この森に来れば、思い出さずにはいられない人物。
だがまさかこうも唐突に出会うなどとは思っていなかったサリューナは、自身に向かって
近付いてくる彼の動きを目にして、ようやく声を出すことができた。
「シーヴァス…!あの、あなたがどうしてここに?」
「ここは一応私の領内だからな、いても不思議はあるまい?」
苦笑を交えながらも至って冷静にそう応じたシーヴァスは、目の前にまで近付いてくると、
サリューナを見下ろしてきた。
その腕がすっと上げられ、青銀の髪に絡みついていた白の切片を、ひとつ取り上げる。
「…幻ではないようだな」
「え…?」
微かな、囁くように零れた呟きの意味をはかりかねて、サリューナは顔を上げた。
しかし、彼はそれには応じるつもりはないらしく、花を指先で弾くように宙に放ってしま
うと、視線を合わせてきた。
「私はある事件が起こっていると聞いて、ここへ来たんだ」
「事件、ですか?それはいったい…」
「それは後でいいだろう。それより、ローザを探しているようだったが、どういうこと
なんだ?」
「あっ、はい、それが…」
鋭く見据える彼の眼光に促されて、ためらいつつもサリューナは事情を話すことにした。
心を決めさせたのは無論それだけのことではない。事件という彼の言葉に、もしやという
思いがあったのである。
「突然、姿を消してしまったんです。事件の探索を依頼していたのですが…」
「何だか、訳の分からない事件だったわね」
強力な格闘術を操る魔人との戦闘に勝利した勇者ナーサディアは、艶やかに波打つ髪を
かきあげてそう言った。
「ええ…あの魔人も、また様子がおかしいようでしたし」
応じながら、サリューナは以前のエスパルダでの事件を思い返していた。
その折も、今回も戦いの最中に魔人は異変を起こし、不可解にも自ら退いていくような行
動をとったのである。
「背後に、堕天使の影があるのかも知れない…彼と同じに…そういうことね」
「ナーサディア…」
冷静にそう告げてきた声音に微かな翳りを感じて、サリューナはナーサディアを見上げた。
それに気付いた彼女が、ふいに眉根を寄せると、指先で額を突付いてくる。
「きゃっ!あ、あの、ナーサ?」
「こら、なんて顔してるのよ、天使様?美人が台無しじゃないの」
額を押さえたサリューナに、ナーサディアは柳眉を開くと、鮮やかに微笑んでみせた。
「私だって、迷いがないわけじゃないわ…持てる力ほど心が強くはないから。だけど、
目を背けることだけはしていないつもりよ」
「…はい、分かっています」
例えどれほどの痛みを受けても、けして逃げ出そうとはしないしなやかな彼女の気性を、
サリューナはよく知っている。
これまでも、そしてこれからも、彼女の強さは翳りを見せることはないだろう。
微笑みを返したサリューナに、ナーサディアは頷いてみせると、
「全く、心配性なんだから…それより、任務はこれで終わったし、他に予定がないなら、
街で祝杯といかない?」
「…あの、飲まなくてもいいのでしたら、ご一緒しますけれど」
思わず一拍をおいてそう応じたサリューナの脳裏を、一瞬の衝撃がかすめた。
閃く光芒とともに飛来した、叫びめいた声が聴覚に突き刺さる。
…天使様…!
「ローザ!?」
ただ一言を伝えた声は、何者かに断ち切られたかのように唐突に途切れてしまった。
「どうしたの!?まさか、あの子に何かあったの?」
「今、彼女の声が…待って、力を放ってみます」
ただならぬ気配を察して声をあげたナーサディアにそう告げると、サリューナは瞳を閉じ、
急ぎ呪を紡ぎ始めた。
放たれた声そのものが天を目指すと同時に、視界は上空へと移動し、間もなくインフォス
全域を捉える。
特有の力を持つ妖精の居場所は、その身から放たれる力を自らが閉じてしまわない限り、
天使は苦もなく把握することができる。
だが、キンバルトにフロリンダの放つ力を感じる以外には、何一つ反応はなかった。
「だめだわ…ローザの存在がどこにも感じられない…!」
「焦るのはやめなさい、サリューナ」
沸きあがってくる震えを押し留めるかのように肩を掴まれて、サリューナは顔を上げた。
「おそらく、ローザの声がした位置なら探れるでしょう?落ちついてやってみるのよ」
「…はい!」
的確なナーサディアの言葉にサリューナは頷くと、再び感覚を研ぎ澄ませていった。
空間にわずかに残っているだけの気配を探るのは、かなり困難なことである。
だけれど、地域をある程度絞れば…
最近、殊に事件の多発している北インフォスに向けて、より濃密に編んだ呪を向けてみる。
と、おぼろげながらも細い光の帯となって、ローザが移動した軌跡が浮かび上がってゆく。
「…見つけた!」
エスパルダ南部からファンガム全域をくまなく経由して、ヘブロンへと繋がったそれは、
ある一点で確かにぷつりと途切れていた。
「分かったのね?どこなの?」
「はい、ヨースト近郊の森です」
「ヨースト?なら、ここからは近いわね」
即座に返されたその台詞から、次に彼女が何を言おうとしているのか察したサリューナは、
思わず止めようと唇を開きかけた。
