■真夜中の贈り物■ きいこさま
天使が来るまえに前触れがあるわけでもなかったが、ふと顔をあげた視線の先に彼女がいた。真夜中のことだ。
「フレア?」
窓の外に翼だけが見える。闇のなかでも白く輝いている。シーヴァスは本を閉じて、腰をあげると、ゆっくりと窓の傍に寄った。こつんと窓を鳴らすと、その音に反応して、翼がぴくっと揺れた。天使が振り向いて、窓を開けてくれとせがむような(と、シーヴァスには見えた)瞳で見つめてくる。
「……どうした?」
突然、室内にその姿を現すこともあるというのに、今更なにを遠慮しているのかと苦笑しながら、窓を開けた。すると天使は困ったような顔をした。まるで窓を開けてくれなくてもよかったのに、といいたげな。
「フレア?」
「すみません。こんな夜中に…」
「ちょうど眠れなくて起きていたところだ」
「……あの…」
何かをいいかけて、息をついて、考えるような間をおいてから、
「あ、あの、これを…っ」
といってどこからか取りだした小さな包みをシーヴァスに押しつけてくる。シーヴァスは胸元に押しつけられた包みを見て、笑いながら天使の小さな手をつかんで、包みごと手元に引きよせた。窓枠につかえて転びそうになった天使が抗議の声をあげようと口をひらきかけた、その唇に口づける。
突然のことで、きょとんとしている彼女を見て、笑った。真夜中の訪問だというのに機嫌のいい自分にも笑える。シーヴァスは、ますます困惑した顔つきになるフレアに、ふと真顔になった。
「何かあったのか」
「い、いいえ」
慌てて首をふっている。よろけそうになる身体はシーヴァスが支えていた。両手で包んだ小さな手のなかに小さな包みが、ひとつ。それを見つめて問いかける。
「……中身は?」
「チョコクッキーなんです」
打てば響くように答える天使に、少し、ほっとする。こんな少女のちょっとした仕草や表情をこうも気にするとはなと自分に呆れながら。
「そうか。……」
言葉をつづけようとして、ふと思い出した。今日が特別な日であることに。
「これを、君が?」
「あ、いえ、ティアが…」
「……何?」
みるみる不機嫌になっていくシーヴァスを見て、フレアはフレアで慌てている。そういえば、以前、勇者からの贈りものを届けたときも不機嫌になられたことがあったな、と、ますます恐縮して、肩をすくめた。不機嫌の理由はよくわからないが、とりあえず謝っておく。
「あ、えーと、すみません。今度は、ちゃんとつくってきます」
「それで? 君はこれを渡しに来てくれたのか」
フレアの両手をつかんだまま離そうとしない。その姿勢に困ったようにフレアは、視線をそらすように身をひいた。
「えーと。いえ、実は、ガ……」
いいかけて、言葉がとまる。堕天使ガープの居所がわかった。と、その言葉が声にならなかった。この世界を、インフォスを崩壊させようと目論んでいる堕天使ガープ。人間や魔物に働きかけて、多くの命を奪ってきた彼を、ようやく見つけたというのに。
「ガ…?」
シーヴァスが首をかしげるのを見て、
「あ、あの、これも…って、すみません。手を離してください」
「離したくないな」
「差しあげたいものがあるんです、けど…」
空色の瞳に見つめられて、しぶしぶ手を離すと、ほっとした顔をしたフレアが、また何処かから包みを取りだして、シーヴァスの胸に押しつけた。今度はすぐ手をひっこめている。さっきのよりは大きな包みだ。受け取ったシーヴァスは、その中のものを見て表情をくずした。
「これは、君が…?」
「あ、いえ、わたし。…すみません。今度はちゃんと…」
「今度は?」
ふいに愛しさがこみあげて、抱きすくめて深く口づける。抵抗もせず、不器用ながらも応えてくれようとする彼女の顎をとらえたまま、そっと離れて腕のなかの白い天使を見つめた。きっと意味などないだろう。今日という日のことも知らないのだろうと思いながらも、
「今日のこの日に、これを届けにきたことに、意味は?」
と、訊ねた。半ば、からかっている。
「何かいいたいことは?」
「……あ」
もちろんフレアの「いいたいこと」といえば、ガープのことである。今日のこの日に贈りものを届けにきた意味といえば、やはり、それである。
「すみません」
「いや、謝ることはないな。ありがたく頂戴しよう」
上機嫌なシーヴァスは、フレアの様子になど気づかぬように、
「真夜中の届け物は、チョコクッキーとセーターと、君かな?」
といって、ふいに抱きあげた。抱きあげられたフレアが驚いているうちに、窓の外で浮いたままでいた彼女の翼を上手にかすめるようにして腰に手をまわして、ふわりと器用に窓から室内へ入れてしまう。空気のように軽い彼女だから、そういうこともできたのだが。
シーヴァスは、その軽さに、やはり「人とは異質なもの」を感じながら、そっとベッドのうえへ天使をおろした。
「あの…?」
見上げてくる天使が起きあがろうとするまえに口づけて、その手を軽くおさえて、ベッドのうえに押しつける。
「あ、あの…っ」
深い口づけに、息もできなくなる。やがて首筋におりてきた唇に合わせるようにして、その手が衣裳をほどいていく。今更のように鼓動を早めた胸に手をあてようとしたら、その手も押さえつけられて動かせなくなる。
「ちょっと待…っ」
