「…ってめええっ!!アゼリアを…アゼリアをどうしたんだ!どこにやったんだよ!」
「!待て!お前の敵う相手では…!」
止めようと伸ばされたシーヴァスの手も間に合わず、激した叫びを上げたレザンが飛びかかってゆく。
偽りの装いを脱ぎ捨てた魔性が、黒い玉めいた瞳をわずかに動かしたかと思うと、瞬時に半球を成す障壁が張り巡らされた。
「うわっ!」
「レザン!」
『くく…無様な姿よの…』
弾かれて地に落ちたレザンを見下ろしたオルフェアが、耳障りな笑声を上げた。
「…あなたには、彼の想いの欠片すら分からないのですね」
すぐさま駆け寄って少年を抱え上げた天使が、ひたと魔性を見返すのに、嘲るように唇を歪める。
『分かろうものか。それほどあの妖精に惑うていたか?
確かに、贄としてはこの上ないものであったがな』
「贄…だと?」
シーヴァスは先刻の魔性が漏らした言葉を思い返した。
妖精ふたりの力で、ここまでに育った…
それは、ローザとレザンを差していたのではなく。
「この樹はローザと…アゼリアを糧として育ったというわけか…!」
魔性の唇に浮かべられた薄い笑みが、肯定の意を示している。
『木人どもの力を取り込むつもりであったが…あの妖精自ら贄となることを選びおった
…余程あの魔物どもに情が移っていたと見えるな』
オルフェアは奇妙に青白く染め上げられた腕を差し上げると、背後にそびえ立つ巨木を示した。
『すでにこやつは邪気の味を覚え、闇に堕したわ…
この厭うべき大地の精を吸い上げ、枯らし、生けるものの姿など、
ことごとく根絶やしにしてくれようぞ…!』
紛うべくもない悪意に満ちた言葉に応じたかのように、漆黒の巨木は軋みを上げた。
大地を割って引き抜かれた長大な根は鎌首をもたげ、それぞれの先端に開かれた口には、まさに蛇の如く黒い牙が剥かれている。
さらには、震えだした幹の中央がはぜ割れたかと思うと、裂け目が見る間に広がり、その内から突き上げられるようにして現れた姿があった。
「あれは…アゼリア!?」
ナーサディアが叫んだ時には、すでに皆言葉もなくそれを見上げていた。
闇色の中に浮かび上がる白い四肢には、蔓とも根ともつかぬものが戒めのように絡み付き、さながら磔刑にさらされた罪人を思わせる。
瑞々しくその彩りを見せていたであろう赤の花々は無残に引き裂かれ、うなだれた面に添って垂らされた髪が、剥き出しにされた肌をかろうじて覆い隠していた。
「あ…アゼ…リア…アゼリアぁぁぁっ!」
『くく…何を激することがある?望み通り、愛しい者に会わせてやったのではないか』
未だ天使の手の上で横たわったまま動けずにいるレザンの叫びを踏みにじるかのように、オルフェアは酷薄な笑みを向けた。
『そして、あの愚かしい妖精の望みさえ叶ったであろう?』
「なん…だと?」
『この魔樹の放つ邪気を受けて、木人どもは忌々しい人間どもを滅する力を得るのだぞ。
さすれば、誰に追われることもない…全てが消えた大地に根を張り、
思うさまにふるまうことができるというものではないか』
そう言い放つと、魔性は首を巡らせて、最早魔物と化した樹に囚われた少女を見上げる。
『その礎となれたのだ。さぞや、一命を賭した甲斐があったというものであろうよ!』
「…てめえええええっ!!」
叫びとともに、レザンの全身が閃光を放った。
空間を渡ったのか、瞬時に天使の元から掻き消えた姿がオルフェアの眼前に現れる。
『なにっ!?』
驚愕の声を上げた魔性に向けて、眩い光とともにレザンの振り上げた拳が繰り出された。
咄嗟に避けることすらも出来ず、激しく胸板を突かれた身体は宙を飛び、勢いのままに魔樹の幹に叩きつけられる。
すかさずそれを追ったレザンは、滑り落ちようとしている魔性の腕を掴み上げて留めた。
「…これだけで済むと思ってんじゃねえよな?」
聞くものの耳を疑うような、凄絶な響きを帯びた声音が少年の喉から絞り出された。
表情というものを拭い去った静かな面が、ただ魔性を射抜くように見据えている。
「あいつの思いを弄んでおいて…これだけで済まされるわけないよな?」
『くっ…小物が、増長するでないわ!』
顔を上げたオルフェアの瞳に、ぎらつくような光が灯る。
と、突き出された腕の先から放たれた漆黒の渦がレザンの腹を叩いた。
