■ラビエルの日記 2■ エルスさま
結局少しも頭を休ませることができぬまま、ラビエルは地上に広がっていく新しい光を見つめていた。いや、新しくも古い光というべきであろうか。現在の地上界の時間は、同じ所を巡っているのだから。
「天使様……」
気遣わしげなシェリーの声に、彼女は首だけ向けて微笑んで見せる。だがやさしい妖精の表情が曇ったままだったのだから、きっと成功していなかったのだろう。ラビエルは無言で目を伏せ、シェリーのそばを通り過ぎようとした。
「天使様?」
「……今日はどうしましょうか……。勇者たちの行動を教えてもらえますか?」
「あ、はい」
シェリーは返事をしたが、すぐには動けなかった。若い天使の姿が、とてもはかなげでつらそうに見えたのだ。地上に来てから今まで、一度もそんなことはなかった。
彼女と同じく天使の補佐をしているリリィも、自分のことのように心配していた。
「どうしました、シェリー?」
「えっ?」
いつのまにか、ラビエルがシェリーの顔をのぞきこんでいた。
「あ、え、えっと……」
「気分が優れないのですか? 今日は休暇にしましょうか」
「え、あの、違います。平気です。心配しないでください天使様」
笑ってごまかしたことをシェリーはあとになって激しく後悔した。
今日は、シェリーはアーシェの補佐を任された。とはいっても、アーシェはこの間一仕事終えたばかりで、今は待機中だ。要するに、彼女の相手をするのが任務である。
アーシェの銀の髪は遠目にもよく見える。ヘブロンの街中でスライムを売る少女をシェリーはすぐに発見することができた。
「アーシェ様ー」
降りていくと、アーシェはつまらなそうに唇を尖らせた。
「なんだ。今日も天使はこないの」
「ええ。なんだか天使様、とてもおつらそうで……」
「ふーん」
アーシェは半眼になって、小声でシェリーにささやいた。
「まーだ決着ついてないの?」
「はい、昨日こじれちゃったらしくて」
人間と妖精の少女は、顔を見合わせて同時にため息をついた。
同じころ、ラビエルは勇者から面会の申し込みを受けていた。
「ナーサディアが?」
「はい。どうなさいますか、天使様?」
ラビエルは細い指を唇に当てて、少し考えた。
本音を言えば、今日は外に出たくなかった。だが、断ってしまってはナーサディアは気を悪くするだろう。
責任感の強い彼女は、自分の都合を最優先させることがなかなかできない。
「行きましょう。彼女は今どこにいますか?」
リリィから場所を聞くと、ラビエルは翼を大きく広げ、羽ばたいた。
ナーサディアは、ヘブロンの森で待っていた。
波打つ茶色の髪のこの美しい踊り子は、会えばたいてい二日酔いなのだが、今日は違うように見受けられた。
「おはよう」
「久しぶりですね、ナーサディア」
翼をたたんで並ぶと、ラビエルよりもナーサディアのほうが背が高い。
(そう言えば、彼のことも見上げなければならなかった……)
昨日の一件が思い出され、ラビエルは陶器のような白い肌をかすかに朱に染めた。
「単刀直入にいいましょうか。わたし、昨日あなたたちの事を見ていたの」
「え!?」
驚きのあまり、ラビエルはさらに赤くなる。ナーサディアは髪をかきあげ、言葉を継いだ。
「わたしもあそこで修行していてね。それで、シーヴァスという勇者と話もしたわ。……何を話したか、知りたい?」
「そんなことは……」
本当は気になってしかたがなかったのだが、天使であるという事実が、ラビエルの心を押さえつけていた。
「だから駄目なのよ」
心を読んだかのようなタイミングで言われ、ラビエルははっと目を見開いた。
「ねえ、わたしとラスエルのことを話したわよね?」
「はい」
ラスエルの名を口にしたとき、ナーサディアの瞳に一瞬だけ切ない光がよぎったが、すぐにわからなくなった。
「あなたそのことを気にしてるんじゃない? だからあの人に想いを伝えられずにいる。違う?」
