■馬車に揺られて■ 玉菜さま
インフォスが時の歪みから開放されてから数ヶ月がたった頃。
天使の勇者の一人、シーヴァス・フォルクガングはその婚約者と共に間直に迫った英霊祭に出席すべく馬車でヴォーラスへと向かっていた。騎士団長レイヴ・ヴィンセルラスがこれを最後にヴォーラス騎士団を退役することとなっていたのだ。本当はもっと早く退官したがっていたのだが周囲の人間からせめて英霊祭まではと説得され、今度の式典は騎士団長の退官も重なって例年より盛大に行われることになっていた。
郊外の道は街道と言っても状態が悪く至るところに窪みや石が転がっている。乗り合い馬車よりははるかに良いとはいえ二人の乗った馬車も随分と揺れている。その揺れも気にせず元天使は嬉しそうに変わり行く景色を眺めていた。
「まあ、あれは何ですの?」
「危ないじゃないか。」
不意に身を乗り出した婚約者の手を掴み座席に引き戻す。
「すみません。とっても綺麗だったもので」
「一体何度目だ?揺れるから大人しくしていたまえ。」
「気をつけます。」
申し訳なさそうに項垂れるもまた同じことを繰り返すとシーヴァスは確信していた。伊達に一緒に暮らしてはいない。見るもの聞くもの全てが珍しくて仕方が無い。子供と同じなのだ。
「ねえ、あれは、んぐっ!」
「大丈夫か?」
懲りずに身を乗り出したとき車輪が石に乗り上げ車体が大きくゆれた。
「ん〜〜…。」
「どうした?」
口元を押さえ眉を顰めている。
「舌を噛んだのか?」
コクコクと頷く。
「だから言っていたのに…。」
心底申し訳なさそうに俯いている姿に言葉を切る。よほど強く噛んだのだろううっすらと涙ぐんでいる。不意にシーヴァスが彼女の両手を口元からはずした。
「?…!」
顔を上げた少女に口付ける。いつもの挨拶程度の軽いものではない。傷を確かめるように、深く。
驚いてもがくが背もたれに挟まれ身動きが取れない。その抵抗が収まった頃ようやく唇が開放された。
顔を赤らめ呆然とする姿に笑顔がこぼれる。目を見つめたままそっと手の甲に口付けて囁く。
「痛みは?」
「え?は、はい…。!…あの、今…。」
「どうした?」
「シ、シーヴァス。今、あの…。」
「君にキスをしたが?」
「!」
「恋人からのキスも許してくれないのか?」
「いえ、そんな。そ、そうじゃなくて…、いきなり、あんな…。」
完全なパニック状態に陥った少女は彼の表情までは気付けない。
「あんな?」
「あ、あの…。」
言葉を失い俯く様子に笑いをこらえ、言葉を続ける。
「君は舌を噛んだのだろう?」
「…はい。」
「婚約者が舌を噛んだらああやって確かめるものだ。」
「ええっ!」
「知らなかったのか?」
「え、えっと…。」
「人間界では常識だ。」
「!」
「無論私が舌を噛んだ場合、君はしてくれるのだろう?」
「あ、えっとその…。」
「嫌、か?」
目を伏せ下を向くと、少女はさらにうろたえてしまう。
「そ、そんな、嫌とか、そんな。あの、えっと、でも、私から、シーヴァスに…。え、あの…。」
「……。」
「?…シー…ヴァス?」
肩がわずかに震えている。おろおろしながらもそっと顔を覗きこむ。
「…くっ、くっ、き、君は、疑うってことを憶えてもいいぞ。」
堪え切れず大笑いする恋人の姿に一瞬何が起こったのか判らなかったが、みるみる頬を紅潮させる。
「ま、またからかったんですね!」
「いや、すまない。」
笑い続ける相手に言葉も無く真っ赤な顔で睨み付ける。この元天使は“当然”“当たり前”“常識”といった言葉に弱い。素直な性格と世間知らずだと言う自覚のためそう言われると、多少のことは信じてしまう。
「どうしていつも…。」
「君が可愛いからだ。」
抗議の言葉はあっさりと返され、逆に真剣な顔で聞き返された。
「嫌だったか?」
「え、そんなことは…。」
「嘘を言ったのは謝る。だが、君に触れていたいという思いは本当だ。だからキスした事に謝るつもりは無い。大体、始めから私の言う通り、静かに座っていればこんなことにはならなかったのだからな。」
「気を付けます。」
「当てにならんな。」
「!シーヴァス、何を?!」
「こうしておけば大丈夫だろう?」
しゅんと俯く少女をいきなり横抱きに持ち上げ、ひざの上に座らせる。
「わ、私、大人しくしますから、こんな、あの、降ろして下さい。」
「当てにならないといっただろう?」
「でも、は、恥ずかしいですから。」
「…そんなに暴れると、また、舌を噛むぞ。」
羞恥に頬を染め、何とか膝から降りようとする少女にそっと囁くと、思ったとおりさらに顔を赤らめ硬直する。
「私はそれでもかまわない、いや、そのほうが望ましいが。」
「……わ、わかりました。」
ようやく大人しくなった婚約者に微笑がこぼれる。抱きしめる腕の力を少し強めると僅かに身じろぎした。
「そう緊張するな。と言っても無理かな?できればもう少し力を抜いてくれるとありがたいのだが。」
「…どうしてこんなこと…。」
「言っただろう?君が可愛いから、触れていたいと。他に理由があると思うか?」
「………」
吐息をはいて力を抜く。恥ずかしいけれど、心地よい。そっと頭を彼の胸に預けてみると優しく抱き止められ、心地よさに瞳を閉じる。
無論彼がヴォーラスまでずっとこの状態を続け、あまつさえ馬車から抱き降ろし、レイヴに見せびらかしてやろうと企んでいることなどこの少女は知る由も無い。