■ラビエルの日記 1■ エルスさま
ヘブロンは、実に気持ちよく晴れていた。前日まで雨が降っていたためにたまってしまった洗濯物を、どこの民家でもいっせいに干していて、壮観であった。
「あんた、恋してるでしょ?」
そこそこにぎわっている昼時のある食堂で、銀の髪の少女が向かいに座るラビエルに、すぱっと断言した。
「……え?」
今はその両翼をたたんでいるので、普通の人間の乙女にしか見えない(それでもかなりの美貌だが)ラビエルは、大きな目を何度も瞬いてようやくそれだけ返した。
「だからぁ、あんたの話聞いてるとどうしてもそうとしか思えないのよ。まちがいないわね」
「そんな……恋、だなんてアーシェ……」
ラビエルは笑おうとしたが、うまくいかずに強張った顔になってしまう。アーシェはさらに大きな声で言葉を続けた。
「いいかげん認めなさいよ。いいじゃない、天使が恋をしたって」
「よくないですよ。立派に禁忌です」
「じゃあ、あきらめんの?」
「……それしかないでしょう……」
ラビエルの強情さをよく知るアーシェは、黙って大きく息をついた。
地上界の時間がおかしくなり始めてから、すでに四年が経過していた。その間に天使ラビエルは、彼女の選んだ勇者たちと親交を深め、信頼関係を築いていた。
彼女が自分の心に芽生えた不思議な感情を意識するようになったのは、そんなときであった。なぜか、勇者の一人が気になってしかたがないのだ。
その勇者の名は、シーヴァス・フォルクガングといい、ヘブロンの貴族である青年だった。初対面のときから魔物扱いをされるわ、最近は冗談で口説かれたりとどうにも彼女に意地悪をしているようにしか見えないのだが、天使である彼女の澄んだ瞳は、彼が時折見せるさびしげな表情を見抜いていた。
彼の心を救いたいと、彼女は思っていた。しかしそれは他の勇者たちに対しても同じであった。それが、今ではもっと彼を理解したいと願っているのだ。
きっかけとなったのは、先に記した冗談であったらしいのだが……。
補佐をしてくれるリリィとシェリーという妖精たちや、目ざとく彼女の悩みに気がついたアーシェに相談してみると、決まって同じ答えが返ってくるのだ。
『それは恋だ』
と。
(恋……)
天界で入手した新しい武器を手に、ラビエルは勇者の元へ向かっている。
アーシェに会って一日が過ぎていたが、彼女に言われたことはずっと頭の中をぐるぐる回っていて、ラビエルを困惑させていた。
(天使が人間に恋をするなんて、やっぱりいけないですよね。そもそも報われるはずがないこと)
所有する時間も、感覚も異なるのだ。ともにいても、いつかは崩れてしまうのではないか。
彼女の勇者には、過去に天使と恋をしてつらい別れをした女性がいる。彼女が本当につらそうに話したから、ラビエルはやりきれなかった。
(もしも私のこの思いが恋であるとしたら、あの人のためにも忘れたほうがいいのかもしれませんね……)
一度大きく頭を振り、彼女は長い髪を翻して下降をはじめた。眼下の林の中に、彼女の勇者の姿を認めたのである。
「こんにちは、シーヴァス……」
努めて平静に声をかけると、シーヴァスはゆっくりと振り向いた。
(……!)
その途端、ラビエルの胸が大きく音を立てた。
目の前の、ハシバミ色の瞳に捕らえられるような感覚。それは恐ろしくもあり、ひどく甘美でもあった。
なかなか話し出さない彼女をいぶかしく思ったのか、シーヴァスの端正な顔がしかめられた。彼の表情の変化によって、ようやくラビエルは言葉を搾り出すことができた。
「……ごめんなさい。あの、新しい武器と防具を持ってきました。お役に立てばと思って」
「そうか」
手渡す瞬間、ふとシーヴァスの指がラビエルのそれをかすめた。
「!」
触れた個所から電流が走ったように感じ、思わず彼女は手を引いてしまう。
立派な造りの片手剣と防具が、柔らかな背の低い草の上に落ちる。
「ごめんなさい、シーヴァス」
彼女はあわててかがみこみ、落としてしまったものに手を伸ばした。
だが彼女は、一瞬で動きを封じられてしまった。華奢に見えても力強いシーヴァスの両の腕が、彼女をしっかりと抱きしめたのだ。
「な……何を……!」
喉がからからに乾いて、うまく言えない。喉だけではない、彼女の体はまったく自由が利かなかった。彼の腕を振りほどきたいのに、指一本を動かすことすらかなわない。
時間が動いているのか、それとも停止しているのか、彼女にはわからなかった。ただシーヴァスに抱きしめられたまま、彼女は早い鼓動を聞いていた。それが彼女のものなのかシーヴァスのものなのか、あるいは両方のものなのかと、ぼんやりとした頭の中のかろうじて冷静な一角で考えていた。
唐突に、辺りの木々から鳥がいっせいに飛び立った。鳴き声と羽ばたきで我に返ったシーヴァスは、腕の力を緩めた。その隙にラビエルは彼から離れ、自らも翼を大きく広げて碧空に舞う。
止める間もなかった。
彼女のたおやかな姿はすぐに見えなくなり、シーヴァスは大地に散った天使の羽をそっと拾い上げた。
かすかに光っているそれは柔らかくも強靭で、彼に持ち主である乙女を思わせた。
「天使が降りてくるのを見たから、来てみたんだけど……」
小さく草を踏む音といっしょに、そんな言葉が聞こえた。
「お邪魔だったかしら?」
緑の影の中から姿をあらわした人物を視界におさめて、シーヴァスは訝しげに目を細めた。