無言で事をすすめようとするシーヴァスにびっくりしながら、フレアはもがいた。シーヴァスはほとんど夢中になっていた。フレアがそんなこと考えもせず、(それにしては真夜中という時間帯もおかしな話だが)贈りものを届けにきただけなのだろうということは百も承知で、シーヴァスは彼女を抱きしめた。
今日は聖なる告白の日。女性から愛する男性へプレゼントに想いをこめて贈る特別な日だ。いままでのやりとりからして、フレアが、そのことを知らないであろうことも百も承知で。
もういちど深く口づけたとき、フレアの手が背中を叩いた。思いのほか強い力に、シーヴァスは、はっとしたように目をあけた。空色の瞳が間近にあって、うるんだ瞳に、胸をつかれた。
「…シーヴァス……こんなときに意地悪しないでください…」
「意地悪?」
いったい、どこが意地悪だ?と、思わず力が抜ける。
「こんなときって、何だ」
「こ、こんなときって、こんなときです」
シーヴァスの力が弱まったのをいいことに、ずるずると起きあがって逃げようとしている。
「おい」
「ガープが見つかったんです!」
つかまえようと手をのばしたとたん、フレアが叫んだ。
「は?」
シーヴァスが気が抜けた声をあげる。
「忘れてたんですか?」
「いや、忘れるわけがないだろう。ガープは私が倒す」
「……いいです。やっぱり他の勇者さんにお願いします」
「フレア」
「わたしがどんな気持ちでここに来たか。
なのに、シーヴァスったら、意地悪ばかり…っ」
だから、どこが意地悪なんだ?と、ますます気が抜けてくる。
「とにかく…」
自分を落ち着かせるために、わざと溜め息をついて、フレアをあらためて見た。苦悩の日々はどこへやら、想いが通じたと思ったとたん、どうも理性がゆるんで仕方がないと苦笑する。くずれた衣裳と、あらわになった白い肩に、また理性を失いかけて、慌てて目をそらした。
「ガープは、私が倒す。そう誓ったからな」
「誓った?」
「君と、私の心に」
殊更に真剣な顔をつくって、思いきったようにフレアを見つめた。
「私は、いつまでも君のための勇者だ。そういったろう?」
「いいえ、聞いてません」
「いったが?」
シーヴァスがいうと、その真剣に表情を見て、考えるようにうつむいてから、
「いえ、聞いてないです」
と、きっぱりいった。先ほどまでの甘い空気も霧散していくようだと、シーヴァスは心のなかで嘆息した。
「なら、今いった。聞こえただろう?」
「もういちどいってください」
むくれた声に「やれやれ」と息をついて、それでも、にやけてしまう頬のゆるみはどうしようもなく、フレアを見つめたまま、告白するようにささやいた。
「……忘れないでくれ。君は、私にとって必要な存在だ。
私は、ずっと君のための勇者だ。…いつまでも……」
「………」
「フレア?」
「……うれしい、ような…」
「ような?」
「少し、気持ちがいいような……」
「……………」
もっと近くで、抱きしめた距離でささやくべきだったかと、妙なことに悔やみながら、シーヴァスは、フレアをそっと抱きしめた。真夜中の訪問に、期待するなというほうが酷じゃないか?誰にともなく問いかけて、腕に力をこめたとき、
「あ…!」
フレアの身体が、ぴくっと撥ねた。
「すみません。ローザと約束してたんでした」
抱きしめられたまま、離れようと手をつっぱねている。
「…何を?」
いやな予感とともに訊ねた。
「すべてが終わるまで、シーヴァスとは触れる距離まで近づかないことって」
「は?」
「なのに、すっかり忘れてました」
焦ったようにシーヴァスから離れて、唖然としているシーヴァスを残してベッドから飛び降りていく。文字通り、翼をひろげて。こんなときだけ厄介な翼だと思う。その白い翼は、彼女にとてもよく似合っていたけれど。
「……わかった」
手をすりぬけていった白い天使を見ながら、シーヴァスはいった。
「すぐにガープを倒そう。……君は天界に戻らずに、地上にとどまっていてくれるのだろうな」
知らず、口調がきつくなる。が、このとき返ってきたフレアの言葉ほど、シーヴァスを驚かせたものはなかった。
「あ、それなんですけど、流行ってるんですか?」
「?なにがだ?」
「レイヴとグリフィンにも似たようなこといわれたんです。
地上にとどまってくれるのかって」
「は?」
今度こそ茫然自失する。
「あ、それからガープなんですけど。準備が整ったら、また来ますので」
わたわたと窓から外へ身をのりだして飛び立つまえに、シーヴァスを振り返ると、一瞬だけ、つらそうな顔をした。
「ほんとは、戦ってほしくないんですけど。
がんばって援護しますから…」
実はシーヴァスには、その言葉は聞こえていなかった。天使の表情にも気づかなかった。先ほどの彼女の言葉で、頭がぐるぐるしていた。
「それで君は何と…」
答えたんだ?と聞いたときには、天使の姿はどこにもなかった。
「おい」
勝手に帰るな。いや、来るのも勝手だが、翼があるのをいいことに、あの天使は。と、シーヴァスはすでに影もかたちもない天使の姿を探して空をあおいだ。残されたのは、悶々とした想いと、クッキーとセーターである。
「……終わるまで、か」
何ごとにも終わりというものは存在しているが、あの天使とのつながりは「終わり」にしたくないなと、心の底から思った。いま出来ることは「ガープを倒す」ことだと自分に言い聞かせている。
「それにしても…」
グリフィンとレイヴだと? シーヴァスは確かにつかまえた筈の白い天使の心もとなさに、深々と息をついた。