「君がアゼリアか…だが、レザンの言葉とは随分違うようだな」
シーヴァスは、少女の面に似合わぬ雰囲気を纏った妖精の姿に目を細めた。
長く垂らされた赤い髪は確かに美しいが、その色はまるで鮮血に染め上げられたかの如くぬめりを帯びており、そして朱を入れたような唇には、妖艶なまでの表情を浮かべている。
アゼリアは軽く笑声を立てた。
『彼は、本当のわたしを知らなかっただけ…だから、こんなことになってしまったのね。
でも、もういいわ』
漆黒の根に包まれたレザンを見やると、愛おしげな光さえ瞳に浮かべる。
『こうして、彼らの…わたしの役に立ってくれるのだから…ふふっ…可愛い子…』
「…ローザと、レザンを離してください、アゼリア」
静かに、だが厳然とした響きを帯びて、サリューナの声が放たれた。
「彼らの意思なく自由を奪うなど…こんなことは許されることではありません…!」
穏和な気性の天使の、初めて強い怒りを露わにした表情を目にしたシーヴァスは、軽い驚きに見舞われていた。
感情の昂ぶりのためか、全身からはさらなる輝きの燐光を放ち、青の瞳は闇を貫くが如き光を湛えている。
神の手に成る存在だということを今更ながら思い知らされるようで、シーヴァスは微かな苦味が胸に差すのを抑え切れなかった。
『ふん…忌々しい天使どもが…』
アゼリアはそう吐き捨てると、サリューナの姿に一瞥を投げた。
『美しくはあるけれど…まだ脆い器だわ。壊すのも簡単なようね』
赤い唇が吊り上げられ、細く、白い腕が差し上げられる。
その指先に、急速に邪気が纏め上げられてゆくのを見て取ったシーヴァスは、腰に下げた長剣をすらりと抜き放った。
それに応じるように、サリューナの呪を紡ぐ声が響き、瞬時に光の意匠が三人の眼前に浮かび上がった。
「こいつは…」
「敵から姿をくらまし、攻撃を無効とする透明の呪です。
あまり長くは持ちませんから、気をつけてください!」
驚きを含んだベイルの声にサリューナが応じた瞬間、衝撃が襲いかかってきた。
アゼリアの放った赤い邪気が渦を成し、宙を抉るように叩き付けられる。竜巻の如き勢いに、張られた障壁を通してさえ身体が押し戻されるのに、シーヴァスは顔を歪めた。
「くっ…!加護を受けていてさえ、これか…!」
「あなどれないのは、あの子たちと同じというわけね!」
そう叫びつつ、ナーサディアはアゼリアを睨み据えると、剣士二人に告げた。
「私がアゼリアに向かうから、あなたたちは先にローザとレザンを!」
「心得た」
「美女同志の対決ってわけかい。こんな時でもなきゃ大した見物なんだがねえ」
軽口を叩きながらベイルがレザンを目指して走り出す。
同時に、シーヴァスはローザを救うべく地面を蹴った。
それを見送ったナーサディアは、慣らす様に手にした鞭で地面を叩くと、艶然たる笑みをアゼリアに向けた。
「どうやら、あなたには手加減は無用のようね…いくわよ!」
ローザの元へ向かう途中、二度の邪気が放たれたが、天使が施した呪の効果もあってか、ほどなく絡み合う根の元に辿りつく。
これを剣で打ち砕くのなら容易だろうが、それではローザまで傷つけかねない、と一瞬の逡巡に動きを止めた途端、
「何っ!?」
弾けるように一斉に伸ばされた根が、錐の如き鋭さをもって迫りくる。
咄嗟に飛び下がったシーヴァスは、身体を貫かれるのはかろうじて免れたものの、全てを避け切れなかった。
腕をかすめた一撃に、深く切り裂かれた傷から血が流れ出す。
「!シーヴァス!」
天使の声とともに光が舞い下り、辺りをやわらかに包む。
瞬時に癒された傷に力づけられて、シーヴァスは手にした剣を大きく横薙ぎに振るった。
切り飛ばされた根が地面に落ちる。
「はあああっ!」
多少なりとも痛みを感じているのか、動きが鈍くなったのを幸い、シーヴァスは幾度も深く切りつけていった。
さすがに先刻のボルンガとは違い、ただ切り払うのにも膂力の全てを込めなければならなかったが、さしたる抵抗もなく中心にまで達することができた。
