァスは溜め息をつくように、ワインを一息で飲んだ。飲んでから、こんな飲み方をするなんてな。と、自分で諫めるように思う。最高級のワインだというのに、その味さえわからない。
我が堕天使のコマなら、お前は天使のコマにすぎん。
手をとめて、そこに何かを見つけたように窓の外を見た。白い影がよぎった気がしたが、そこに天使はいなかった。
宿に泊まり、天使が来るのを待っている自分に苛立った。
シーヴァス…?
と、彼女は首をかしげて、心配そうにシーヴァスを見ていた。死に際の敵の言葉に動揺していることがわかったのか、何かいいたげにしていた。それを無視して、天使に背を向けたのは、自分だ。そして、天使は追ってこなかった。
「……らしくないとは思っていたが…」
ワインをグラスにつぎながら、シーヴァスは、もういちど苦笑した。我ながらこれほどとは思ってなかった、と。
気づけ。お前が何に利用されているかを……
グラスについだワインを、ふたたび一息で飲んで、思いを断ち切るように腰をあげた。荷物を手に持ち、すべてに背を向けるように宿を出た。
「天使様ぁ、勇者シーヴァス様がいなくなっちゃいました!」
ぼんやりしていたフレアのもとに知らせが来たのは、それから間もなくのことだ。
「え?」
ぼんやりと顔をあげて、小さな妖精を見る。
「……フレア様、シーヴァス様が失踪したそうです」
どこまでも冷静に伝えなおすローザは、フレアの反応を伺うようにそっと言葉を重ねた。
「どうなさいますか?」
「……どうして…」
反応が鈍い。何か別のことを考えているように、その瞳が揺らいでいる。
「それは、ご本人に会って確かめるべき事柄ではないかと……」
「……そう。探してくれるかな?」
「かしこまりました」
打てば響くようにいうと、ローザはフロリンダを見た。
「はい!フロリン、行ってきますぅ!!」
ぴょんと飛び出していく妖精フロリンダを見送ってから、さて、といった具合に天使に向きなおって、ローザは首をかしげた。
「何をお考えですか」
「……あれ?ローザは探してきてくれないの?」
きょとんとしている。この反応の鈍さはどうしたことだろうかと、ローザは、ますます心配そうに顔をゆがめた。
「私はあとで探しに行きます。それに彼女のほうが適任ですから……。
それより天使様、シーヴァス様のことですけど、アドラメレクとの戦闘後に……」
炎王アドラメレクの言葉に動揺しているシーヴァスを、ローザも見ていた。共に戦ったあとでのことだ。もしかしたら彼は、たとえ探しだしたとしても、もう戻ってくる気はないのではないかとローザは思っていた。
「ねえ、ローザ」
ローザの気鬱な表情をどう見たのか、フレアは胸に手をあててつぶやいた。
「わたし、シーヴァスにとって何なのかな」
「……………」
「こないだから、そんなことばかり考えてるの」
「あの、フレア様」
いまはそんなことより彼の心を汲みとってさしあげてくださいと、いいかけてローザは口を閉ざした。まだ、そうと決まったことではない。シーヴァスを見つけることのほうが先だと思いなおして、フレアから離れた。
「探してきますので、天使様は報告書でも作成していてください」
言い残して去っていく。
その姿を見送りながら天使は、水晶版に視線を落とした。勇者の居場所を知らせてくれる水晶版から、シーヴァスの光が消えている。妖精が行方不明を告げにくるまえから、フレアは気づいていた。シーヴァスがいなくなったことに。彼の心が「勇者」から離れていることに。
あの戦いのあと、アドラメレクの言葉に動揺するシーヴァスに何をいえばいいのかわからなかった。アドラメレクのいっていることが理解できなかった。ただ、動揺しているシーヴァスにかける言葉が浮かばなかった。
「……………」
考えこむように瞳を伏せて、フレアは、ひとつ溜め息をついた。
月夜に照らされて青白く光るテラスに、シーヴァスは佇んでいた。何をするでもなく、何を考えるでもなく。いや、考えることはあったのだが、頭の半分が痺れているようで思考がまとまらなかった。
「シーヴァス…」
声がして、振り返る。そこに、天使がいた。
「君か…」
あらためて見ると、その輝きに目がくらみそうになる。月夜のしたで白く輝く天使は、そっとシーヴァスに近づいてきた。
「……どうして、急にいなくなったんですか」
不安そうな表情をして、何か別のことを考えているような口調で、
「どうして、ですか」
と、もういちどくり返した。
聞かれて、シーヴァスは苦笑した。胸にわだかまるものは、簡単には言葉にできない。そもそも言葉にすることの大半は嘘でかためてきたのだから。
「勇者として戦う意味がわからなくなった」
苦笑したまま答えた。やはり嘘のように聞こえると、自分で思いながら。
「あの言葉ですか。天使のコマ、とか…」
天使は戦うための道具として勇者を利用しているにすぎないと、あのアドラメレクはいっていた。我が堕天使のコマなら、お前は天使のコマだと。
「コマって駒ですよね。わたし、あれからずっと考えてたんですけど……」
シーヴァスから少し離れたところで翼をたばねて、ふわりと降りたつと、天使は胸に手を合わせて、祈るようにいった。
「わたし、そんなふうに思ったこと、いちどもありません」
「君がそんな風に思っていないことはわかっている」
ただ…と、言葉につまった。何をいいたいのか自分でもわからなくなる。シーヴァスは口を閉ざして、フレアに背を向けた。
「シーヴァス!」
とたんに呼びかけられる。強い声に、思わず振り返ると、天使がほっとしたように笑った。
「…よかった」
「フレア?」
「振り向いてくれた……」
