■お願い天使さま■ SEPIAさま
「うわぁ、シーヴァス様のワインですね」
ベテル宮に戻った天使レティシアを、シェリーの声が出迎えた。その横では、ローザが丁寧に頭を下げながら、シェリーの尻尾を軽くひっぱってたしなめようとしている。シェリーは何も気にしていないが。
レティシアの口の端から、思わず笑みがこぼれた。彼女たちとともに、同じ任に就いていることを、喜ばしいと思う気持ちからの笑みである。
「確かに、シーヴァスから頂いたものですけど、よく分かりますね。シェリー」
「はいっ。フォルクガング家のワインっていったら、そりゃもう、有名ですし」
問われて答えた言葉には、勢いがあった。何故か隣のローザは、片手をこめかみに添えて困った顔をしている。
しかし二人の様子よりも、シェリーの言葉にレティシアの注意は向けられた。
「フォルクガング家のワイン…なんですか?」
今初めて知った、というように再び尋ねる。
「そうですよ。って、あ。天使様、ご存知なかったんですか?」
頷くレティシアに、シェリーはラベルを指し示して見せた。
「ほら、ここにフォルクガング家の家紋が描かれてるじゃないですか。
んで、これがブドウ畑のあるお城の名前で、そこの管理はシーヴァス様がなさっている、ってわけです」
意気揚揚としたシェリーの説明に、レティシアはしばしラベルを眺めて、感心しているようだった。
その様子に、シェリーは知っていたことを得意になったように、胸をそらしている。そこに、ローザの鋭い言葉が飛んできた。
「随分、詳しいわね」
振り返って見たローザの表情から、言葉の裏に、『あなたがお酒好きなのは知っていたけれど、それぞれのお酒に詳しいとは知らなかったわ』という意味が読み取れる。なんとなく黙っていられなくなって、説明に付け加えをする。
「実は、シーヴァス様に教えて頂いたから、知ってるんですけど」
あはは、と渇いた笑いをするシェリーに、レティシアは穏やかに「そう」と、頷いてみせた。シェリーとローザのやりとりに、気付いているのかいないのか。多分気付いていないが。
「んで、天使様。このワインどうなさるんですか?」
尋ねたシェリーの言葉に込められた期待にも、レティシアは気付かなかった。
「そうですね…レイヴはお酒を好むようですし、レイヴに差し上げようかと」
レティシアが答えると、シェリーは明らかにがっかりした表情をして見せた。
「そんなぁ、折角いただいたものですし…私たちで、飲みません?
あっ…痛いっ!」
思いっきり尻尾を引っ張られて、叫び声を上げてしまう。振り返ると、尻尾をローザの両手が掴んでいた。
「っもう、痛いじゃない!ローザってば、いきなり何するのよぅ。」
「何じゃないでしょう!全くさっきから聞いてれば。
天使様が頂いてきたものを、どうしてあなたが欲しがるのっ」
ローザの言葉には、いい加減にしろという怒りが込められている。彼女にとっては、天使は同じ任につく仲間であると同時に、自分たちの上に位置する存在であって、その天使に何かをねだろうなどということは、考えもつかないことである。まして今話題になっているのは、天使が、貰ってきた物である。それを自分が味わおうなどと、ローザからすれば、まさに信じられないことである。
しかし、シェリーはそうではないらしい。
「ええー。だからぁ、私たちでって言ったじゃない。
だって、シーヴァス様のワインよ?味わいは繊細かつ複雑、のど越しの爽やかさ。
言い尽くせない味わいなんだもの。
それを人に上げちゃうなんて、それがレイヴ様でも、残念って思っちゃうわ」
どうしても飲みたいと明らかに表す態度に、さらにローザが何か言おうとしたが、レティシアの笑い声に二人ともが、天使に向き直った。
「そんなに言わなくても、シェリーが飲みたいのでしたら、上げますよ。」
笑顔でワイン瓶を差し出されて、一瞬シェリーの動きが止まった。どうやらレティシアは丸々一本、シェリーにくれようとしているらしい。さすがに、それはまずいかなと思う。ローザが怖いことではあるし。