だが、またもや伸ばされた指先が、今度は頬を軽くつついてきた。
「だめよ、一人でなんて行かせられないわ。あなたの力が尽きかけていることはとうに
お見通しなんですからね」
反論を許さない口調で、きっぱりと告げたナーサディアはサリューナの手を取り上げると、
悪戯っぽく片目を閉じてみせた。
「さあ、術で一緒に運んでもらうわよ?おいていったりしたら、二度と私は依頼を受け
ないと思いなさい」
「…分かりました」
冗談めかした言葉の中に込められた思いを汲み取ったサリューナは、感謝を込めて頷いた。
「…そして、ここに転移してきたのはつい先程…一刻ほど前のことです」
この森に辿りついてすぐに、サリューナは再度ローザの力を探ってみた。
しかし、なおも反応は得られず、また邪な気も感じられなかったため、二手に別れて探し
始めたのである。
「ですが彼女の気配どころか、人の姿さえ見えないので…どうしたものかと思っていた
ところなんです」
「なるほど…君と会ったことも、偶然というものではないのかも知れないな。ローザが
ここで起きている事件を察知したのならば、なおのことだ」
腕を組んだシーヴァスはそう言うと、白き花の降る森を見渡していたが、
「ともかく、そういうことなら私も協力しよう。この森は広大だが、四人ならばさほど
時間のかかることでもあるまいしな」
「四人…?では、他にどなたかいらっしゃるのですか?」
一人多いことに気付いて尋ねたサリューナに、シーヴァスは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「ああ、君も知っている男だ。もっとも、会わせるのははなはだ不本意ではあるが…」
「しかしまあ、結構な広さだぜ、こりゃあ」
下生えを適当に避けつつ歩きながら、ベイルは誰にともなく呟いた。
どこまでも白に霞み、果てがないのではないかとも思わせるほどに続いている連なりと、
仄かだが、確かに甘やかに薫る芳香に、どこか酔わされた心地になってしまう。
「案外、こうしてふらふらしてるうちに、この花に惑わされたのかもしれねえな」
ふと思いついたことを口にしてみたベイルの背後に、何かが迫る気配が沸き起こった。
ぎしり、と軋むような音が同時に耳に届き、長大な影が覆い被さってくる。
黙って背中を取る奴は、そのまま斬られても文句は言えない。
その信条に従って、素早く身を屈めたベイルは、鋭く振り向きざま腰の長刀を抜き放つと、
すかさず横薙ぎに強烈な一撃を放った。
短く鈍い音とともに、奇妙な手応えが伝わってくる。
「…なにっ!?」
朽ち木を砕くような感触。
この場合比喩ではなく、それは事実として目の前にあった。
「…グ…アアッ…」
上げられたのは悲鳴だろうか。
人がするように、受けた傷に伸ばされた手は、細く節くれだった枝。
身体の半ばを砕かれ、なお立ち尽くしているその姿を目にして、ベイルは呟いた。
「ポルンガか…こんなところにいる化け物じゃないだろうに、なんでまた…」
ポルンガ―主にデュミナス帝国に生息する魔物の一種で、いわゆる木人である。
その幹に人と似通った顔を持ち、人語を解するが故か、比較的穏和な性質が知られている。
受けた打撃がよほど効いたのか、それ以上襲ってくる気配がないのを察して、長刀を下ろ
しかけたベイルの鼓膜を、高い声が叩いた。
「ばか、周りを見なさい!囲まれているわよ!」
ひゅっ、と鋭く風を切る音が響いた直後に、右手後方で奇声が上がる。
弾かれたように踵を返したベイルの目に映ったのは、周囲を取り囲むポルンガの群れ。
そして、それを軽く蹴散らしている鞭を片手にした女だった。
まるで踊り子のような、戦うにはおよそ不向きな出で立ちだが、細い腕がひらめくたびに
数体の魔物がまとめて吹き飛ばされていく。
「へえ、やるねえ…おまけに大した別嬪ときた」
口笛でも鳴らしてやりたい気分だったが、せっかくの好機を逃すベイルではなかった。
包囲の輪が崩れた一点を目指して地面を蹴ると、幅広の長刀を大きく振り上げる。
「…はあああっ!!」
吐き出した気合いとともに繰り出された一閃が、二体のポルンガを薙ぎ倒した。
その一撃で包囲の網に間隙が生まれる。
それを目にした女はベイルに頷いてみせると、身をひるがえして一散に駆け出した。
魔物が立ち並ぶ最中をすり抜け、わずかに後方を付いて走りながら、ふとした思いつきで
ベイルは女に声を掛けた。
「ひょっとして、あんたも勇者様かい?」
「!?どうしてそんな事を…まさか」
驚きをあらわに首を巡らせた女は、それでも足を緩めることなく尋ねてきた。
「ヘブロン…ヨーストにも勇者がいると聞いているわ。それがあなたというわけ?」
「いいや、残念ながら違う…だが、そいつの知り合いってとこでね。ま、そんなことを
話してる場合じゃねえか」
人の走る速度よりは遅いが、着実に後を追ってきている魔物が起こす異音を背中に聞きな
がら、ベイルは前方を見据えた。
「そいつもここに来てる。二人よりは三人だ、なんとか合流するとしようぜ」
「わかったわ」
波打つ長い髪を揺らせて応えた女は、そう言って頷いた。