「……」
「いい? 恋愛なんて必ずうまくいくものでもないけれど、絶対に失敗するって決まってるわけでもないわ。勝敗を決めるのは結局その人の心なのよ。そう思ったから、私は自分の気持ちを正直に打ち明けた。まあ……こんなことになってしまったわけだけれど、自分の行動を間違ったものだとは思ってないわ。あのとき無理に彼を忘れようとすれば、きっとわたしは悔やんだもの。それは確実よ」
「ナーサディア……」
「ラビエル」
ナーサディアは、ラビエルの瞳をまっすぐに見つめた。その強さを、天使の乙女はとても美しいと思った。
「天使だから駄目だなんて、誰も言っていない。それを証明してきなさい」
「でも」
「もしも失敗したら、なんて考えるのは駄目。いいわね」
そのままナーサディアはきびすを返し、街へ続く道のほうへ歩いていった。
少ししてから振り返ると、天使が青い空を飛翔していくのが目に映った。
「偽善ね」
彼女は自嘲気味につぶやいた。
「証明がほしいのは、わたし……」
シーヴァスは、自室の窓から曇った空を眺め、天使を待っていた。
ずっと、彼女にした事を悔やんでいた。軽い冗談のつもりで彼女を傷つけたこと。
そして、思わず抱きしめてしまったことを。
心惹かれたのはいつのことだったか。気がつけば、天使の乙女の春のような笑顔をいつも思い出している自分がいた。その微笑みがとても大切なものになり、常に傍らにいてほしいと望むようになっていた。
彼女が必要だった。彼女がいなければ、きっとこの先へ進むことができないだろう。
それがわかるから、彼は思いを伝えたかった。しかし、彼女が穢れなき天使であるがゆえに、言葉にできずにいた。
「シーヴァス」
硝子越しに柔らかく呼びかけられ、彼の思考は現実に戻された。
「……君か」
波打つ長い茶色の髪は陽光を思わせ、慈愛をたたえた双眸は晴れの日の空の色。彼の愛する乙女はやはり美しかった。
「いつだ?」
「あなたが決めてください。私には……」
「では、明日の朝」
ラビエルが目をみはる。
「そんな急に?」
「ああ。そうだ」
目をそらして、シーヴァスは努めて淡々と言った。
「早いほうがいいだろう。残された時間もわずかなのだから。明日、堕天使ガープとの決着をつける」
ラビエルが帰ったあとも、シーヴァスは窓辺から動かなかった。
もう彼女の姿は見えない。それでも彼女を映していた硝子にはまだ温もりが残っているような気がして、彼を切なくさせた。
どうしても、窓を開けて彼女を招き入れることができなかった。この透明な障壁を取り除いてしまえば、彼女に触れてしまうから。彼女の存在を、自分の手で確かめたくなってしまうから。
「今はまだ、彼女に触れてはいけない……」
最後の戦いを前に、彼のハシバミ色の瞳には強い決意の光がともっていた。
その日の朝は、どこかが違うような気がした。
アーシェは寝癖のついた髪もそのままに、宿屋の窓をいっぱいに開いて朝焼けの光を全身に浴びた。
同じはずだった。いつもいつも同じ朝が来て、同じように暮れていくはずであった。それなのに、今朝の朝日はなぜかとても新鮮に感じられる。
「もしかして」
彼女は大急ぎで髪を梳き、着替えて外に飛び出した。朝食は、台所によってパンを一切れもらってきた。たりないような気もしたが、あとでちゃんとすませればいい。
「ラビエル!」
人気のない場所で、天使を呼ぶ。しばらく待っていると、空から一条の光が降りてきた。
「なんだ、シェリーなの」
「なんだはないですよ。アーシェ様ひどいー」
「どうしてラビエルはこないの?」
「実は……」
シェリーはアーシェの肩に乗り、ひそひそと耳打ちした。それを聞いたアーシェの顔に、嬉しそうな、でも寂しさとほんの少しの腹立たしさの混じったなんとも言えない微笑が浮かぶ。
「ほんっとばかなんだから。そういうことは自分で言いにきなさいよね」
