■My Precious■ あんなさま
「この辺で少し休むとするか」
シーヴァスの言葉に、天使が頷いて同意を示した。
午後のやわらかな陽射しが、森の木々の下に涼やかな影を作り出している。
近くに川があるらしく、さらさらという水音が聞こえ、シーヴァスはそちらへ歩を進めた。
天使もその後をついていく。
川はそれほど大きくはなかった。
浅く、透明に澄みきったゆるやかな流れの前で、シーヴァスが膝を折り、手袋を外して水をすくおうとした。
と、傍らを影がよぎる。
顔を上げると、パシャパシャ、と音を立てて、川を進んでいく天使の姿。
天使は少し行ったところで、シーヴァスを振り向いて明るい声を上げた。
「シーヴァス、冷たくて気持ちがいいですよ!」
「・・・だろうな」
シーヴァスは川底の砂によって濁ってしまった水を見、立ち上がった。
無邪気に笑っている天使を黙って見つめる。
以前の彼なら、一言文句を言っていただろう。
炎王アドラメレクに疑惑を植え付けられ、天使の前から姿を消す前の彼ならば。
一度は天使の信頼を裏切った自分に、彼女は以前と変わらない態度で接し、そして以前と変わらない信頼を寄せているようだった。
「シーヴァスもこちらに来ませんか?」
ゆっくりと水の中を行きつ戻りつしながら、にこやかに誘う。
「いや、遠慮しておく。それよりも、流れに足を取られないよう、気を付けたまえ」
「大丈夫で・・・きゃっ」
天使の体ががくん、と傾いだ。
シーヴァスは反射的に彼女の名を叫び、川に足を踏み入れる。
が、シーヴァスが彼女の元に行く前に、天使は何とか体勢を立て直した。
片手で胸を押さえ、もう片方の手で自分の足元を指差し、びっくり顔でシーヴァスに言う。
「ここ、深くなってます」
呑気とも言える言葉に、シーヴァスは深い息をついた。
「言わないことではない。もう岸に上がりたまえ。これでは私が休めないだろう」
不機嫌そうに言いつつ、水の中を進んで彼女に近づき、手を差し伸べる。
天使には翼があるのだから、別に歩いて戻らなくても良かったのだが、彼女は青年の手を取った。
背を向けて、無言で彼女の手を引いて岸辺に戻るシーヴァスに、天使がおずおずと訊ねた。
「すみません、シーヴァス。怒っているのですか?」
「・・・・・・」
返事が返らないので、心配になる。
「シーヴァス?」
「・・・君は変わらないな」
ぽつりとシーヴァスが言った。
天使は首をかしげる。
いつまでたっても進歩がない、と呆れられているのだろうか?
もう一度謝ろうと口を開きかけた時、水から上がったシーヴァスが手を離して、彼女に向き直った。
亜麻色の瞳が真摯に見つめてくる。
なぜかどきりとして、言葉が出せないでいると、シーヴァスの方が問い掛けてきた。
「どうしてだ? 君は、変わらない。天使だからなのか? 君の信頼を裏切った私に、どうしてそんな風に接することが出来るんだ?」
青年の問いを、彼女が理解するまでには数秒かかった。
大きな瞳をしばたたいた後、また、首をかしげた。
考えを整理しながら、区切るように話す。
「えーと・・・あなたは、私に裏切られた、と思ったのですよね?」
天使の言葉を聞いて、シーヴァスは苦い表情を見せた。
少しの間の後、頷く。
「・・・そうだ」
「つまり、私を信頼していたから、裏切られたと思ったのですよね?」
「何?」
僅かに眉を上げる。
天使はニッコリと笑った。
「だから、いいんです」
「・・・・・・」
真っ直ぐに向けられる、安心しきった笑顔。
その顔を呆れて見ていたシーヴァスは、やがて、くっと喉を鳴らし、笑いはじめた。
