時は四月。
陽光が光だけでなく、やわらかな熱を地上にもたらしはじめると、それを待ち受けていた
かのように花々が咲き誇り、緑が萌え出す。
頬をかすめる微風の内にも、新たな生命の息吹を感じられる。
淀んだ時の内にありながらも、インフォスという大地そのものが深く息づいている…
そんな思いにふけっていた自身に気付いて、少しあの天使の影響を受けているのかもしれ
ないな、などと考えながら、シーヴァスは森へ向けて馬を進めていた。
「しかし、このような季節に怪異などとは、魔物どもも無粋なことだな」
「化け物どもなんぞに、そんな風情を期待すんのが無理ってもんだろうが?」
思わず放った言葉に、馬首を並べていた黒髪の青年、ベイル・ローウェルがくっと笑みを
もらした。同色の細く吊り上がった瞳には、楽しげな光がちらついている。
白を基調としたシーヴァスの礼装とは対照的に、深い緑の短い上衣に黒の細身のズボンと
いう濃色に身を包んでおり、マントなどはつけていない。腰に下げたやや幅広の長刀が、
馬の歩みに合わせて揺れている。
さながら流れの傭兵といったような風情のこの男が、正規の王宮近衛兵であるなどとは、
いったい誰が思うだろうか。
「ま、どうせ暇つぶしだ。のんびりと花見に来たとでも思えばいいってこった」
「お前の暇つぶしだろう。全く、退屈を紛らわせるのに他人を巻き込むなというんだ」
不機嫌な口調で返したシーヴァスに、ベイルは声を上げて笑った。
「サリアの森で、怪異だと?」
手にした書類から顔をあげたシーヴァスは、椅子に掛け、足を組んだ姿勢のまま、自室を
訪れた青年を見上げた。
客に相対するにしてはいささか無礼な態度であるが、元より気遣いなど無用の相手である。
一方、当の青年はといえば、机の上に置かれた書類をとりあげてみては戻していたが、
「へえ、領内の統計か…一応、領主としての責務は果たしてるってわけだ」
「一応は余計だ。課せられたものをこなせないようでは、こんな地位になど甘んじてい
られないからな…そんなことより続きを話したらどうだ、ベイル」
「ああ、そうだったそうだった」
無造作に書類を放り投げたベイルは、机に片手をついた姿勢で話しはじめた。
「ここ数日、あの森に入った人間が行方知れずになる、って事件が多発してるんだとよ」
「行方知れず?誘拐されたということか?」
眉をあげたシーヴァスは、すぐさまそう尋ねた。
以前女性を攫い、他国へと売り飛ばすことを生業にしていた組織があったことを思い出し
たのである。もっとも、それは天使とともに自らが赴き、壊滅させたのであるが。
「いや、そういうわけでもねえらしい」
だが、ベイルは否定するように軽く手を振った。
「いなくなったにしてもせいぜい半日から一日のことで、全員無事に戻ってきてるって
ことなんだが、問題はその間のことを何一つ覚えちゃいねえってことなんだとよ」
被害に遭ったのは遊びに森に入った子供や、森を貫く街道を通る旅人たちなどさまざまで、
時刻も日中から夜中までと一定していない。
だが、いずれのものも口を揃えて言うことには、最後にいくつもの飛び交う光を見た、と
いう記憶が残っており、そこからのことは完全な空白となっているのだという。
そして気がつくと、森を抜け出た草原の只中に眠っている自身を発見する、というわけだ。
「一応、騎士団から何名か調査に来たらしいが、怪我人が出たわけでも物取りに遭った
奴もいないんじゃ、することがねえからな。ただ聞き込みだけして、さっさと帰っちまっ
たらしいぜ」
「状況は分かったが…それで、何故私のところへ来たんだ?よもや天使のように依頼に
でも来たというのではないだろうな」
「おや、自分から言い出してくれるとは、話が早いねえ」
にやりと笑んでみせたベイルの表情に、シーヴァスは不覚を悟ったが、もはや手遅れとい
うものだった。
「こんな天気の良い日に仕事なんざしてちゃ、黴が生えちまうぜ。さっさと仕度しろよ」
「ちょっと待て!何故私が行かねばならない?」
「俺が非番で、暇だからに決まってんだろうが」
手にしていた書類を取り上げられ、声をあげたシーヴァスに構わず、ベイルはそれらを
手近な引き出しへと適当に放り込んでしまうと、
「先に馬の用意を頼んどいたからな、すぐ出かけるぜ」