「いや…そんな天使様、天使様が頂いたものですもの、天使様も一緒にお飲みになって下さい」
「私も、ですか?」
「はい」
どうやら、自分がこのワインを口にする、という考えは全くなかったらしく、レティシアは少しの間、瓶とシェリーを交互に眺めてから、再びシェリーの方へ瓶を向けた。
「私はお酒を飲んだことはありませんし、やっぱりシェリーにあげますよ」
と天使は言ったが、シェリーの方は、ここにいる三人で飲む、ということにもう考えを決めていたので、レティシアを説得することにした。
「そんな、さっきも言いましたけど、このワインの味わいはとても素晴らしいものなんですよ。口当たりはとても優しいのに、そこには繊細で複雑な味わいが隠されていて、若飲みでもとてもおいしいんですけど、年月を重ねて熟成を重ねた後の味わいはさらに深いに違いないと感じさせるワインです。ワインをお飲みになったことがなくても、きっと気に入りますよ。それに、このワインにはシーヴァス様のお人柄も、きっと表れてるような気がします。」
熱く語った後、シェリーはレティシアの瞳をじぃっと覗き込んだまま、答えを待った。
「…わかりました。じゃぁ、グラスを用意しましょうか。三人分」
微笑んで答えたレティシアは、グラスを取りに部屋を出て行った。シェリーが手伝おうとその後を付いていく。軽くため息をついて、二人を見送ったローザは、ふと考えた。
天使がワインを口にする気になったのは、シェリーの勢いに押されたからなのか、最後に付け加えられた言葉のせいなのか、と。けれどローザはすぐに頭を振って考えを消した。こういう考えは天使に悪い気がしたので。
翌朝、ある森の入り口で、シーヴァスは合流するはずの妖精を待っていた。
「…遅いな」
確かにこの場所と時間で間違っていないはずなのだが、現われるはずの妖精は、なかなか姿を現そうとしなかった。
いい加減待ちくたびれて、歩き出そうとしたところに、聞き覚えのある声がして振り返ると、ローザの姿があった。
「おはようございます、シーヴァス様。お待たせして申し訳ありません」
そう言って頭を下げるローザに、シーヴァスは首を傾げた。
「…今日はシェリーをよこすと、彼女は言っていたと思うのだが?」
レティシアは昨日確かに、そう言ったはずであった。
ローザはますます申し訳なさそうに、そして言いにくそうに事情を口にした。
「ええ、確かにその予定だったのですが…実は、シェリーは…その二日酔いでして」
意外な事情に、しばし沈黙が落ちる。
「…二日酔い?」
「ええ。…昨日シーヴァス様が、天使様に送られたワインを…少々飲みすぎたようで」
正直に事実を話すローザの言葉に、シーヴァスの眉がひそかに寄せられた。
「まさか、シェリーが一人で飲みきったわけではあるまい?」
この言葉には、そうであってならない、なければいいなぁ、という思いが潜んでいることに、ローザは気が付いて答えた。
「天使様と、私たちで、です。天使様は私たちにもグラスを用意して下さいましたので」
嘘では、ない。
「なるほど?」
続く説明を求められているような気がして、ローザは言葉を続けた。
「それで、私たちも天使様も、とてもおいしく頂いたのですが、シェリーは今日のことを忘れていたようで、代わりに私が参りました」
これを聞いたシーヴァスは、ふむ、と頷いて少しの間考えているようだった。
「まあ、いいだろう。あのワインが君たちに気に入って貰えたのなら、喜ばしいというものだ。」
「ええ、天使様も素晴らしいワインだと仰っていました」
ローザが付け加えると、すでに歩き出そうとしていたシーヴァスは振り向いて足を止めて言った。
「それは良かった」
微かだが、心からの、笑顔付きの言葉だった。
言った後、再び歩き出したシーヴァスの後を追いながら、ローザは天使のことを考えて頭を痛めた。昨日、飲みすぎて二日酔いの床についているのは、シェリーだけではない。
今度、もしまたシーヴァスが、天使にワインを送ることがあったら、何としてでも天使の口には入れないようにしなければ。そう思って、ローザは深いため息をついた。