「やれやれ。君と話をすると、自分が色々と考えこんでいたことが馬鹿馬鹿しくなってくるな」
天使は笑われる理由が分からず、不思議そうな表情になる。
「そう、ですか? あの事件であなたと話をした時、私はそう感じて、嬉しかったんですけれど。あなたが、レイヴに対するように、私のことも思っていてくれていたと分かって」
「・・・『レイヴに対するように』?」
笑っていた青年の表情が途端に硬くなる。
語尾が刺を含んで、上がった。
「私がレイヴに対して思っているように、君のことを思っている、と本気で考えているのか?」
厳しい顔つきで天使の方に一歩、歩み寄る。
天使は自分が失言をしてしまったことに気付いて、うろたえた。
「す、すみません、シーヴァス。おこがましかったですね、あなたの幼なじみのレイヴと比べてしまうなんて・・・」
彼女の謝罪は、しかし、青年の眉間の皺を深くしただけだった。
シーヴァスは軽く首を振り、溜息をつく。
「君は何も分かっていない」
「え・・・」
亜麻色の瞳を見つめていたはずの彼女の瞳が、不意に、その対象を失った。
腰の周りと手首に感じる、強すぎはしないが、逃れることの出来ない力。
全身を覆う圧迫感と暖かさ。
唇から伝わる熱。
「・・・!」
天使はようやく、自分の置かれている状況に気付いて、身をもがいた。
青年は手首を掴んでいた手を外し、両腕で彼女の腰を抱いた。
それからゆっくりと顔を離す。
彼女の瞳の焦点に再び合わさる、亜麻色の瞳。
「私がレイヴにこんな真似をすると思うか?」
あくまでも真剣な口調だった。
天使は両手で口を押さえて、身を震わせた。
瞳は今にも涙が零れんばかりに揺れている。
だが、彼女は泣かなかった。
「あんまりです、シーヴァス!」
叫ぶなり、渾身の力で青年を突き飛ばす。
予想もしなかった攻撃に、両腕をほどかれたシーヴァスは後ろによろけ、尻もちをついてしまった。
天使は顔中を真っ赤にして青年を見下ろし、今一度叫んだ。
「もう、シーヴァスなんて、知りませんっ!」
唖然としているシーヴァスが引き止める間もなく、翼を広げ、飛び立つ。
中空まで行ったところで、また青年を振り返った。
「シーヴァスの、シーヴァスの・・・バカッ!」
あらんかぎりの声で言い、ふっと姿を消してしまう。
彼女の消えてしまった辺りをぽかんと見ていたシーヴァスだが、じきに、こらえきれないように笑い出した。
片手で腹を押さえ、周囲に響き渡る声で笑う。
ひとしきり笑った後、シーヴァスは少し大きな声で彼女の名を呼んだ。
「驚かせたようだが、今回は謝るつもりはない。私は、本気だ」
返事はなかった。
しばらく待ったが、彼女の姿は現れず、気配を感じることもなかった。
青年は口元に笑みを残したまま、立ち上がって服についた砂を払った。
それから、元の道を辿り、任務地を目指して再び進みはじめる。
シーヴァスは確信していたのだ。
必ず戻ってくる。
彼女は責任感がとても強い。
先ほどの自分の行為でどれほど動揺していたとしても、同行を約束した勇者を途中で放っておくような真似は出来ないだろう。
その推測通り、数10メートルほど行ったところで、小さな音がシーヴァスの耳に届いた。
バサリ・・・
同時に感じる、彼女の気配。
シーヴァスの笑みが広がっていく。
だが、彼は振り返らなかった。
彼女に気付かないふりをして歩き続ける。
おそらく彼女は、赤い顔で、ふてくされたような、困惑したような表情をしているに違いない。
そのうちに、柔らかな、そして咎めるような声で、自分の名を呼ぶだろう。
金の髪の青年は、その時を待った。
プレゼントの箱を開ける、子供のような笑顔を浮かべて。