「っがっ…!」
「あーあ、あの馬鹿が…!」
完全に不意をつかれて、跳ねるように吹き飛ばされた身体が落ちてくるのを、走り寄ったベイルが受け止める。
すぐに跳ね起きたレザンだったが、痛むのか、腹を押さえてうずくまってしまった。
「…くそっ…あの野郎…」
「ったく、世話のやける奴だよな、お前さんは」
我ながら面倒見のいいこった、と呟いて、そのまま小さな身体を肩に乗せると、
「どうやらこっからが本番だぜ?さっきの二の舞は踏まねえこったな」
「いちいち癇に障る言い方すんなっ!」
「事実なのだから仕方あるまい?…はああああっ!!」
素早く走り出たシーヴァスの剣が一閃し、二人の足元に迫り来ていた根の群れを薙ぐ。
その一撃で五つあまりの首が飛んだが、さらなる数のそれが辺りを覆い尽くすかの勢いで地を這い寄ってきている。
「これじゃきりがないわね。なんとか元を断たないと…」
「!だめだ!そんなことしたらアゼリアが…!」
眉を寄せたナーサディアの言葉にレザンが叫んだ直後、高らかに命じるオルフェアの声が轟いた。
『…目覚めよ、魔樹よ!小賢しい天使どもを滅するのだ…!』
魔性の身体から、うねりを帯びて力の波が魔樹に向けられる。
周囲の瘴気をも巻き込んで、激しい流れを成した闇色の靄が、磔とされたアゼリアの姿を包み込み、覆い隠してゆく。
「いけない…!これ以上の邪気を浴びせては…!」
サリューナが防ぐべく急ぎ呪を唱えはじめたその時、白光が閃いた。
「なんだ…!?」
黒い靄を内側から弾き飛ばすように放たれたそれは、見る間に淀んだ視界を晴らしてゆく。
そして、飛散した光が形を成したかのように、細かな白の切片が辺りに降り注いだ。
「これ…っ、サリアだ!」
レザンの声が終わらぬうちに、淡雪の如く舞い下りた花々が漆黒の根に触れる。
と、次第に蠢きが鈍くなってゆき、やがて完全に動きを止めていった。
「…この樹も…ボルンガ達も……レザンも…誰も傷つけさせない…」
細く、今にも途切れてしまいそうな微かな声音が、鼓膜を震わせる。
それがあの少女のものであると気付いて、シーヴァスが顔を上げた刹那、
「あ…アゼリアっ!」
誰よりも早く反応したレザンが、弾かれたようにベイルの肩を蹴って飛び出した。
無意識の内に呪を紡ぎ、空間を渡ったのか、次の瞬間にはレザンはすでに少女の元まで辿りついていた。四肢をとらえている黒い蔓めいたものを引き千切ろうとするが、幹に硬く食い込んででもいるのか、微動だにしない。
うつむけられた顔には生気がなく、レザンの脳裏にもしやという思いが走った。
「アゼリア…っ、アゼリア!おい、しっかりしろ!生きて…生きてるんだろ!?」
名を呼びながら華奢な肩を掴み、いささか乱暴なまでに揺さぶる。
と、少女はぴくりと身じろぎをしたかと思うと、赤い髪が流れ揺らめいて、緩やかにその白い面が上げられた。
「…レ…ザン……来て…くれたの…?」
震える声とともに、紅炎石を思わせる色合いの瞳から、透明な雫が零れ落ちる。
彼女の無事が未だに信じられず、レザンは言葉もなく少女を見つめていたが、煌く涙にはっとして我に返った。
ようやく呪縛から解かれた手を伸ばして、濡れた頬をそっとくるんでやると、
「…怖かったろ?もう大丈夫だから…」
声も出せずに、ただ頷く少女の髪を撫でながら、レザンはあやすように優しく告げた。
「気付くのが遅くて、ごめんな…俺が守ってやるから…泣かなくていいんだ。な…?」
「…うん…有難う、レザン…」
そう言って、小さく唇に刻まれた微笑みは、確かにレザンが見出した少女のそれであった。
『く…くそっ…まだそのような力を残していたとは…!』
背後で上がった魔性の呻きに、鋭くレザンは振り向いた。
見れば、振り撒かれた白い花を浴びた肌は焼け焦げ、ただれて醜悪な傷口を見せている。
『まさか浄化の力を持っておったとはな…道理で最後まで取り込めなんだはずよ』
それを聞いてレザンも腑に落ちた。
稀に、天使が持つほどの浄化の力―魔を滅し、闇に帰す力―を持って生まれる妖精がいる
と言われている。あれほどの邪気を受けてなお、無事にいられたのはそのためだったのだ。
『だが、このままでは済まさぬ…!』
ぎらりと憎悪に光る瞳が向けられると、俄かにざわめきが起こった。