花が咲くということがこれほど美しいということを、シーヴァスは今まで知らずにいた。
果てなく続く自然の花壇を眺めていると、すべてが夢のような錯覚を覚える。
昨日の激しい戦いのことも、一夜明けた今となってはすっかり現実感がなくなっていた。ガープから受けた傷を、すべて天使が癒してくれたこともあるだろう。
(天使か……)
彼女もまた、夢なのかもしれない。あんなに綺麗で、儚くも強靭な乙女は、果たして本当にいたのだろうか。
小さな名も知らぬ花をぼんやりと見るともなしに見ていた彼の耳が、小さな足音を捉えたのはそのときだった。
顔だけで振り向いた先に立っていたのは、彼の待ち人であった。
あの戦いのあと、彼はラビエルに思いを打ち明けたのだ。
彼女は一瞬泣き出しそうに顔をゆがめたが、はっきりとうなずいた。彼女の想いも同じだと。
だから、シーヴァスは待っていた。ラビエルが人の乙女として彼のところに戻ってくるのを、信じて待っていたのだ。
不可思議な色彩の天使のローブではなく、質素な麻の服を着たラビエルは、喜びに潤んだ瞳でまっすぐにシーヴァスを見つめていた。
「ガブリエル様は、お許しくださいました。そのかわり、私は翼を置いてきましたけれど」
シーヴァスは、しっかりと愛しい乙女を抱きしめた。確かに翼はなかったが、彼女の体には現実の暖かさがある。それで十分だった。
「それで、シーヴァス。お願いがあるのですが」
「なんだ?」
「私に名前をください」
「名前? どういうことだ」
「私はもう『天使ラビエル』ではありませんから。人間としての名前を、あなたにつけてほしいんです、シーヴァス」
シーヴァスは一度彼女から体を離し、じっとその顔を見つめる。彼女にふさわしい名は、すぐに見つかった。
「では、これから君をルーチェと呼ぼう。『光』という意味だ」
「ルーチェ……」
口の中でつぶやいて、乙女は幸せそうに微笑んだ。
アーシェと同じ時間、ナーサディアも妖精のリリィから同じ報告を受けていた。
「そう。うまくいったのね」
「はい。天使様は人間になられて、シーヴァス様の元へ。ご自分でナーサディア様に会いにこられないことを残念に思っておいででした」
「しかたがないわ。二人がいるのはヨーストだもの。ヘブロンからは遠いでしょ。それで、リリィ?」
「なんでしょうか?」
ナーサディアはめずらしく逡巡してから、そっと尋ねた。
「彼女は、幸せそうかしら?」
答えるリリィは、心底嬉しそうにうなずく。
「ええ。それはもう。一度お会いしてください、ナーサディア様」
「そうね」
口元が自然にほころんでいく。ナーサディアは、長い間凍りついていた心の深い場所が、やさしく解けていくのを感じていた。
世界はゆっくりと進み始める。そこに澄む者たちの時間とともに。
あとがき
照れる……。そしてシーヴァスが無口だー!どうして私が書くとこんなにしゃべんないんだろうってくらいしゃべりません。これじゃレイヴだよ……。私自身、シーヴァスがわかってないんですね、これは。確かに私彼に口説かれたことに気づいたのが一分後だったとかいう過去があるし(^^;;)
最近はフェバを普及させるために友達に貸してるし、こういうシーヴァスはある意味必然なのかもしれませんが、それにしたってひどい(^^;;;)。勉強不足ですね。はあ。
こんなのを投稿してしまうのはちょっと心苦しいのですが、どうか斜め読みでもいいので目を通してみてやってください。ところで、アーシェとナーサディアが出てるのは、多分ドラマCDを聞きながら書いていたためでしょうね。ナーサディアだったらきっと悩んでいる天使の一番のアドバイザーになれるんじゃないかなーと前から思ってたこともありますけど。
「ルーチェ」を勝手に使わせていただいてすみませんでした。ちょっと思いついたもので……。elは天使の象徴だとか何とか聞いたことがあって、人間になるんだったら変えたほうがいいんじゃないかと思ったのがきっかけです。