そう言って背を向け、ひらひらと手を振って部屋を出て行った。
「お前というやつは、勝手なことを…!」
椅子を蹴って立ちあがったシーヴァスの叫びは、閉じられた扉に当たって空しく散った。
結局数分とたたぬうちに、彼はこの男の粋狂に付き合わされることとなったのである。
空の色さえも覆い尽くして、白と淡い緑という色に染め変えてしまったかのような錯覚。
そんな感覚に囚われてしまうような、幻想的な光景が辺りには広げられていた。
「へえ…話には聞いてたが…綺麗なもんだな」
感心したように声を上げたベイルが、珍しく言葉もなく頭上を見上げている。
柔らかに房を成す、さながら雪のひとひらを束ね連ねたかの如き花の姿に、シーヴァスも
心を奪われていた。
殊の外、この可憐な花を好んでいる少女の姿が、ふと脳裏をよぎる。
「いいねえ…お嬢さんに見せてやったら喜ぶだろうな」
「…すでに私が一度連れてきた。今更誘ったところで、二番煎じというものだぞ」
一枝を間近に引き寄せて、香りを楽しんでいるベイルに、シーヴァスは不機嫌をあらわに
そう応じた。
この男が『お嬢さん』と呼んでいる少女のことを、まさしく思い返していたところに今の
台詞である。機嫌も損ねようというものだ。
「そいつは残念…でもまあ、お嬢さんなら何度誘っても喜んで応じてくれそうだよなあ」
挑発するように、笑みを含んでそう続けたベイルをシーヴァスは睨みつけたが、
「ぐずぐずしている暇はない。私は北側へ向かうから、お前は南を調べてこい。一刻の
後にここで落ち合うということにするからな」
そう言い捨てると、返事も待たずに踵を返して、森の中へと歩みを進めていった。
すぐに木々の間へと姿を消したシーヴァスを見送ったベイルは、遠慮もなく吹き出した。
「ったく、馬鹿正直だねえ…こりゃ、当分飽きねえで済みそうだ」
そう呟くと、自らも身を翻してのんびりと歩き出した。
風にあおられるたびに、小さな花が舞い散り、肩へ、髪へと降りかかる。
「サリアも今が盛りか…あと一雨が来れば散ってしまうだろうな」
音も無く降りしきる花の雨を見上げながら、シーヴァスは呟いた。
華奢な枝葉が触れ合い、心地よいざわめきを生み出してゆくのを耳にしながら、焦るでも
なく歩みを進めてゆく。
特に急ぎこなさなければならない公務があったわけではない。
あの書類なども、現状を把握しておくために読んでいただけのことで、後にしたところで
問題が起きるほどのこともない。
興味を誘う公演や夜会の予定も数日は入っておらず、ベイルの誘いは、言うなれば格好の
気晴らしといったところだったのだが、不意に天使のことを持ち出されて、苛立ちが先に
立ってしまった。
「たかだか数週会っていないというだけで、これとはな…」
勇者はインフォス全域に彼を含めて五人おり、天使である彼女はただ一人だ。
出会ってからかなりの年月が過ぎているが、顔を合わせないでいる時の方が多いだろう。
広大な大地にはさまざまな争いや事件が満ちている。今はカノーアの勇者と同行している
はずであるが、どうしているのだろうか。
この事件を妖精たちが見つけていれば、依頼をしに私の元を訪れていたかもしれない…
そう考えて、シーヴァスは自嘲の笑みを漏らした。
仮にも天使の勇者となったものが、あえて波瀾を望むなど本末転倒ではないか。
だが、それでも…
「…誰だ?」
惑いはじめた思考が、耳にした微かな音によって断ち切られ、シーヴァスはそちらに顔を
向けた。いつでも抜き放てるよう剣の柄に手をかけると、油断なく足を進めてゆく。
戦いの内に研ぎ澄まされた感覚が、その人物―人とは限らないが―の気配を知らせてくる。
それはひどく剥き出しなもので、警戒という言葉など知らないかのように足早に近付いて
くる。
近くの住人か、とシーヴァスが手を下ろした瞬間、軽く、小刻みな足音が響いた。
それに続いて、高く澄んだ声音が放たれる。
「…ローザ!どこにいるの?お願い、返事をして…!」
「…サリューナ!?」
「えっ…」
小さく声を上げて、一瞬びくりと身をすくませた少女がおそるおそる顔を向けてくる。と、
深い青の瞳を、驚愕に大きく見開いた。
立ち並ぶ木立を抜けて姿をあらわしたのは、流れる青銀の髪と、青の翼を持つ少女。
天使サリューナであった。