ぎしりと軋みを立てる、密に組み合わされた根を踏みしめて素早く近付くと、意識のない小さな身体をそっと掴み取る。
と、抵抗を感じてシーヴァスは眉を寄せた。
「!これは…!力を注ぎ込むとは、こういう意味か…!」
ローザの身体の至るところに、肌を貫いて微細な毛根が差し込まれていたのだ。引き抜くのは危険だと判断して、短刀を取り出すと一息に繋がりを断つ。
その瞬間、びくりとローザの身体が震えた。
早まったか、との思いが走ったが、前に倒れかけた身体を支えてやると、瞼が微かに上げられた。
しばし惑っていた視線がシーヴァスを認めると、掠れた声が零れ落ちる。
「…?シーヴァス…様…?う…っ」
「…無事だったか。少々手荒になるが、じっとしていたまえ」
「は…?何を…!」
シーヴァスは反論を許さずローザを掴み上げると、即座に踵を返して駆け出した。再び球を閉じようと蠢く根が迫るのに、身を低くして一気に駆け抜ける。
向かう先に、ナーサディアに向けて治癒の光を放つ天使の姿が見えた。
足音に気付いたのか、はっとしたようにこちらを振り向いたかと思うと、大きく青の瞳を見開いた。
「危ない、シーヴァス!」
何を、と思う間もなく、急ぎ駆け寄ってきた天使の両の手がローザを掴んでいた腕を取る。
そのまま、渾身の力を込めて腕が引かれた。
「な…っ!」
唐突な行動に虚を衝かれて、均衡を崩して倒れ込む刹那、背後で異音が弾ける。咄嗟に剣を持った手を付いていたシーヴァスは、その姿勢から素早く首を巡らせた。
再生したのか、鋭さを取り戻した黒い根が、獣の牙のように上下に備えられたその口がまさに閉じられたところだった。
見れば、マントが半ば引き千切られている。天使の行動がなければ、足首から先は喰いちぎられていたことだろう。
「無事…ですか、シーヴァス…?ローザも…」
耳に届いた細い声に向き直ると、シーヴァスは仰向けに横たわったまま、息をはずませている天使を見下ろした。
掴まれたままのローザを守るように、腕ごと抱き締めるように抱え込んでいる。
「全く、君は…時々予想もつかない真似をしてくれる…」
苦笑を浮かべて身を起こした刹那、ベイルの声が飛んできた。
「おい!いいところを邪魔したかねえが、こっちも手伝ってくれよな!」
「あっ…」
からかうようなその言葉に、ようやく今の体勢に気付いたのか、頬を染めたサリューナが抱えていた腕を慌てて離した。
その様子に笑みを誘われながら、シーヴァスは立ち上がると、続いて身を起こした天使の手に、力なく横たわっているローザを預けた。
「息はあるようだが、ひどく弱っている…助かりそうか?」
「はい!良かった、ローザ…!」
安堵と嬉しさに、今にも泣き出しそうにしているサリューナに頷いたシーヴァスは、最早無用の長物と化したマントを外して放り捨てると、ベイルの元へと走り出した。
「なんだ、もうおしまいかよ」
すっかり見物に興じていたベイルは、わざと邪魔をしておきながらつまらなそうに呟くと、自分の元へ向かってくるシーヴァスの姿を横目にしながら、無造作に長刀を振るった。
重みのある厚い刃が叩き付けられると、斬るというより砕かれて根が飛び散る。その手応えのなさに、ベイルは思わず顔をしかめた。
「しまった、あいつを呼ばなくても片がついちまうな、こりゃ…ま、いいか」
こちらの相手は、シーヴァスが斬りかかっていたものほど凶暴でも大きくもないのだが、一度斬撃をあびせたところ、急速に多数の根が張り出して、レザンの周囲を厚く覆ってしまっていたのだ。
人より勝る膂力にまかせて、何度も根を叩き切ってゆくと、ようやく紫の光が奥に覗いた。
切り開かれた隙間からレザンの姿を捉えたベイルは、瞬時に考えを決めた。
長刀を下ろすと数歩後ずさり、利き足を大きく振り上げる。
「たああっ!」
気合いとともに繰り出された蹴りの一撃で、叩かれて弱った根は完全に砕け散った。
「お前…!無茶なことを!」
「平気だろ。妖精ってのは見かけよりも頑丈そうだからな」