泣きそうな顔になっている。
「こないだ声をかけることができなくて、すみませんでした。
アドラメレクの言葉を理解するのが難しくて、シーヴァスが、どうして……」
声がふるえている。
「どうして迷うのかわからなくて……」
それは信用されていないということだと、フレアには思えた。
「……………」
シーヴァスは溜め息をつくように笑った。この天使は、どうしてこうなのだろうと、溜め息とともに口のなかでつぶやいた。声にはならない。
「シーヴァス。まだ迷ってますか…?」
「ああ」
こんなことばかり、よどみなく言葉が出てくる。
「天使のもとで勇者をするということが、以前のように受け入れられない」
まるで、この天使を困らせようとでもしているようだ。フレアが困ったように顔をふせるのを見て、シーヴァスは顔をゆがめた。何をしているのか、自分でも情けなくなる。天使のコマだといわれたことで何を動揺したのか。シーヴァスには、もうわかっていた。
もしかしたら無意識にでも、この天使は、自分のことを「道具」だと思っているのかもしれない。堕天使にとってのあの魔獣のように、使い捨てのきく道具として扱われているのではないかと……
「……すまない」
「どうしても、だめですか」
フレアが、歩をすすめて近寄ってくる。一定以上近づいてこない彼女が自分のすぐ傍まで来ることを、シーヴァスは待っていた。
「堕天使によって傷ついている人々がいます。あなただけじゃなくて……勇者でなくても、そういったひとびとを守っていくことが貴族としての義務だと思いませんか。どうか平和のために、力を……」
「フレア…?」
言葉をとめた天使に、シーヴァスは促すように声をかけた。つづく言葉を聞くつもりでいた。ありきたりの説得の言葉を。そんな言葉でさえ、彼女が心をつくしていることはわかる。必死になって引きとめようとする天使の言葉というよりも、その仕草を、シーヴァスは見ていたかった。
勇者をやめれば、この天使に逢えなくなる。それだけは確かだ。
「フレア…?」
「……すみません。わたし…」
いったきりうつむいてしまった天使の肩に手をかけると、びくっと顔をあげた。その瞳が濡れているのを見て、シーヴァスは目を見ひらいた。
「な、泣いてませんから」
慌てて離れようとするのをつかまえて、抱きしめた。その瞬間、何もかもがどうでもよくなったような気がして、シーヴァスは笑った。ついにここまできたかと、我ながらおかしくなる。情けないよりは、ましだろう。と、心のなかでつぶやいてみる。
道具と思われてもいい。そんなふうに思える自分も、いるらしい。
「シーヴァス?」
腕のなかで動揺して身じろぐ天使に口づけた。
「……っ」
深い口づけに抗議するように腕を叩いてくるのを簡単に抱きこんで、唇を重ねる。離すと、泣き顔のままシーヴァスを見上げた。
「びっくりするじゃないですか…っ」
胸に手をあてて、痛そうな顔をしている。シーヴァスは笑った。
「わかった。もういちど勇者として戦かおう」
「ほんとですか?」
とたんに嬉しそうな顔をする。シーヴァスはもう迷う必要などないと自分に言い聞かせた。それは、いやなことではなかった。
「ここで天使を疑ったら、堕天使の思う壺だろうからな」
微妙に心とは別のことをいって、シーヴァスは、フレアを見つめた。そもそもこの天使が悪い。視線を合わせようとしなくなったのは、いつだったろう。呼び出さないと滅多に会いにこなくなったのは? 遠慮するように自分からは近づいてこなくなったのは。それまで無抵抗なほどすんなりと口づけを受けていたくせに、突然、拒絶したのは……。
そこまで考えて、額に手をあてた。
「シーヴァス。どうしたんですか」
「……何でもない」
ということにしておこう。理由をつきつめると、やはり情けなくなってくる。
「シーヴァス?」
「今日は視線を逸らさないんだな」
だというのに出てくる言葉は、こんな言葉だ。
「え?」
きょとんと見つめ返してくる。まるで視線を逸らしたことなどないとでもいうように。
「君の泣き顔が見られるなら、たまに失踪してみるのも悪くないな」
茶化すようにいって、何でもなかったことのように笑った。とたんに天使は、顔をしかめた。ずいぶん素直な反応だと、いったシーヴァスのほうが驚いた。
「やめてください…そんなこと」
「……わかった」
心の中で降参のポーズをつくっている。
「約束するよ」
やさしく抱きしめて口づける。この瞬間のためなら、自分の何を押し殺してもいいとさえ思えた。
あのとき、道具として扱われていたのかもしれないと思ったときに浮かんだ感情は、憤りでも怒りでもなかった。何ともいえない感覚、寂しいような、心の芯が凍りつくような痛みだった。シーヴァスは苦笑した。
この天使を愛している。
けれど、その言葉は口にしなかった。
「私は騎士として、……誇りにかけて戦うよ。最後まで」
「ありがとうございます」
あたたかな笑を浮かべて、フレアは微笑んだ。
「よかったですね、天使様」
戻ってきた天使を見るなり、満面笑顔でローザがいった。事の一部始終を木の上から見ていたのだが、それはいわずにフレアの様子を窺っている。
「……うん。シーヴァスが戻ってきてくれてよかった」
「ええ。よかったです」
気に病む必要などなかったほどに、と、ローザは肩をすくめた。
「……………」
ふいに黙りこんで、フレアはそっと唇に手をあてた。
わたしって、シーヴァスにとって何なのかな。魔獣の言葉に動揺したシーヴァスを見た瞬間の、なんともいえない寂しさとともに、ずっとそんなことを考えている。言葉にならない想いが、胸のなかに転がっている。