■棘■ 玉菜さま
ヘブロンはヨーストにある貴族の館。その書斎に年若い当主と彼の婚約者が居た。個人の書斎と言えどそこは大貴族。天井まである巨大な本棚がいくつもしつらえてあり、そこには古今の名著を始め、紳士録、百科事典等の書物がびっしりと並んでいる。
そんな書斎で、公務に忙しいシーヴァスは大きな机に向かって書類を作成し、人間界について勉強する必要のある元天使はソファーに座って一冊の本を読んでいた。
やがて少女は分厚い本を読み終えて椅子から立ち上がる。
その気配にシーヴァスは顔を上げ、彼女に歩み寄った。彼女の読んでいた本は本棚のかなり上のほうに納められていたもので片付けようとすると梯子を使わなければならないのだが、どこか危なっかしい彼女に本を抱えたまま梯子を登らせたくはない。
近づいてきたシーヴァスに気付き笑顔を向けると本棚のほうを向きそして…。
「!」
とっさにシーヴァスは彼女を後ろから抱きしめた。逃がさぬように。繋ぎ止めるように。なぜなら彼女は至って当然のように、本を胸に抱いたまま、飛ぼうとしたのだから。
「え?シーヴァス?」
「………」
「どうしました?」
「…飛ぼうと、したな…」
「え?あら、そう言えば…。ちょっとうっかりしてましたね」
少女の細い首筋に顔を埋める。彼女は翼を捨てた天使。捨てさせたのは自分。このことは心の中の小さな刺となっていた。それは彼女を手に入れたという大きな喜びの中では本当に小さいものだったが何かの拍子に、そう、今のように彼女が天使だったという現実を目の前で見せられたとき、表にあらわれる。
「地上に降りて、後悔していないか?」
うめくように尋ねる。
彼女は優秀な天使だった。あのまま天界にいればかなりの地位を手にしただろう。それを自分のわがままで地上につなぎとめてしまった。あの美しい翼をもぎ取った…。
「…すまない…」
抱きしめる手に力がこもる。
「…シーヴァス…。…そうですね…、後悔は、して、います…」
重い沈黙を破ったのは静かな声だった。そのままシーヴァスの腕を抜け向かい合わせに立ち、言葉を失ったシーヴァスを見つめる。
「だって、あなたがこんなに苦しんでるんですもの。あなたは誤解しています。私がここに居るのは、私のわがままのせいなのに」
そう言って少し寂しそうに微笑んだ。
「……」
「私が…、天界に残っても、あなたには、いいえ、あなたがた勇者には何のデメリットも無かったのです。…私と出会ったという記憶が消えてしまうことになっていたのですから。私という存在があなたがたの中から無くなってしまうのだから、私のせいで煩わされることは一切無くなるはずだったのです。
「そのほうがあなたには良かったのかもしれない…。でも、私はみんなを忘れることはできないから、あなたを忘れられないから、あなたへの想いを抱えたまま天使としての勤めを果たすことができないから…。だから、私はここにきたの。あなたの側に。
「ね、わかったでしょ?私がここに居るのは私のため。私のわがまま。あなたが気にすることは無いんです」
「だが…」
「まだなにかありまして?それともわがままな私が嫌ですか?」
「そんなことは…」
ふわりと片手を彼の首に回す。そのまま彼を引き寄せ、軽く唇を合わせる。
「…あなたが好き。側に…いたいの」
恥ずかしがり屋な少女の意外な行動に驚いているシーヴァスの目を見つめ、再び口を開く。
「あなたは、後悔して無い?」
「私が?」
「あなたが求めたのは天使でしょう?でも、今の私は…」
知らず、本を抱きしめる。指が、唇が震える。それでも視線を逸らさずに。
それは少女の刺。シーヴァスが望んだとき自分は天使だった。側に居たくて人間になった。翼を捨てた事に後悔は無いが、それでも時々心が疼く。本当にこれで良かったのだろうか。ここにいる自分は天使ではないのだから…。
「それこそ誤解だな。あの時、私は君のことを天使だとは思っていなかった。一人の女性として傍にいて欲しいと思ったのだから。私はわがままな性質でね。万物を平等に愛する天使様では一緒にいてもあまり嬉しくないんだ」
「本当ですか?」
「ああ。それとも…」
子供のような笑顔を見せ、
「まだなにかあるのか?わがままな私が嫌になったとか」
先ほどの彼女の言葉を真似てみる。不意を突かれ一瞬驚き、少女は笑い出した。
「やっと笑ったな」
優しく呟くとそっと抱きしめた。が、すぐに体を離す。
「?」
「邪魔だな」
言葉と共に少女の腕から本を取り上げ、ソファーに投げた。
「これでいい」
改めて彼女の細く柔らかい体を抱きしめる。力をこめれば折れてしまいそうだが、天使の時に感じた今にも消えてしまいそうな幻のような感じはもうしない。腕の中にあるのははっきりした実在感。ぬくもりも、鼓動も、香りも。そしてその耳に囁きかける。
「…それにしても、君からのキスなんて始めてだな」
「あ!」
小さく叫ぶと、とたんに耳まで赤くなる。わずかな戸惑いの後に、おずおずとシーヴァスの笑いを湛えた目を見上げる。
「嬉しかった。できればもう一度お願いしたいのだが?」
「……」
「嫌か?」
「……目を、閉じてくれます?」
言われるままに目を閉じると首に細い腕が、ためらいがちに、まわされた。その手に促されるまま体を屈め、そして…。