走り寄ってきたシーヴァスの台詞にもあっさりと返して、空いた隙間から腕を差し入れて妖精の少年を掴むと、軽い抵抗にも構わず、力任せに引き摺り出す。
すると、何かがちぎれるような音に続いて、甲高い叫びが上がった。
「…っ痛えっ!お前っ、なんてことしやがる!」
「ほら、まるっきり元気じゃねえか。めでたいこった」
砕かれた根の黒い破片を頭からかぶったレザンが、噛み付かんばかりにわめきだしたのを認めて、ベイルは笑った。
その様子を見ていたシーヴァスが、すっと眉を上げる。
「全く…気を急いた報いだと思え」
「なんだと!」
いきりたったレザンにシーヴァスは背を向けると、
「騒いでいる暇があるなら、ついて来るんだ。君の護るべき存在が倒される前にな」
そう言い捨てて、節くれだった根を飛び越えながらナーサディアの元へと向かって行く。はっとして視線を向けたレザンが、赤い妖精の姿を認めて顔色を変えた。
「!アゼリア!おいっ、またかよっ、離せおっさん!」
「近くまで寄ってからな。またお前さんに捕まられたんじゃ、面倒で敵わねえだろ?」
逃れようと暴れる妖精を掴んだまま走り出したベイルは、アゼリアが放った邪気の余波を器用に避けながら、先を行くシーヴァスの後を追った。
「護るべき存在ね…そりゃ身につまされるよなあ、あいつも」
そう言って笑ったベイルの言葉に、レザンは訳が分からず顔をしかめていた。
「二人とも助け出せたようね…」
自分の元へと向かってくる剣士二人の姿を認めて、呟いたナーサディアは瞳を鋭く細めた。
「はっ!」
短く吐き出した声に乗せるように鞭がしなる。
空を切り裂く速さで振り下ろされたそれは疾風を起こし、迫り来る邪気の波を打ち砕いた。
深紅の霧と化して四散してゆくのを、払うように前に進み出る。
と、その流れが脇を通り抜け、自身の前方へと流れてゆくのに気付いたナーサディアは、
つと顔を上げた。
『ふふ…快いほどの力だわ。地を這う虫の中にも、秀でたものがいるというけれど』
白くひるがえされた動きに呼ばれるかのように、上向けられたアゼリアの掌の上に、赤い靄が緩やかに収束してゆく。
その上に手をかざすと、複雑な印らしき動きを指先で刻み始めた。
「また同じことをしようというのなら、無駄なことよ」
冷ややかにそう告げたナーサディアには応えず、アゼリアは笑んだまま指を動かし続けた。
『妖精などの比ではない輝き…これだけのものを得られれば、この地を砕くなど造作もないこと…』
「…なんですって?」
「…アゼリア!」
それを聞きとがめたナーサディアが問い質そうと唇を開いたのを、飛来したレザンの呼ぶ声が遮った。
対峙する二人を分かつように宙に留まると、赤を纏った少女に問いかける。
「アゼリア…なんでこんなことするんだよ!?ボルンガたちを守るためだってんなら、
もっと他にやりようがあるだろ!?こんな化け物作って、何しようっていうんだよ!」
『…何を…?ふふっ、そんなこと、決まっているでしょう?』
真摯な少年の言葉にも一瞥さえもくれず、ようやく指を止めたアゼリアが、ゆらめく球と化したそれを高く投げ上げた。
思わぬ行為に、その場にいるもの全ての目が軌跡を追う。
と、見る間に宙で弾けたかと思うと、雨の如く赤の花弁が周囲に降り注がれた。
『取るに足らぬ妖精を救い出し、手勢が増えたと喜んだか?馬鹿めが…』
口調とともに、声音まで凄みを帯びたものに変わる。放つ気配さえ変えて、上げられた面はすでに少女のものではなかった。
『妖精ふたりの力で、ここまでに育った…勇者とやらの力を糧とすれば、この魔樹もさらなる成長を遂げられよう…』
身に纏った鮮やかな赤が深紅へと、そして闇の如き漆黒へと染め上げられて行く。
伏せられていた瞼が上げられ、虹彩のない瞳が大きく剥かれる。
背に負った羽根が輝きを失い、あとかたもなく消え去ると、黒味を帯びた唇を震わせて、そのものは自らの名を告げた。
『我は、魔性オルフェア…この地に災いを撒きし者よ』