高く伸ばされた枝葉が、ぎこちない動きを見せながら人の腕のように自らをしならせてゆくと、幹の中心にびしりと音を立てて亀裂が走る。
左右に引き裂かれてゆく樹に、未だ捕らわれたままのアゼリアが悲鳴を上げた。
「きゃああっ…!」
「アゼリア!」
きつく巻き付いた蔓に腕を、足を引かれて、痛みに顔を歪めるのを、レザンは必死で助けようと試みる。
「…!!」
亀裂がアゼリアの背後にまで達し、声にならない声を少女が上げるのが見えたその刹那、
「そこをどきなさい!」
鋭く投げかけられた声とともに、風の如き一撃が飛来し、幹に叩きつけられた。
衝撃で窪みが生じるほどの重い打撃に、裂け始めて脆くなっていた蔓が千切れ飛ぶ。
力の限り拳を奮ったその者が素早く腕を引くと、高く結い上げた緑の髪がひるがえった。
緑の疾風かと見えたそれは、アゼリア―いや、オルフェアが閉じ込めていた妖精ローザであった。
「今よ!早く彼女を助けなさい!」
そう告げると、戒めを解かれたアゼリアの身体が、支えを失って落ちてゆくのを振り向きもせずに追う。
半ば茫然としていたレザンは、その声に我にかえると、慌ててその後を追った。
「アゼリア…!」
長く捕らわれていたためか、羽ばたくことすらできずに落ちてゆく少女が、呼ぶ声に顔を上げるのが見えた。
自分に向けて伸ばされた腕を掴むと、渾身の力を込めて引き上げ、飛び込んでくる身体を抱きとめ、きつく抱き締める。
「…レザン…!」
「…もう、離さねえからな」
耳に注がれた声と、しがみついてくる両腕に確かなものを感じながらレザンが顔を上げる。
と、その様子を微笑んで見つめているローザの瞳に気付いて、一瞬の内に耳まで朱に染め上げた。
「ローザ!もう大丈夫なの!?」
「ごらんになった通りです、天使様…有難うございます」
淡い緑の羽根をひらめかせ、天使の傍らに舞い戻ったローザはそう言って笑んでみせた。
「ですが、生憎と再会を喜んでいる暇はなさそうですね」
そう告げて、すぐに表情を厳しくすると、異音を上げ続けている魔樹に目を移す。
その視線を追うまでもなく、皆一斉に顔を向け、一点を見据えていた。
すでに根元まで達していた亀裂は、巨大な幹をついに真二つに割った。
地響きを立てて倒れて行くそれの内部は密ではなく、だが虚ろというわけでもなかった。
空洞を満たしていたのは、どろりとした液体めいたもの。
漆黒から濃紫、青を経て深紅へと変化を見せているそれは、地面に流れ出すかと思えたが、
オルフェアの紡ぐ呪に導かれてのことか、立ち上がり収束し、じきに球形を成した。
『ふふ…随分と質の良い邪気が集うたものよ…』
そう低く漏らすと、魔性はためらいもなく揺らぐ球へと身を投じた。
波紋すら立てず、ひどく滑らかに魔性を呑み込んだ球体が、一拍を置いて蠢き出す。
飛沫を散らせて高く伸び上がったそれが、見る間に姿を変えて行く。
「…なんだあ、ありゃあ…」
驚きというよりはどこか呆れたような響きを帯びて、ベイルの声が流れた。
ほどなく出来あがったそのものは、人と似通った形ではあったが、明らかに異なっていた。
長く伸ばされた髪と見えるのは、枝垂れた無数のしなる枝。
肌は無論人のそれではなく、節をもった木肌に覆われ、四肢にあたるその先端には、指の代わりとばかりに、鉤爪の如く鋭く尖った根が張り出していた。
『魔樹に直々にこの地を蹂躙させるつもりであったが…もうよいわ』
節を軋ませながら、拳のように根を握り込んだものが、伏せていた顔を上げた。
「!あ…!」
思わず両手で口元を押さえたアゼリアの肩を、守るように抱いていたレザンも表情を険しくする。
そこにあったのは、木肌に浮き上がった魔性オルフェアの相貌であった。
ひび割れた唇が、ボルンガの柔和ともいえるそれとは対照的な、邪悪な笑みを形作る。
『なんと心地よい邪気がこの身の内に満ちていることか…
貴様らの、この樹の、そして大地の上げた悲鳴が聞こえるようだわ』
ざわりと音を立てて、天に向かうように逆立てられた枝から、鉤を備えた棘が四方に突き出す。
五本の刃と化した根をひらめかせた魔性が、高らかに声を上げた。
『天界に従う愚かしいものどもよ…自ら生み出した怨嗟の力に打たれるがいい!』